第1話 紫乃の秘薬。
人生は旅だ。
この言葉を最初に聞いた時、俺は、なんて陳腐な喩えなのだろうと思った。
でも、妻が命の瀬戸際である今。
俺は、この言葉の通りであって欲しいと願っている。
人は何も持たずに身体一つで生まれてくる。
そして、好きに生きて、きっと、好きに死んでいくのだ。
思い通りになることも、ならないことも。
あるいは、出来たのに、しなかったこともあるかも知れない。
しかし、やり残しの多寡にかかわらず、何も持たずに死んでいく。
俺は死とは、ただの「無」であると思っていたし、それで良いと思っていた。
だが、散りゆく最愛の人にとっては、それは「旅」であって欲しい。
俺は彼女に、何かを与えることが出来ただろうか。彼女の旅に、餞を持たせることはできたのだろうか。
ピピピピ。
けたたましい警告音が鳴り響く病室で、医師や看護師が慌ただしく行き来している。
俺はその様子を、ただぼーっと。
どこか、他人事のように眺めていた。
この病室にいるのは、俺の妻だ。
ピアノを教えていた彼女と知り合って、もう20年近い。
誰にでも自慢できる妻だ。
そんな事を思ったとき、電子音が止まった。
やがて、AEDが持ち込まれた。
医師がカウントすると、妻を電気ショックで鞭打つ音が、何度も何度も病室に響いた。
しばらくすると、別の医師がやってきて、妻の様子を確認した。
医師は落ち着かない様子で何かを言っている。
「全力を尽くしたのですが……力が及ばなくて……」
どうやら、俺の妻は死んだらしい。
彼女は、明るくハツラツとしていて、自由奔放で。春の嵐のような女性。つまらなかった俺の人生を華やかに彩って、そして、散りゆく桜のように、ふわりと目の前から去っていく。
こんな終わり方は、一緒に歳を重ねて、穏やかに別れを実感するよりも、彼女らしいのかも知れない。
自慢の妻だったが、ずっと病室だったし。ついには、誰にも自慢する機会はなかったなぁ。
しばらく、彼女の横に座ってそんなことを考えていると、妻の担当だった看護師さんに手紙と小箱を手渡された。
「これ、奥様からです。ご主人がいらっしゃる前に、これをお預かりしました」
妻の闘病は10年近くに及んだ。
最近では、妻は殆ど目を開けることはなく、1日の大半を夢の中で過ごしていたので、少し驚きだった。
封筒を開けると、便箋が入っていた。
それは、弱々しい字で。
こんな始まりだった。
「拝啓。旦那様」
文章は続く。
「ここ10年近く。君に沢山の時間を使わせてしまいました。他のみんなは、きっと、もう子供を育てていて、たくさん、旅行とかイベントをして。だけれど、君はずっと私とこの病室で一緒にいてくれて。なんだか、たくさん幸せを諦めさせてしまった。ごめんね」
「前に、私は魔女の一族なんだって話だことを覚えている? あれね。本当なんだよ。だから、君に最後に、これを贈ります。これはね、1年間限定で人生をやり直せる秘薬。もし、1人が辛くて我慢できなかったら、これを飲んでね。これから続く君の数十年。私の影だけを追って過ごすには長すぎるよ。だからね。感謝の気持ちを込めて、コレを君に渡すんだ。きっと、また君は旅に出ることができる」
「それと、……その世界には、私は居ないから。私を探したりしないように。きちんと、10年間を取り戻すように。沢山、青春して、勉強して」
そのあとは、何度か書き直した跡があった。
視界が霞んでしまって、手紙がよく見えないや。
手紙はまだ続く。
「……、そして、素敵な恋をしてね。私は、君がくれた時間で十分すぎるから。それと、最後に。私と出会ってくれて有難う。君の旅立ちに幸せが訪れますように」
俺は手紙を閉じた。
ポタポタと、手の甲に水滴が落ちている。
花粉症のせいかな。
涙がしみて、頬が痛いや。
旅立つのはお前だろ。
紫乃。
俺の心配をしてどうするんだよ。
最後の10年間も。
この部屋で沢山の話をして。
俺も幸せだったし。
それにしても、魔女の秘薬だって?
