水を注ぐ青年の噺
これより語るは異形の者の、愉快痛快洒落噺。
紳士淑女に老若男女。猫も杓子も笑い転げる愉しき宴。
心の準備は宜しいか?
それでは開演致しましょう。
今宵は「水を注ぐ青年の噺」
その青年は異形なり。
頭は鉄屑、身体は貧相。
いつも頭をカラカラ鳴らしては、この辺りを縄張りにしている悪餓鬼達から「脳みそまで空っぽの碌でなし」と揶揄されていた。
そんな彼の仕事はサーカスの受付側に置いてある花への水やりで、どれだけ馬鹿にされようと毎日欠かすことはなかった。
花が芽吹けば鉄屑はギイギイと音を立て、花が散ればくすんだ鉄錆が増えた。彼は花を見るのが好きだったのだ。
そんな毎日代わり映えのない日々を送っていた彼だったが、ある日、花がまるっと1つ鉢植ごと消失した。消えた鉢植は彼が一等好み、心を込めて育てていた物であった。
彼は狼狽えながら、鉢植えを探したいと団長へと訴えた。
団長も彼が丁寧な仕事をしていることは承知していたし、何よりも普段無口な彼がこれ程までに饒舌に音を立てたことは無かったため心を痛めた。
しかし、失くなった物は返らないのが世の真理である。団長は努めて優しく、新しい鉢植えを買い換える事を命じた。「同じ物は二度と手に入らないだろうが、君がまた大切に育てたいと思える花を探しなさい」と。
暫くは彼も落ち込んでいたが、団長から命じられるまま、店で鉢植を探した。
何とか似たようなサイズの、それでいて華やかな鉢植を見つけ出し、彼はその鉢植を後生大事に抱えて仕事へと戻った。受付は華やかさを取り戻し、団長も陰ながらそれを見つめ、ほっとしたような表情を浮かべていた。しかし、彼の心はあの鉢植にあり、新しい花を幾ら育てようとも、満たされることはなかった。
それから数ヶ月経ち、丹精込めて育てた花は咲き誇った。彼もギイギイと音を立て、嬉しそうに花を愛でていた。
しかし、そんな幸せな日々も長くは続かず、やがて花は枯れ落ち、種を残して消え去った。
彼は鉄錆をくすませながら、大事に種を摘み取った。また次の春に芽吹きますようにと願いを込めて、ソッと土をかけたその時だった。いつもの悪餓鬼達が彼を突き飛ばしたのは。
彼は頭から鉢植に突っ込み、受付の机はひっくり返り、団員は何事かとテントから顔を覗かせていた。
悪餓鬼達の姿はとうに無く、数拍遅れで怒鳴り散らしながら男が駆け抜けていく。どうやら悪餓鬼達はあの男に追われていたようで、彼への嫌がらせをしようとしたわけでは無かったらしい。
騒がしい連中だとぼやきながら戻る団員達に彼はペコリと頭を下げて、倒してしまった鉢植と机を元通り丁寧に整えた。
多少土は溢れてしまったものの、幸いにして鉢植は割れておらず、ギイとひとつ音を立てた。
それからまた数ヶ月経ち、鉢植の花が命を芽吹かせる季節が巡ってきた。
しかし、他の鉢植が芽吹き始めても、どれだけ他の花が咲き始めても、彼が倒してしまった鉢植だけは新緑を見せることが無かった。
何がいけなかったのか、何か間違えてしまったのか。それともあの時種を無くしてしまっていたのだろうか。
落ち込んだ表情の彼を見た団長は、笑いながら彼の背を叩いた。
「何てことだ、これは愉快な噺だよ。まさか君自身が鉢植になってしまうとはね」
何を言われているのか解らず戸惑う彼に、団長は手招きし、自身の部屋にのみ置かれている大きな鏡の前に立つように指示をした。
鏡を見ることはサーカスで御法度だ。彼は慌てて頭を振ったが、いつもの音がしない。
不思議に思い、首を傾げた彼に、再度団長は呼び掛けた。
「今日だけは鏡の前に立つことを許そう。だから此方へ来てごらん」
団長が言うのであれば。そう恐る恐る歩みを進めると、焦れた団長に背を押され、鏡の前へと立たされた。
カサッ
小さい音が鳴る。今まで聞いたことのない音が。
「これで君は『脳みそまで空っぽの碌でなし』ではなくなったな」
微笑む団長は彼の頭を指差した。
鉄屑の隙間から、小さな双葉が顔を覗かせていた。