第13話 飯塚紫乃は君といたい。
「紫乃ちゃん、ピアノが弾けるって本当?」
初めて聞いた君の声は、そんなありきたりな会話の中でだった。
最初は軽い印象の男の子。
そんな美形じゃないのに、何故か、君の周りには女の子が沢山いた。
その頃だったかな。
私が、自分の指先に違和感を覚えたのは。
ずっと音楽をやってきた。
子供の時に、初めて通ったピアノ教室では、天才だなんて言われて。当然、大人になったわたしは、世界中を飛び回るピアニストになっているのだと思ってた。
でも、違和感は少しずつ大きくなって。
きっと、他の人には分からないくらいの違和感。
でも、それは……。
わたしにとってそれは、大きな絶望感だった。
ピアノを弾くたびに、ピアニストとしてやっていくことが不可能だと思い知らされてしまう。
パパもママも、わたしがピアノを弾いていると喜んでくれて、沢山の負担をかけてしまった。そのうち、部屋に並んでいるトロフィーや賞状をみるのも辛くって。
全部すてて、私自身も捨てようと思ったら、君にまた出会った。
君は言ったね。
「要らないなら、君をちょうだい。俺が幸せにするからさ」
すごく安っぽくて、ありきたりな言葉。
でも、その言葉を聞いたら、涙が頬から伝い落ちたんだ。まだ付き合ってもいないのにプロポーズされるなんて。
わたしは、気づいたら「はい」って答えてた。
わたしと結婚する人は、本当は魔女との契約をしてもらわないといけないんだよ?
契約で魂までがんじがらめにする。
それが古くからの習わしなの。
でも、君の決意は、きっと契約よりも強固で。だから、そんなものいらないと思った。
女の子が大好きで、自分勝手な旦那様。
きっと、わたしの病気についても、沢山調べてくれたのだと思う。
そのせいかな。
君は言ったんだ。
「誰かにピアノを教えてみない? 紫乃のピアノが残ったら、俺も嬉しいし」
残酷なことを言う人だなと思った。
でも、わたしが居なくなった後に、わたしが伝えた誰かの音が、君を支えるのかも知れないと思った。
だから、わたしは、ピアノの先生になった。
きみのおかげで、ピアノの近くにずっと居ることが出来たよ。
わたしが教えた亜麻色髪の女の子。
ちゃんとピアノを続けてくれてるのかなあ。
入院してからは、レッスンできなくなってしまったけれど、まだ続けてくれてるといいな。
入院してからは、わたしの体調は、ずっと優れなくて。君は毎日来てくれたのに、良くならなかった。そんな自分の身体が許せなくて、何度も、周りに八つ当たりをしてしまった。
だけれど、君は、プロポーズの言葉通りに、わたしに最後まで寄り添ってくれた。でも、そのせいで、君に子供を持つことも、人並みに幸せな家庭……愛を経験させてあげることもできなかった。
ごめんね。
だから、君にこの薬を遺すことにした。
わたしのために使わせてしまった10年間。君の時間はずっと続くものだと思って、甘えてしまった。わたしが奪ってしまった君の幸せを、少しでも取り戻して欲しかったんだ。
また青春をして、恋をして、夢を見て。
そんな時間を過ごして欲しいんだ。
わたしには、わたしには。
君がくれた時間で十分だから。
みっくん。
いま、君が贈ってくれた夜想曲を聴いているよ。君が弾いた、赤ちゃんのよちよち歩きのような夜想曲。
夜想曲第2番 変ホ長調 作品9-2。
ショパンが小さな部屋で孤独と向き合って書き上げた曲。この美しいメロディは、大切な人への気持ちが溢れている。
君が意図したかは分からないけれど、今のわたしに向けられて演奏してくれているみたいだ。
あの時は、偉大な作曲家への冒涜だぁ、なんて揶揄ってしまったけれど、本当は嬉しかったんだ。きっと、たくさんたくさん練習してくれた。そんな君の想いが詰まってるよ。
……ここからみえる星空は綺麗だよ。
こんな小さな箱みたいな部屋だけれど。
君のおかげで、星の美しさが分かる。
この星空は君に繋がってるのかな。
また、ピアノを弾きながら、君と星を見たかったな。
……みっくん。
わたしは、本当は怖いんだ。
死にたくない。
君と一緒に歳を重ねたい。
わたしは欲張りだから。
心のどのかで願ってしまう。
わたしを忘れて欲しくないよ。
また君に触れたいよ。