正当防衛③
「取り調べの様子を見ておいて、後で詳しく教えてくれ」と祓川は言って立ち上がった。
「何処に行くのですか?」という服部の質問には答えずに出て行った。
仕方がないので、マジックミラー越しに、上田の事情聴取の様子を見学させてもらった。
取調室に、陰気な顔をした中年の男が座っていた。
五十代だろう。だらしなく伸ばした髪に、白いものが目立つ。毛量が多く、薄毛とは無縁のようだ。顔に皺が多いが、目鼻立ちのすっきりした顔で、真一文字に結んだ口元の右端が吊りあがっている。半笑いをしているように見える。何処か酷薄な印象を人に与えてしまう。
取調室にやって来た上田を、座ったまま見上げて、「ああ、刑事さん」と言った。今村が後に続く。上田が男の対面に腰を降ろし、今村が記録席に着いた。
「あなたがマンションのベランダから北城大祐さんを突き落とした。間違いありませんか?」上田が尋ねると、男は「ああ、私が突き落とした――と言うと、少々、語弊がありますな。まあ、突き落としたみたいなものですけどね」とふてぶてしく答えた。
「先ずは、あなたのお名前からお聞きしましょう」
「田川です。田川敦也と言います」
「パークフォレスト調布にお住まいですか?」
「はい。パークフォレスト調布のD棟十二階の二号室に住んでいます」
遺体が十二階から転落したのだとすると、損傷が激しいのが頷けた。
「被害者の北城さんとは、どういったご関係ですか?」
「北城さん? あのベランダから落ちて死んだ人のことですか?」
「ええ、そうです。名前をご存知なかったのですか? 昨日の夜、あなたの部屋を訪ねて来たのでしょう? 親しいご関係なのではないのですか?」
「親しい関係ではありません。会ったのは昨日が始めてです」
「昨日、初めて会った? よく分かりませんね。初めて訪ねて来た人間を部屋に上げたのですか? そして、ベランダから突き落とした」
「だから、先ほども申し上げた通り、私が突き落とした訳ではありません。結果的にそうなっただけです」
「最初から、順を追って説明してもらえますか? 昨晩、一体、何があったのですか?」
「いいですよ」と言って、田川は「私はね。以前、四国は高松で会社を経営していました」と自らの経歴から話し始めた。
「親父がね。ちっとは名の知れた投機家で、株で稼いだ金でスーパーマルタと言うチェーンストアを始めました。最盛期には香川県と岡山県を合わせて六十店舗を展開していましてね。地元じゃ、誰でも知っているスーパーでした。私はね、親父からそのチェーンストアを相続しました」
投機家とは株式や不動産などに資金を投入して、巨額の利益を上げた人物を言う。特に、大正、昭和の初期には、投機で財産を築き上げた投機家が大勢いた。
田川敦也の父、喜一郎もその一人だ。喜一郎は主に不動産投資で得た資金を元手に、一代で高松にストアチェーンを築き上げた。その親の財産を敦也は受け継いだ。
「ところがね、スーパーの大型化で小売商売が厳しくなって来ましてね。親父の血なのでしょうね、私ね、こう見えて投機の才能があるのです。そこで――」
今から十七年前、スーパーの経営に見切りを付けた敦也はスーパーマルタを売却し、その金でタガワ・コーポレーションという不動産会社を立ち上げた。
「スーパーの次は不動産屋ですか?」
「もともと、うちは不動産の売買で財を成した家ですから、本業に戻っただけですよ。暫くは、自分で言うのも何ですが、飛ぶ鳥を落とす勢いでした。随分と稼がせてもらいました。高松じゃ、不動産王なんて呼ばれた時期もありました。親父の血なのでしょうね。ところが、ですよ」
米国の大手投資銀行の経営破綻を発端とする世界的な金融危機が襲った。
「あっという間に財産を失いました」不動産バブルが弾けて、タガワ・コーポレーションは倒産の憂き目にあってしまった。
「不動産を扱うのは懲りました。そこで、有り金をかき集めて東京に出て来ました。残った資金を元手に、株式投資や外国為替なんかをやって、糊口をしのいでいます。もともとばくち打ちなのです、私は。ばくち打ちの才能はあるみたいで、食うに困らない生活をしています」
東京に出てきたと本人は言うが、夜逃げ同然で逃げて来たに違いない。
