第46話 ファースト•キス?
絢香の唇が近づいてくる。
この子、初めてなのかな。
唇が震えてる。
きっと、そうだよな。
俺にとっては、キスなんてさほどのことではないけれど、この子にとってファースト•キスは……、きっと特別なものだよな。
ちゅ。
俺は絢香の額にキスをした。
「えっ……」
絢香は目をまん丸にして額を押さえた。
「やっぱ、わたしなんかイヤ?」
俺は首を振った。
(キスよりも、その肉感的なボディに興味があるなんて言ったら、台無しだよな)
「額のキスじゃイヤ?」
絢香は、ぶんぶんと首を横に振った。
「そんなことない」
俺は絢香の手を握った。
「今日は帰ろうか。キスしたらきっと、気持ちが膨れ上がって、最後までしたくなっちゃうと思うし。今日だけじゃ済まなくなっちゃうよ」
(ご無沙汰歴長いからね、この性衝動はキスだけじゃ止まらん。ふふっ)
絢香は笑った。
「はい♡ 可愛い下着、次もつけてきた方がいいですか?」
次もあるのか。
「そだな。むしろ、毎回お願いっ!!」
俺は手を合わせた。
「ふふっ。みつきくんって、時々、おじさんっぽいっていうか、お父さんと話してるみたい」
「中身おっさんで悪かったな」
「ううん。イヤじゃないよ。大切にしてくれるし……、たまにキザで可愛いし♡」
俺は絢香の手を引いて立たせた。
桟橋のへりを歩くと、かもめの鳴き声と波の音が交互に聞こえてくる。穏やかな時間だ。
なんだか、俺も良い思い出ができたよ。
暗くなってしまったので、絢香の家の前まで送ることにした。家の前につくと、玄関脇の街灯のあたりに、ふらりと人影が見えた。
絢香は俺にしがみついた。
人影はどんどん大きくなって、街灯のあかりに照らされた。
陸だった。
陸は絢香と目が合うなり、頭を下げた。
「ごめん、絢香ちゃん。おれ、どっかで調子にのってたんだと思う。ごめん……、ほんとは、傷つけるつもりなんてなかったんだよ。ごめん」
絢香は腕を組もうとしたが、やめて、陸に頭を上げさせた。
「事情を説明して」
「うん。ひどいこと言ったのは事実だし、取り消せないって分かってる。でも、あの時、ある男子が絢香ちゃんのこと噂するようになって。ほんとは、俺が絢香ちゃんを守らないといけないのに、ハブられるの怖くてさ。そいつと違うこと言えなくて。卑怯なやつでごめん」
それを聞くと、絢香は悲しそうな顔をした。
……同調圧力。
前俺の会社でこんなことがあった。
ある後輩(仮名A)が上司に目をつけられた。
その上司は、元々好き嫌いがある人だったが、そいつとは特に馬が合わないらしく、事あるごとに「無能」、「やる気がない」と、Aの人格を否定し、責め立てた。
Aは普通の社員だ。モチベの塊ではなかったが、姿勢は他の社員と変わらなかった。しかし、責められているうちに、彼は萎縮し、ミスを多発するようになった。
そして、同僚にも煙たがられるようになり、いつしか彼の周りは敵だらけになった。周囲も彼を「無能」、「やる気がない」などと批判するようになったのだ。
こうして、同調圧力は、やがてバイアス(偏見)になった。
そんなある日、ある女性社員が、Aに「気色悪い」と言った。
次の日、彼は自殺未遂をした。
管理責任を問われた上司は飛ばされたが、Aが会社に戻ることはなかった。もしかしたら、社会という仕組みに戻れなくなってしまったのかもしれない。
しばらく経った頃、彼を中傷した女性社員と個人的に話す機会があった。すると、彼女は「皆んなでAに酷いことをしてしまった」と泣いたのだ。
そのとき俺は、「どの口が言うんだ」と思うと同時に、集団心理……集団同調性バイアスの怖さを目の当たりにした気がした。
俺自身はAの話を聞いたり、パワハラ委員会に相談するよう助言したが、自ら通報したり、上司に楯突いたりはできなかった。だから、俺も彼らと変わらない。
さて……。
空は意図した訳じゃないのかもしれない。だが、彼と違うことを言えば「ノリの悪いヤツ」という烙印を押すような雰囲気を作り出したのだろう。
同調圧力は、怖い。
圧力下に置かれている者にとっては、抗えない強力な呪縛だ。
そして、良心の呵責から目を背けるために、やがて、対象の欠点を粗探しして、自分も主体的に悪口を言うようになる。
陸の話を聞き終わると、絢香は言った。
「それ、言い出したの空くんだよね? わたし彼のこと好きだったんだ。それが誰かから伝わっちゃったみたい。わたし、こんなだからさ。なんだか遠ざけられるようになっちゃった。だから、きっと、陰口もそのせいじゃないかな。でも、それならそうと、言ってくれたら良かったのに」
陸の目から涙がこぼれ落ちた。
「ごめん、俺も絢香ちゃんが好きだって知ってたから、空が言ったって知ったら、絢香ちゃんが余計に傷つくと思って。どう言えば良いか分からないし、俺が悪いのは事実だし」
絢香は陸の手を握った。
「そうか。わたしこそ、陸の話をちゃんと聞いてあげられなくてゴメン」
「俺の方こそ、なんか逆ギレしてごめん」
さて、俺の役目は終わったようだ。
帰ろうとすると、陸に声をかけられた。
(さては、感謝でもされるのかな?)
「あの。今回は俺のために動いてくれたの頭では分かってます。でも、俺は、あんたのやり方ムカつくし、あんたのこと大嫌いなんで」
……。
だって、のんびりやってたら、合唱会に間に合わないじゃない……。
まあ、あれだ。
俺は、めでたく後輩に嫌われたらしい。




