7 大賢者、絶体絶命
アッシュはふと、この世界の魔法使いを思い出した。
今まで前世と同じように戦っていたが、今は別にそうである必要はない。前世の感覚のままに戦っていて、アッシュは忘れていた。自分の体よりもはるかに頑丈な、アダマンタイトの体を持つ人形があるということを。
「リーシャ、魔法でこっちに人形を引き寄せる。しばらく辛くなるだろうけど、治癒が終わったら援護して」
「分かった」
アッシュは《トランスゼロ》を解除して、鬼を視界に入れつつ意識を隠れ家の人形にまで伸ばす。《トランスゼロ》を使っていれば確かに集中力は上がるが、それは木骨機に目の前のことに関してだ。遠くの人形を操るとなると、その魔法は向いていない。
人形の方へと意識を伸ばしながらも、目の前の鬼を無視するわけにはいかない。
鬼はアッシュに向けて再度攻撃を仕掛けてくる。今度は貫手だけでなく、足の方にも気を付けないといけないのだが、《トランスゼロ》を解除している状態ではかなりきつい。
何とか捌こうとするものの、貫手は先ほど以上に肌を掠り、肉が抉れる。その痛みに顔をしかめつつも、人形を動かすことはやめられない。だが、如何せん遠隔で人形を動かすのは初めてのことだ。アッシュは人形使いがゴーレム使いと似ていると思っていたが、全く違った。
ゴーレムはその都度言葉によって命令を与え、その通りに行動する。しかし、人形は常に魔素を使って体の全てを動かし続けなければならない。
(少し甘く見てたな。難易度は桁違いじゃないか)
そう思っても、人形を持ってくることくらいしかこの状況をどうにかできる術はない。
(痛い……。痛い、けど、やらなきゃ)
全身にできた傷だけではない。無理な強化の重ね掛けにアッシュの体が悲鳴を上げているのだ。ましてや成長途中の子どもの体だ。まだそこまで強くない。アッシュが思った以上に、体は脆い。
痛みを堪えて鬼と相対し続けるものの、いつ崩れ落ちてしまうのか、アッシュの頭の中にチラチラとその考えがよぎる。そのたびにそんな考えを振り払う。
また何とか鬼の攻撃に対処できるようになってきている。両手は逸らし、蹴りは躱す。どれもギリギリだが、そのギリギリができていた。そして、もう五分は経つ。
ちらりとアッシュは背後を見てみた。
「っ!?」
しかし、そこには血だまりがあるだけで、他には何もなかった。心臓がドクンと脈打つのを感じ、アッシュの動きは固まった。
その瞬間、鬼の爪は迫ってきて、アッシュは咄嗟に左腕で庇うと、衝撃で後ろに吹き飛ばされた。後ろに飛び、空が見えた時、何かの腕が宙を舞っているのが見えた。
(あぁ、あれは……僕の……)
地面に倒れこんだアッシュは、自分の左腕を見た。そこには肘から先がなくなり、先から血が溢れているのが見えた。
「あ、あぁぁぁっ!あああ!」
まるで火で焼かれるような熱と痛みを感じ、アッシュは左腕を押さえた。それで血が止まるわけではないのは分かっているが、それでも仕方がない。
アッシュは近づいてくる鬼に目を向け、そして、先ほど見た血だまりしかない場所を見る。
「リー……シャ……」
名を呼んでも、アッシュの言葉に答える者はそこにはいない。
おそらく逃げたのだろうが、アッシュはそのことで胸が苦しくなった。裏切られた、とは思いつつも、仕方がないとも思っている。逃げるタイミングで言えば、絶妙だっただろう。物音一つ立たせずに、気付かれることなく逃げたことに、アッシュは逆に笑みを浮かべていた。
(こうなっちゃうか……所詮は他人ということかな。仕方ない仕方ない)
アッシュが途中まで動かしていた人形は、すでに止めてしまっていた。リーシャが逃げたことに動揺し、腕を切り飛ばされたときに集中力が切れてしまったのだ。今頃、森の中で倒れているだろう。
(さて、ここで諦めるかどうするか)
鬼はアッシュの傍で立ち止まり、アッシュの首を掴んで持ち上げた。抵抗する力が残っていないアッシュは、為す術もなく吊り上げられる。
「くっ……」
アッシュを見上げる鬼の顔には、醜い喜びの表情があった。鬼は顔は人と良く似ている。そのため、鬼がする表情は人の表情を連想させる。しかし、今鬼がしている表情は、人にはしてほしくないと思うほどだった。たとえその顔が美しくとも、笑顔であろうとも、醜く、怖気が走るものだ。