「さて、そろそろ被害者との関係を教えてもらえませんか?」
「ああ、身の上話が長くなっちゃいましたね。そうそう、あの人の話でした。まあ、これでも私、投機筋ではちょっとは名の知られた人間でしてね。北城さん・・・でしたっけ、儲かるプロジェクトがあるので、相談に乗ってもらえないかと言う話でした。もうけ話です。北城さん、昔の私と同じ不動産屋で、もうけ話だと言うので会う気になりました。
まあ、悪い話じゃなければ相談に乗っても良いなと思って、部屋に上げたのですが、話を聞いて、直ぐにこりゃダメだと思いました。ビジネス・プランがね、もう無茶苦茶で――」
「ビジネス・プラン?」
「事業計画です。ほら、例えば会社の商品があって、その市場規模がどれくらいで、どういう販売戦略で商品を売って行くのか――というような計画です。北城さんの場合、着想は良かったのですが、具体性がいまひとつでした」
北城は日本の各地に増えつつある空き家をリフォームし、コテージや別荘として貸し出すことを考えていた。都内からほど近い場所で、景観が抜群な空き家を幾つかピックアップしてあり、リフォームの為の資金を必要としていた。
何処からか田川が金を持っていることを聞きつけ、融資を頼みに訪ねて来た。
「もう不動産への投資はこりごりでしたから、断ったのですが、しつこくてね。あまりにしつこいものだから、段々、激昂して、喧嘩腰になって、言い争いになってしまいました。『あんたには無理だ!』と言うと、北城さんは顔を真っ赤にして怒鳴りだして、襲い掛かってきました。
ええ、もう、命の危険を感じました。部屋中、逃げ回って、ついにベランダに追い詰められてしまいました。もうダメだと思いましたね。でね、彼が襲い掛かって来た瞬間、咄嗟に身をかがめたら、彼、私に躓く形になって、あっという間にベランダから転落して行きました」
「北城さんに襲われたと言うのですか・・・」
「刑事さん、こう言うのって、ほれ、正当防衛って言うのでしょう。私はね、彼に襲われて、逃げ回っていただけなのです。彼が勝手に私に躓いて、ベランダから転落したのです。私に罪はありません」そう言う田川の顔には、うっすらと微笑みが浮かんでいた。
人が一人、死んでいるのに、笑っていた。田川の薄ら笑いを見た途端、上田は無性に腹が立ったようだった。
「北城さんが、あなたを訪ねて来た訳が、もうひとつはっきりとしませんね。以前から、お知り合いだったのではないのですか?」取り調べに熱が入る。
「いいえ、とんでもない。あの日が初対面でした」
「では、北城さんはどうやってあなたを知ったのでしょうか?」
「さあ、先ほども言いましたけど、私は業界ではちょっとした有名人ですからね。誰かから私の名前を聞いたのでしょう」
「知り合いからの紹介だった訳ではないのですね?」
「ええ、まあ」田川が曖昧に答える。
「夜中に初めて訪ねて来た、素性も知れない人間を、あなたは家に上げるのですか?」上田の口調が詰問調になる。
「もうけ話はどこに転がっているか、分かりませんからね。夜中も昼間もありませんよ。多少、胡散臭くても、もうけ話を持って来てくれる人間とは会います」また田川が薄ら笑いを顔に浮かべた。
「事件当時の様子を証言してくれる方はいませんか? ご家族はいかがです?」
田川があけすけに言う。「はは。生憎、天涯孤独、独身を貫いているものですから、家族なんていません。まあ、たまに女性と同衾することはあるのですが、残念ながら昨夜は一人でした」
「そうですか・・・北城さんが、あなたを訪ねて来た用件は何だったのですか? もう一度、詳しくお聞かせ頂けませんか?」
「もう一度ですか・・・先ほども言いましたけど、要は私にお金を借りに来た訳です・・・」
田川の供述が続く。同じことを何度も尋ねて供述の矛盾点を見つけ出すことは、取調べの常道だ。だが、どこか人を喰ったところのある田川を少し締め上げてやるかと、上田は思っているようだった。
上田が後ろで記録をとっている今村を振り向いて、人差し指と親指を広げて見せた。取り調べが長くなることを伝えたのだ。
無口で生真面目な今村は口元を固く結んで、かすかに頷いた。