いつも突拍子もなかったけれど、ここに極まったなぁ。
俺は箱を開けた。
すると、小指の先程の小瓶が入っていた。
真っ赤な液体。
なんだか刺激臭がする。
……これ、ハバネロか何かなんじゃないか?
最後の激辛ドッキリ。
紫乃なら十分にあり得る。
とはいえ、捨てる気にもなれず、俺は箱を閉じた。
あれから2ヶ月近くが過ぎ、妻の四十九日が終わった。俺には両親がいないから、来たのは、彼女の母親と親戚がパラパラ。
法要が終わると、義母が話しかけてくれた。俺は肩をポンポンとされた。
「あの子と居てくれてありがとう。光希くん。君はまだ40代なんだ。紫乃の影を追いかけて人生を終わらせるには早すぎる。10年も看病してくれて……十分だよ。これからは、紫乃に遠慮せず、自分の幸せを掴むんだよ?」
「……ありがとうございます」
「泣いてるし。はぁ。あの子も心配しちゃうよ。シャキッと前を向きなさい」
そう言うと、義母さんは帰っていった。
実母がいない俺にとっては、母親のような存在。少しミステリアスな雰囲気で、でも優しい人。
しばらくすると、まばらだった参列者も帰ってしまい、一人ぼっちになった。
家に帰って、ただ1人で過ごすのか。
また明日から仕事だ。
部屋を見渡すと、埃の被ったピアノと、少し湿った楽譜。そして、写真が見えた。
写真の紫乃は、どれもまだ20代で若々しい。
「きばって一軒家を買ったけれど、……1人で過ごすには、広すぎるだろ。あぁ、酒で飲むかな」
それから俺は冷蔵庫にあったワインやビールを飲み尽くし、それでも、酔えなかった。
紫乃が亡くなってからの2ヶ月弱。
結局、紫乃の事を考えなかった日はなかった。妻のことを考えなかったことは、片時もなかった。
毎日毎日、同じようなことをグルグルと考えている。俺は、自分が思っていたよりも、ずっとずっと。
彼女のことが好きだったらしい。
ポロン……。
ピアノの蓋をあけて、適当に鍵盤を押した。
彼女が弾く、美しい音色。
いまは、露に消えてしまった。
「……死のうかな」
すると、ふと、妻が遺した小箱のことを思い出した。
どうせ死ぬなら、最後のドッキリにひっかかってやるか。
俺は小箱をあけ、小瓶の蓋をあけた。
唐辛子のような凄まじい刺激臭が、鼻を刺す。
俺はそれをつまむように持つと、息を止めて一気に飲み干した。直後、頭の中がぐらんぐらんして、意識が途絶えた。
「頭が痛い……。紫乃め。なんてもん飲ませるんだよ」
目を開けると、見慣れた天井が見えた。
周りを見渡す。
そこは、見慣れた……、いや、見覚えのある高校まで俺が過ごしていた部屋だった。
鏡をみると、そこに映る俺は若かった。
16か17際くらいに見える。
部屋には見覚えのある品々が並んでいるが、少し違うところもあった。
壁に掛かっている制服がブレザーだった。
俺が通っていた高校は学ランだった。
だから、ここは……。
「……夢か?」
バチンッ!!
「痛っ」
頬を叩くと、普通に痛かった。
夢ではないらしい。
じゃあ、この世界は何なんだ。
カレンダーは、2025年の3月。
紫乃の四十九日をした日だ。
過去に戻った訳ではないらしい。
すると、下から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「みつきー!! 大丈夫?? なんか凄い音がしたのだけれど……」
ドアが開くと、そこには、ずっと前に亡くなったハズの母さんが立っていた。
「母さん」
母さんは笑った。
「どうきしたの? みつき。 泣いちゃってるよ?」
どうやら、俺は並行世界にいるらしい。
新連載です。
ストックがありませんので、ゆっくり更新になると思いますが、よろしくお願いします。
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