(本当に気持ち悪いな~。リーシャの笑顔はもっと良いものだったけど……)
ここにきても、アッシュの頭の中にはリーシャの顔が浮かぶ。決して恨むわけではない。リーシャを恨みたくないと思ってしまう。
(もう一度会いたい、とは思うかな。絶望的な状況なのは分かり切っているけどね。勝ち目も今のところないし。だけど、勝ち目がない程度で諦められるほど、柔な人生は送っていないね)
アッシュは左腕の痛みと首の苦しさを感じながらも、森の中の人形に意識を向ける。倒れている人形を起こし、自分の元に走らせる。鬼との戦いをしながらのさっきよりも、人形に意識を向けるだけでいい今の方が、よほどうまく扱える。
(あと少し、あと少し、あと少し……)
人形に意識を向けすぎて、アッシュは鬼のことが見えていなかった。次の瞬間、激痛で意識が再び人形から外れる。
「ああああ!くそっ!」
視線を落とすと、鬼の口は赤く染まり、何かを食べているようだった。そして、左腕は先ほどよりも短くなっているように見える。それだけで、鬼が自分の体を食べたのだと理解した。
「あああぁぁぁ!!あっ!ああ!ああ!」
アッシュはパニックに陥り、鬼を蹴りつけるが、鬼は片方の手でアッシュの蹴りを弾く。今度はアッシュの方の攻撃が単調になってしまっている。
「くそっ、くそっ、くそっ、くそっ!」
鬼がアッシュの蹴りを軽く弾いているのを見て、アッシュは段々と冷静になってきた。今は無駄なことをして時間を使っていられない。
「早く、持ってこない、と……」
人形の方へと意識を向けようとするが、アッシュはどうにも意識が朦朧として上手くいかない。このままではまずいと思いながらも、他に手がない。魔法を使いたいが、身体強化のために使い過ぎて、魔法を使えないほどに体が脆くなっている。
(やばっ……これは本格的にまずい……)
アッシュは朦朧とする意識の中で、何とか意識を失わないようにと踏ん張っていた。
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リーシャは森の中を走っていた。森の中で長く生活しているエルフにとって、物音を立てずに森の中を走ることくらいはできる。エルフの子どもが真っ先に教わるのが、森の中での歩き方だ。そのおかげで、今こうして静かに動ける。
例え、泣きながらであっても、声を殺して走って逃げている。
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい)
心の中ではひたすらに謝り続け、足を懸命に動かしてどんどん遠ざかっていく。
アッシュと二人で鬼と対峙した時は、押し殺せる程度の恐怖だった。心配ではあったが、アッシュが前に立ってくれたことで恐怖は大分和らいでいた。
しかし、一度アッシュを飛び越えて鬼が迫ってきて、そして体を切られた時、恐怖が膨れ上がった。
アッシュが何とか鬼を抑え込んで怪我を治癒している間、頭の中は恐怖で満たされてしまっていた。アッシュが人形を持ってくると言って、リーシャが五分で治癒できると言った時、リーシャは自分の中に逃げ道ができた気がした。
アッシュが鬼に集中している間、治癒が終わったリーシャは静かにその場を立ち去った。この時、静かに動けた自分をほめたいと思ったと同時に、恨めしいと思ってしまった。あそこで逃げることができなければ、戦うことに踏ん切りがついたかもしれないが、逃げることができてしまった。
もうそこからは簡単だった。涙は流しても声は出さず、心の中で誤っていれば少しは罪悪感が薄れていくことを知り、そんな行為に甘えてただ逃げていく。
もしかしたら、あの後アッシュは逃げられたかもしれない。いや、きっとそうだ。自分が逃げられたんだから、アッシュも逃げられたはず。そう思い、重荷を軽くしていく。心の中がぐちゃぐちゃになっていくことを感じながら、醜い行為をしていく。チラチラと浮かぶアッシュの顔を振り払い、自分が助かりたいがために逃げる。
どこに行くのか分からず、ただ一直線に走っていると、不意に視界に動くものを見つけ、リーシャは動きを止めた。
「ひっ……」
