第5話 夜
その日の夜。
フローレンスはシチューを二杯食べ、床に就いた。
暖炉の炎に照らされながら、やや逡巡した末にヒュウガは手紙を書き始めた。
『前略。
急な手紙で悪い。
マウルの間者だったらしい女を拾った。
どうも、遺跡の巨人を……』
ペンが止まる。
ヒュウガはその書き損じを暖炉に放り込んで、うたた寝をしているブランに話しかけた。
「本当に、お前ぇさんは厄介なモンを見つけたよ。」
聞いているのか、いないのか、ブランは目を閉じて休んでいる。
ヒュウガは小さくかぶりを振り、ランプを持ちあげる。
そのまま屋根裏に続く階段を上り、倉庫にしている屋根裏部屋へと入っていった。
木箱に詰めた様々な荷物が乱雑に積まれている部屋の中、クローゼットにしている一角がある。
その蛇腹の扉を開き、彼は一着のコートに手をかけた。
『影の兵士隊』の制服だ。
「参ったね、どうも……。」
横目でコートを眺めつつ、蛇腹の扉を閉める。
肌寒い部屋の中で、ヒュウガは木箱に腰かけ、つぶやいた。
「元間者同士が一つ屋根の下かい。
あの女を売るつもりはねぇが……監視は必要ってか……。」
ガシガシと頭を掻く。
「悩んでもしゃぁねぇな。
ま、なるようにしかならんか。」
それだけ言うと、ヒュウガは立ち上がり、再びランプを持って階下へ向かう。
暖炉の前では相変わらずブランがうたた寝をしている。
ドサリとソファに腰を下ろしたところで、時計が十時を打った。
ヒュウガは目の前の机に置いたブランデーの瓶を取り、手酌でグラスに注ぐ。
やや甘いフレーバーの香りが鼻をくすぐる。
一口を口に含んだ時、背後の扉がわずかに軋んだ。
何の気なしに振り向くと、フローレンスがシャツだけを羽織った姿でそこに立っている。
「眠れねぇのか?」
「そうね。」
飲みかけのグラスを軽く振り、ヒュウガは尋ねた。
「飲るかい?」
「ええ。」
短く答えると、フローレンスはソファの向かいへと静かに座る。
それを見たヒュウガは、もう一つのグラスにブランデーを注いだ。
「ズバリ聞く。
お前ぇさん、間者だったな?」
「ええ。」
「誰に仕えてた?」
「シャーワイユ侯爵。」
「王国きっての切れ者で、反戦派だったな。
そいつの仇討ちってわけか……。」
「貴方も同類と見たけど?」
一通り喋るヒュウガの言葉を聞き、フローレンスがやはり敵意を込めた視線を叩きつけてくる。
ヒュウガはブランデーを傾けた後、静かに語った。
「まあな。俺も似たようなモンだった。
だが、今は完全に引退さ。
あんなキナ臭い商売はもうゴメン被る。」
フローレンスは視線を落とし、両手でグラスを小さく回していた。
そんな彼女に、ヒュウガは改めて静かに尋ねた。
「足の具合はどうだ?」
虚をつかれたように、フローレンスは顔を上げた。
そのまま視線を落とすことなく、ヒュウガの目をまっすぐに見て答える。
「昨日より腫れは引いたと思う。
でも、まだかなり痛みはある。」
「だろうな。
多分あの具合だと、半月以上はここにいるべきだ。
そうなると、今度は冬がやってくる。
丸々半年は滞在になるが、どうだ?」
その言葉を聞いたフローレンスはため息をついて口を開いた。
「仕方ない。」
フローレンスが一口、酒に口を付けた。
その彼女に、ヒュウガは静かに尋ねる。
「だが戦争が始まったら、復讐なんて言ってられないぜ?
そこはどうだい?」
口調は軽いが、その奥には何か警戒めいた色がある。
フローレンスはヒュウガと目を合わせることもなく口を開いた。
「まだ王国では開戦に十分な準備が整っているとは言い難い。
連中が如何に愚かでも、この状況下では開戦は覚束ないはず。」
「ナルホドな……。
なら、まだ猶予はある……か。」
「猶予?」
「この辺りの連中の避難の時間さ。
ここが直接の戦場にはならんだろうが、ある程度は避難する必要がある。
ここから数十ロークラム離れたゴーダの村か、テュロナムの村か……。
少なくとも、その辺りに避難しとけば間違いはねぇだろうからな。」
「何故そこまで気を揉むの?
他人なんか放っておけばいい。」
いかにも不思議そうな声でフローレンスが尋ねた。
ヒュウガは残るグラスの酒をひと息に飲み干すと、フローレンスに言った。
「そう言う割には、お前ぇさん、仇討ちなんかやろうとしてるじゃねぇか。
恩のある人間を見捨てちゃ、人の世は渡っていけねぇぜ?」
それだけ言うと、ヒュウガはソファの上にゴロリと横になった。
「俺ぁ寝る。
残る酒は手酌で頼む。」
ヒュウガの息が静かに深くなったところで、フローレンスはブランデーのグラスに一口、口をつけた。
そして、そのままにしたグラスをテーブルに置くと、何も言わずに寝室へと入っていく。
ヒュウガとブランを部屋に残して。