名探偵より悪意と憎悪を添えて 6
御殿場涼花さんには義理の妹がいた。
実母は涼花さんを産んですぐに亡くなった。
父が再婚して、義理の母と義理の妹ができた。
初めて会った時、一卵性双生児のようにあまりにも自分と似た顔をしていた義妹とはすぐに打ち解けることができた。名前も『りょうか』と呼んで、『涼花』と書く。
そう――血の繋がりは無く、出会ったばかりの姉妹ではあったが、仲は良好で幸せな家族になるはずだった。
だから、日に日に表情が暗くなっていく義妹が心配になるのは当然だった。
いつからか、化粧を始めたのが不安だった――最初は目元や髪形を変えるくらいだった変化が、次第に特殊メイクをするかの如く、大きな変化になっていたから。
そして、御殿場涼花さんは俺に依頼をした。
『確認させて――義妹さんが貴女に何かを隠しているから、それを探ってほしいということで合っているかしら?』
『ええ……。過剰な心配だと思う?』
『まあ、初めてできた妹だものね。心配や不安が大きいのは分かるわ』
『分かるの? 新和さんにもご兄弟が?』
『ん……まあ、ね』
『でも、流石に義妹が自分の顔立ちを変える程の化粧をし出したらおかしいと思うわよね?』
『本当に心当たりは無いのね?』
『ええ、全く。両親……お義母様は海外で仕事をしていて、ほとんど顔を合わせることはないし……お父様と義妹の仲も悪くはないし……家庭環境が関係しているとかではないと思うのだけれど』
***
本当に何も知らなかったの?
『知らない! ほっ、本当に……あ、あんなこと……! 私は何も――』
泣き崩れる涼花さん。それをただ見下ろすだけ。伽藍洞のようにただ現状を俯瞰するだけの心持ちで、能面のように一切の感情を失った表情で。
俺は浮かんだ疑問を投げ掛けた。
『本当に知らなかったの?』
『知らない! 知らない私は! 何も……!』
『仲が良い義妹さんが父親からあんなことをされていたのに?』
『……………………っ!』
『顔の印象が変わる程のメイクだったのは、痣とか見られたくないものを隠すためだったのかしらねぇ』
涼花さんの呼吸が荒くなる。陸に打ち上げられた魚のように、口の開閉を続けるだけになっている。やがて呼吸が止まりそうなところまでそっくりだった。
これ喋れなくなりそうなので、失神されるよりも先に質問を重ねることにした。
『ねえ、ねえねえねぇ? お義姉様? 貴女は一体あの子の何を知っているの? あの子の何なら知っていたの? どうして何も知らなかったの?』
『……………………』
『ねえ、お義姉様――貴女』
止めて、と涼花さんが最後に何かを言おうとしているのが分かったが、俺は質問を重ねる。
まるで命乞いでもするかのような涼花さんの言葉を遮り、止めを刺した。
『貴女――本当はりょうかさんのことなんて、どうなっても良かったんじゃないの?』
***
そして翌日、御殿場涼花は屋上から飛び降りた。
***
「まあ、つまり――彼女が自殺した原因は、私であり、貴女でもあったといったところかしら」
殴り掛かってくるかもしれない、と覚悟は決めていたが、りょうかさんは動かなかった。手の痛みで動けないという訳ではないらしく、そもそも害意が無いようだ。
「……私達、本当に仲が良かったのよ」
やがて、りょうかさんが呟いた。恨み言の一つでも期待していたのだが、口を突いて出たのは意外にも自分語りだった。
「あんたは、私が義姉さんの存在を奪ったみたいに言ったけれど――実際のところ、その通りなんだけれど、好きでこんなことをしたんじゃないわ」
最早、取り繕おうとはせず、御殿場りょうかさんは自白した。俺を襲った時点でほとんど自白していたものだけれど、言質が取れていた訳ではないので、これで本当に犯人は確定した。
好きでやった訳じゃない、か。
そりゃあ、確かに。好んで人を殺す人間が世の中にどれだけいるのか、という話だ。彼女は人殺しではなく、見殺し――も何かしっくりこない。
「……ああ、自分殺しか」
「は?」
「いいえ、こっちの話よ――それで? 貴女はこの後どうするつもりだったのかしら? そのまま義姉の身分を奪って、学園生活を送るつもり?」
意地悪く笑いながら、俺は訊ねた。そんなつもりは全く無かったのだが、責められていると受け取ったのだろう、りょうかさんは鼻白みながらも答えてくれた。