一瞬鬼のことを思い出し、体が固まるが、すぐに違うということが分かった。それはアッシュの隠れ家でずっと見ていたものだ。長い年月をかけて作ったと言う、アッシュの人形。それが動いているということは、アッシュが動かしているのだ。
(まだ、逃げていないの?あの化け物から……)
逃げることができていれば、人形なんて必要ない。まだ、戦うつもりなのだ。それが分かると、リーシャは体から力が抜けてその場で座り込んでしまう。リーシャの見ている動く人形は、そのままアッシュの心そのものだと思った。
しかし、その人形は急に支えをなくしてしまったかのように倒れてしまった。そして次の瞬間。
「あ、あぁぁぁっ!あああ!」
子供の叫び声が森に響き、リーシャの頭の中にまで入ってきた。リーシャは耳を塞ぐが、一度入った声は何度も何度も頭の中で繰り返され、意識に刷り込まれる。
見知らぬ子供の声、とそう思いたかったリーシャだが、そんなことでは自分自身を騙すことはできなかった。人形が動きを止めた直後に聞こえたのだ。アッシュに何かがあったことは確実だ。
リーシャは今の自分自身がひどくおぞましいもののように思い、その場で吐いてしまう。美しくあろうと自分に言い聞かせ、人間とは違って気高い存在だと言われ続けてきたエルフだが、そのみっともない姿をさらしている。他に誰もいなくとも、リーシャにはアッシュの人形が見えている。リーシャは今の自分の姿がアッシュに見られているように思えた。
(嫌だ、嫌だ。こんな私なんて。どうして、私はこんなに……。アッシュ君、アッシュ君……)
一緒に過ごした一カ月があった。その一カ月で、リーシャはアッシュのことを大切に思い始めていた。種族は違っていても、どこか家族のように思えたのだ。
一緒に様々なことをして、一緒に笑いあっていた。それなのに、今は別々の所にいる。アッシュは一人で苦しみ、リーシャは一人で泣いている。
リーシャが俯いていると、視界の端で動くものに気付いた。顔を上げると、一度止まってしまったはずの人形が、再び動き始めていた。
(アッシュ君が動かしているんだ。まだ諦めずに、人形を動かして……。そんな姿を私に見せないで……)
人形はすぐにリーシャの視界から消えていったが、一度見た鮮烈な光景は脳裏から離れない。たとえ倒れたとしても、諦めずに立ち上がる。そんな姿を見せられると、リーシャは自分がどれほど惨めな存在かが分かってしまう。
自分のことを悔やんでいると、再びアッシュの叫び声が聞こえてきた。明らかに苦しそうだった。今のリーシャでは決して想像できないだろう苦しみだろう。
(ここで逃げて、そしたらどうなるの?大切な存在を失って……いや、見捨てて、それが誇り高いと言えるの?人間は醜い、と言われてきたけど、私とアッシュ君でどちらが見にくいの?どう考えても私でしょ。それなのに、私はいつまで経ってもここで悔やむだけで、何もしない)
リーシャは口元の汚れを拭いて立ち上がる。そして逃げてきた方向に足を向けて、一歩踏み出そうとする。足を上げ、しかし、そこから地面を踏めず、足を戻す。
「どうして……どうして、私は……」
いまだに枯れぬ涙が、足元に落ち、視界が歪んだまま。底から一歩も動けずにいることの悔しさもあって、涙は止む気配はない。
(……アッシュ君は、今も苦しんでる。こんなところまで逃げた私は、もう見せる顔なんてない。大切だなんて言う資格もない。抱きしめることだって、できはしない)
いつもアッシュを抱きしめる時、リーシャは心が満たされていった。アッシュが何も思わないことは見ていれば分かるが、それでも抱きしめたいと思った。これが親愛なんだと、そう思った。
一歩。一歩を踏み出すだけで、その先に行ける。そう信じ、リーシャはアッシュのことを思い出す。一緒に過ごした時間、アッシュの顔、アッシュを抱きしめた感触。それらが勇気になると信じ、リーシャは目をぎゅっとつぶり、一歩を踏み出した。
そして、もう一歩、二歩、三歩と。そして目を開け、自分が歩けていることが分かると、次は走る。走り出したその足を止めないように、アッシュのことを思い続ける。
「まだ……まだ行ける!」
音を消すこともできず、ただがむしゃらに走っている。だが、もう涙は流れていなかった。