「……まさか、流石にこんなことがいつまでも続けられるとは思わないわよ。ただ、せめてこの依頼が終わるまでは時間が稼げたらな……って。そんなことは考えてた、かも」
そう――俺は短く呟き、口元を隠すために左手を翳す。目線はりょうかさんを舐るように下から上へと移動させる。
なるほど、これがメイクをしていない素の表情だというのなら――義姉と似通った容姿は非常に美しい。肯定されるべきではないが、義父が凶行に及んだのは納得するつもりはないが、理解はできる。
なるほど、そういうこともあるのだろう、と。
だから、もしも彼女がこの依頼を無事に終えて、家に着いた時に何をしようとするのか――最後に何をしたいと思うのか、大体想像できる。
「お義父様を殺そうとしていたでしょう?」
御殿場りょうかさんは、これには何も答えず、死人のように冷え切った双眸でこちらを見つめるのみだった。
***
「お義父様は娘を心の底から愛していたわ」
その愛情は元々は実の娘である涼花に向けられていたものだった。尤も、本来のそれはただの親バカ、あるいは過保護と呼ばれるレベルだった。
「ただし、私が娘に加わってから、あの男はおかしくなった」
実の娘に元々抱いていたソレの枷が外れてしまったのか、それとも娘とあまりにも似過ぎた容姿の新しい娘が現れてつい魔が差してしまったのか――そんなことは最早どうでも良かった。
「私は汚れて、穢されて……隠すようにメイクを始めた。実際のところ、顔を殴られたとか、痣ができた訳じゃなかったけれど、何となく誰かの顔を見てしまうと泣きそうになったから、別人になる程の化粧で誤魔化した」
その異変を義姉が見逃さなかったのは誤算だった。いや、流石に放っておけるような変化ではなかっただろう。ただ、自分の知っている彼女なら、冷静に、慎重に解決を図ろうとするだろう。
まさか真相を知ったから御殿場涼花が自殺したなど、御殿場りょうかは思いもしなかった。実父が義妹に悍ましい行為に及んでいたことなど、微塵も知らなかったように。
りょうかも義姉のメンタルがそこまで強靭なものではない、一般的な女子高生と変わらないのだということに気付けなかった。
「分かってたなら、あんたに依頼なんかしなかったのにね……」
目の前で涼花が飛び降りた時、意外と声を上げることはなかった。叫び声を上げて、他の生徒達や教師陣が屋上に駆け付けることはなかった――何故?
頭が真っ白になっていたからなのか、驚きや恐怖で正常な判断ができなくなっていたのか、それとも仲が良かったとはいえ、面倒事に巻き込まれたくないと、保身に走ってしまったからなのか――
『あー。彼女、マンホールから下水に真っ逆様ねぇ。まあ、この高さからだとまず助からないでしょうけれど……ねぇ?』
茫然自失していたりょうかの隣に、いつの間にか見知らぬ誰かが立っていた。
自分と同じ制服を着ているから、この学園の生徒だろうが――
見知らぬ誰か――本当に? 誰だったっけ?
見たことがある顔のはずなのに、ショックが強過ぎて、何も思い出せない。
『ねぇ、あなた……御殿場りょうかさん。あなた、お顔が真っ青なのだけれど、大丈夫かしら?』
家族が目の前で飛び降りて大丈夫なはずがないだろう、と激昂する気力すらない。顔はぼんやりとしか覚えていないが、まるで邪気の無い、穏やかな微笑と共にこちらの顔を覗き込んでいた。
『どうして彼女がこんな目に遭わなきゃいけないのかしらねぇ? りょうかさん、あなたは何か知ってる?』
分かる訳がない、答えられない――そして、これからの未来を、あの地獄を義姉無しで生きていかなければならないのかと思うと、吐き気がする。
『ねぇ……ねぇねぇねぇねぇ――』
頭の中に靄が掛かる。隣の女子生徒の呼び掛ける声が脳内で何重にも反響し、神経を責め立てる。
『あなたにとって、とても素敵な提案があると言ったら、聞いてくれるかしら? ただし、ある女子生徒を呼んできてほしいのだけれどぉ――』
「……ああ、そうか。そもそもあんたに依頼をして、巻き込めって……あいつが言ったんだった」
***
「悪七夜嵐。この学園の生徒で、そうやって心の弱っているところに付け込んで、事件を生み出すのが好きな愉快犯よ」
あるいは、怪人と呼ぶべきか――わざわざ犯人に探偵を呼ぶように指示する辺り、確信犯と見るべきだろうし、俺が男だとりょうかさんに吹聴したのも奴だろう。
「あんたが男だって……偽りの情報は、もしもの時に役立つからって……」
「ああ、そう……」
間違いなく嫌がらせのためだろう。俺がそんな取引には応じるはずがないと、奴なら考えるまでもなく理解しているはずだ。一瞬だけでも、奴の思惑通りに冷や汗を流してしまった自分が情けない。
「血を抜く案なんてよくも受け入れたわね? 下手したら、貴女も死んでいたわよ?」
今の話を聞く限りだと、道具の使い方や血の抜き方は悪七が教えたのだろう。奴にそんな知識があるとは思わなかったが、あの愉快犯ならやりかねないとも思ってしまう。
「まあ、失敗して死んでしまったのなら、それでも構わないと思っていたのかもしれないわね。そういうところあるのよ、あの愉快犯は」
「……随分と詳しいのね。その、悪七……さん? って人のこと……――別に、死にたかったわけじゃないけれど、それでも行動に移さないと、あの時はどうにかなってしまいそうだったのよ」
そう言って、りょうかさんは両手を肩に持っていき、自分の体を抱き締めた。セルフハグっていうのだったか、幸せホルモンが脳内で分泌されて幸福感で満たされるんだとか――あるいは、義父からの蛮行で傷付いた心身を守るために、無意識の内に構えてしまうのかもしれない。
「……今更にはなるんだろうけれど、警察とか――そういう然るべき場所に助けを求めるべきだったかもしれないって、そんな真っ当なことだって考えたのよ。でも、それじゃあ、現結局のところ何も変わらない」
視線を自身の足元へ送るりょうかさんの表情は暗く、希望など完全に消え失せている様子だった。
なるほど、だから例え失敗すれば死ぬような作戦だろうと実行できた訳か――
「お母様は? 海外で仕事をしているそうだけれど、そちらに相談は……」
「娘が再婚相手の男に凌辱されたって? 断言するけれど、あの人は間違いなく動かないわよ。実際、涼花の葬式――表向きには私の葬式にだって来なかった。仕事が忙しいからだって」
「そう……。だから、貴女は自分を殺した訳ね」
「もう分かんないのよ、どうすれば良かったのか……。あの時、自殺を止められなかったのは私のせいじゃないとは思うわ。確かに、私がやったことは間違っているし、法的にもアウトなんでしょう……」
ポツポツと零れる感情を、言葉を、最早止めることはできなかった。
「だけど、よ? あの地獄を抜け出す手段があるんだとしたら、縋りたくなるじゃない? どれだけ仲は良くっても、もう死んじゃったんだから――私が貰っちゃっても良いわよね」
姉妹仲が良いというのは事実だったのだろう。だが、瓜二つの容姿と同じ漢字の名前を持ちながら、自分とはまるで違う家庭環境にいた――自分よりも恵まれていると思ってしまったのだろう。
「妬ましかった。私よりも苦しくない癖に、自殺を選んでしまえる、その精神が。優しさが。罪悪感を覚えて死ぬくらいなら、その位置を私に譲ってから死んでほしかった」
実際のところ、どちらが恵まれていたのかどうかはさておきとして――御殿場りょうかは義姉の涼花に嫉妬した。
元々いた家族との絆があまりにも希薄で、生きているのか死んでいるのかも分からなくなる程に透き通っていて――新しい家族ができて、ようやく生きていると実感できたかと思えば、今度は義姉の代役で穢された。
「教えてほしいんだけれど……」
虚ろな瞳でりょうかさんは俺に訊ねる。正体が割れ、今の彼女が御殿場りょうかは剥き出しになっている。
ボロボロ。半生半死。幽霊のような彼女。
ほとんど精気を感じ取れなくなった状態で彼女は問いを投げ掛ける。
「今の私って生きているの? それとも死んでいるの?」
***
「あなたは生きている、と……少なくとも私はそう思うかな」
私が答えると、りょうかさんは信じられないものを見るような目でこちらに向けてくる。仕方が無いことではあるか――自分が殺したと思い込んでいた相手が目の前に現れたのだから。
今のりょうかさんの自暴自棄な姿は、それが起因していると言えるだろう。
義姉の自殺を目の当たりにして、自分が死んだように偽装することで、涼花さんの存在を奪った――それらは罪に問われるだろうが、実際に彼女が手に掛けた訳ではない。対して、私は彼女に殺意を持って殴られた。
殺人を犯したから、もう後には引けないと思ったのだろう。実際のところ、そうなっていないのは残念ながらと言うべきか、幸いなことにと言うべきかは各人の判断に任せるが。
「どっ、どうして……? え、ぇ――は……? 何よ、これは……?」
私を見たりょうかさんのリアクションはそれはもう見事なものだった。ドッキリを掛けられた芸人だったならば、完璧、百点満点と拍手を送りたくなるくらいに。
「何って、そりゃあ、見たままでしょうよ」
その疑問にはりょうかさんと対峙していた十郎新和が答えた。ちなみにりょうかさんの後方――つまり、屋上から階段で降りてきたのが、こうして現状を説明している私だ。
同じ顔の人物の挟まれた形となったりょうかさんの驚きは理解するが、その真相はとてもシンプルなものだ。
「私達が一卵性の双子ってだけの話よ。ちなみにそっちが姉で、本当に十郎新和」
私は十郎永和、というの――あっさりと本名を名乗ったのが意外だったのか、私の存在が未だに信じられないのか、りょうかさんは茫然とした様子で私と姉を交互に見比べる。
今まで互いに入れ替わったことを見抜かれたことはない。身長、体重、顔、髪形、話し方の癖に至るまで、私は姉を完璧に演じている。尤も、今は屋上でりょうかさんに襲撃された際の傷があるため、見分けるのは容易いが。
「そんな馬鹿な……双子の入れ替わりなんて、推理小説みたいなこと……」
「貴女がやったこともなかなか反則っぽいのだけれどね」
そう呟いたのは姉の方――本物の十郎新和。
「でも、こうして姿を現したんだから、無理矢理でも納得してもらわないとね。ほら、見てよ……この頭の傷。死ぬ程痛いのを我慢して来たんだから」
私、十郎永和は自分の頭を指差して言う。髪を掻き上げれば、傷口を糸で縫合した痕が見える。今更、彼女の罪悪感を刺激するようなことを言うつもりはないし、それで反省する展開を期待しないが、せめてこれくらいは言っておきたかった。
今回は近くで近くで控えてもらっていた協力者のおかげで、すぐに応急処置をしたからこうして動けているが、当たり所によっては即死していたかもしれない。
「別にそのまま寝てても良かったのに。後は私が全部終わらせるから、私達のネタバラシまでする必要は無かったでしょ?」
新和が不服そうに言った。この人の言い分は尤もだ――本来この学園に籍を持たない私はここで姿を見せるべきではなかった。
この学園の生徒である資格を持たないが故に、姉の名前と学籍を共有している。学園側の一部関係者及び権力者の酔狂によって、瑠璃城女学園の制服に袖を通すことができている。
その私が部外者に姿を見せてしまう、そのリスクについては十二分に理解しているはずだった。
だったのだが、りょうかさんを見て、つい出てきてしまった。
『今の私って生きているの? それとも死んでいるの?』
「……ごめんなさい。ただ、依頼人からの疑問には、可能な限り答えたいと思いまして」
「ふぅん……まあ、別に良いんだけどねぇ」
完全に納得した訳ではなさそうだが、渋々新和は首を縦に振ってくれた。あの顔は後で二人になった時にチクチク言われるパターンだ。双子とはいえ、姉である新和との上下関係は完成されてしまっている。
「さて、お待たせ――ここからは私が引き継ぐわね」
階段を下りて、私はりょうかさんに向き合う。対峙していた新和の前に立つ形となった――背中越しにまだ不満気な姉の視線を感じるが、ここは無視を決め込む。
「……殺すつもりはなかった、とは言わない。正直なところ、頭が真っ白になって、気が付いたら、あんたが血を流して倒れてた……。ごめんなさい」
りょうかさんは静かに謝罪する。その真偽を問うことに意味は無いだろう。別に怒りや恐怖が全く無いといえば嘘になるが、私が今したいのはここで彼女に罵詈雑言を浴びせることではない。
「……あなたには、二つ道がある」
深呼吸をして、私は慎重に言葉を選びながら話し掛ける。緊張や恐怖は悟られてはいけない。ここでりょうかさんが完全に心を閉ざしてしまえば、もう駄目だ。
この話は終わってしまう。
「一つ……事情を全て警察に話す――つまり、自首ね。そうすれば、罰はあるでしょうけれど、その男は破滅する」
都合が良いことに、証拠となる資料は我らが生徒会様が保管している。これが間違って外部に流出されるようなことがあれば、どのような未来が展開されるのか、想像に難くない。勿論、私はそんなことをするつもりは毛頭無いのだが、学園内で自殺が発生するような物騒な世の中だ。
「本当に、世の中何が起こるか分かったものじゃないわよね」
「……………………」
りょうかさんだけでなく、新和までも無言だった。私が何を言わんとしているのか、既に察しているのだろうが、不満のオーラは相変わらずである。
「二つ……このまま姿を消す――御殿場りょうか、涼花の身分を捨てて、全くの別人として生きていく。これに関しては、伝手があるわ」
探偵の領分を外れてはいるが、依頼人が望むのであれば力を貸すことだって吝かではない。ただし、これは未成年の、それもお嬢様学校に通うような富裕層の令嬢にとってはあまりにも過酷な選択肢になる。
元より親として機能していなかったとはいえ、それでもいきなり自立しなければならないというのは相当にハードルが高い。それでも父親との生活――地獄で暮らすよりは遥かに容易なのかもしれないけれど。
「……一つ目の提案は、とても現実的よね。二つ目は……」
りょうかさんが呟く。わざと私達に聞こえるくらいの声量で話すのは、反応を見て、決めようとしているからだろうか――残念ながら、そこまで優しくはできない。
「二つ目は、でも、あなたの希望に沿った提案じゃないかと思うのだけれど」
「……それ、どういうこと?」
「あなたは全てを投げ出すことができる。鬼畜の義父から、無関心の実母から、既に死人となった自分から――義姉の自殺の要因になってしまっていたという罪の意識からも」
逃げ出すことが赦される。教師や警察ではない私は、彼女の罪を裁いたり、説き伏せることはしないし、するつもりもない。
私は殴られ損だが。
「生きているからこそ選べる道よ、これは間違いなく」
視界の端が暗くなってきた。応急処置はしたとはいえ、やはり肉体に限界が訪れたようだ。だが、言いたいことは言えた。
「……ありがとうございました、新和。私は一足先に戻りますので、後はお任せしても?」
「ええ、勿論。むしろ、私にとってはこれからが本番なんだし」
新和は舌で唇を一周舐め、蠱惑的に笑う。良かった、不機嫌になる前にパスできたらしい。
「私は終わったら、しばらくは身を隠すわ。頭の傷、目立たなくなる頃に戻るから、連絡よろしくね」
私に背中を向けたまま、新和は自分の頭をトントンと軽く指先で叩くジェスチャーをして、そう言った。この学園で身を隠すなんて、無茶だとは思うが、あの人のことだから当てはあるのだろう。
だから、私は今はそれ以上深く考えず、痛む頭を押さえつつ、その場を後にした。
***
「まったく。屋上に一番乗りして欲しいと言われた時は何事かと思いましたが……新和先輩が襲われた時は心臓が飛び出すかと思いましたよ」
「あはは、流石に無茶をしたなって思ってるわ。でも、近くで控えててくれたおかげで、大事にならずに済んだのだし」
私、十郎新和――を騙る、十郎永和が部屋に戻って最初にしたことは、本日の無茶に対して苦言を呈する鵜飼さんを宥めることだった。
「結局、答え合わせしていませんよね。それどころではありませんでしたし――私が考えてきた推理は無駄になってしまいました」
鵜飼さんはそう言いつつ、患部を優しく撫でる。頭部には包帯――ではなく、糸が何重にも巻かれている。市販のものよりも純白で、強靭な糸は鵜飼さんが生み出したものだ。
「私はいつも通り、事件の捜査にこの力は使いませんので」
「勿論。むしろ、治療のためとはいえ、力を使ってくれたのだから、これ以上を望んだら罰が当たるわよ」
私の頭を撫でていた鵜飼さんの手が止まる。後輩から子ども扱いを受けているようでむず痒さを感じていたが、終わってしまうと何となく物足りないとも思ってしまう。
「……はい、終わりましたよ。顔が赤いですが、もしかして熱が出ましたか?」
スッ、と流れるように鵜飼さんの顔が接近してきた。顔の赤みは一瞬にして蒼白に変わる。それすらも自然体で悟らせないように、演じることは可能だが、それでも不安は消えなかった。
もしかして勘の良い彼女にはバレてしまったんじゃないか?
十郎永和――私がこの学園で唯一の男子であることを。
***
その日の夜、私の元に新和からの事後連絡が届いた。
御殿場涼花――もとい、御殿場りょうかが義姉同様に屋上から飛び降り、命を絶った、というものだった。