21 人形使い、鬼の力を使う
目が覚めると、まだナシュマンはアッシュの目に見える所にいた。どうやら、アッシュが意識を失っていたのはほんの少しの時間だけのようだった。
アッシュは立ち上がると、ナシュマンを見据えて呼吸を整えた。体の内側から溢れるような力を感じて、今にもそれが外に漏れだしそうだったが、それを何とか押さえ込む。鬼の力は強大だが、それを暴走させてしまうようでは、黒い霧に支配されているのと大して違いはない。力があるのなら、それはコントロールしなくてはならない。
「ひとまず、慣らしていくかな」
ナシュマンはゆらゆらと体を揺らしながら近づいてくると、次の瞬間一息にアッシュの元まで迫ってきた。先ほどまでなら対処することが困難な速度。
しかし、今のアッシュにはその動きがはっきりと見え、自然に体が対処しようと動いていた。
「うそっ!?」
殴りかかってきたナシュマンの拳を捌き、その勢いのままナシュマンを放り投げた自分自身に、アッシュは驚きを隠せなかった。ここまでの動きはアッシュには到底できない。間違いなく、鬼の力によるものだ。
その事実に驚くと同時に、自分が鬼の力なしにはこの状況を打開できないと改めて突きつけられ、アッシュは少し悔しい気持ちになった。結局のところ、アッシュとナシュマンの一対一ではアッシュがナシュマンに勝つことはできなかったのだ。
だが、今はナシュマンに対して十分に対応できている。動きは見えているし、体は動く。その急激な変化に違和感を覚えるが、何より戦えていることがアッシュにとっては都合が良かった。
それでも、いつまでもこのままというわけにもいかない。どう考えても無理筋の力なのは明らかであるため、いつアッシュの体が動かなくなるかなど分からない。まだ時間はあるかもしれないし、もうすぐかもしれない。悠長に構えて時間をかけるわけにはいかなかった。
「とっとと終わらせるか」
アッシュは接近してくるナシュマンの攻撃を冷静にさばき、ナシュマンの攻撃が途切れた一瞬の隙をついてナシュマンを地面に叩きつけた。出来ることなら綺麗に押さえつけたかったのだが、アッシュの技量では力尽くでやるほかになかった。
「少し我慢してもらおうか」
アッシュはあばらるナシュマンの動きを抑え込むと、そのままナシュマンへと鬼の魔素をぶつけた。ナシュマンの体内に入り込まないように、黒い霧のみを飛ばすイメージで。
辺り一帯に膨大な魔素が吹き荒れ、アッシュとナシュマンを中心として突風が起こる。先ほどのアッシュの魔素の放出によって起きた風よりもさらに激しく辺りを荒らしていく。建物が壊れやしないかと一瞬不安になったアッシュだったが、ナシュマンの方を優先することにした。
「くっ、本当に力強いな。鬼の力を使ってもギリギリなんて、超人過ぎるでしょ」
少しでも気を緩めればすぐにでも振りほどかれてしまうほど、ナシュマンは強い力で抵抗していた。だが、それをアッシュは鬼の力のおかげで無理矢理押さえつけることができる。嫌々ながらも、アッシュは鬼の力に感謝していた。
しばらくとんでもない力で抵抗していたナシュマンだったが、段々とその力が弱まっていった。その体から発せられる黒い霧の気配も少しずつ薄くなっていっている。そして、アッシュの方は先ほどと違って魔素の量にまだ余裕がある。
「これで、やれる」
アッシュはナシュマンを力強く押さえつけるのと同時に、大量の魔素でナシュマンの体を覆う黒い霧を引き剥がしていく。先ほどと同じようにあと少しという所で、黒い霧はまだうっすらと残っている様子だが、今のアッシュには魔素がまだ多く残っている。その魔素が自分のものではないことが気がかりだが、今はそれよりもナシュマンのことに集中する。
黒い霧が薄くなるにつれて段々とナシュマンの動きは鈍くなっていっていたが、突如として猛烈な勢いで暴れ始めた。それはまるで最後のあがきのように、アッシュには見えた。
「悪いけど、何もさせるつもりはないから。ここでおとなしくしとけ」
暴れるナシュマンをさらにそれ以上の力で抑え込み、ナシュマンを覆っていた最後の黒い霧の残りかすすらも魔素で吹き飛ばす。アッシュの目に黒い霧が一切見えなくなると、ナシュマンは急に支えを失った人形のようにパタリと動きを止めてしまった。
アッシュはまだ動ける可能性があると思い、そのまま押さえ込んだままナシュマンの中の黒い霧の気配を探ったが、今度こそ完全に消えているのが確認できた。鬼の魔素の力で感覚も強化されている今の状態で感じ取れなかったのだから、間違いなく消えていると判断できた。
「はぁ、はぁ……」
体から力を抜いてナシュマンを解放すると、アッシュは全身から疲れが溢れてくる感覚に見舞われた。鬼の力に体が付いて行かずにだいぶ体力を消耗しているようだ。先ほどまでは必至でそれに気付かなかったが、気が抜けた途端にアッシュは体中が重くなった。
「まったく、手間がかかる」
何に対してか、アッシュは特に考えていったわけではない。あくまで、この状況すべてに対して、という認識だ。ナシュマンのこともそうだが、自分自身のことも、黒い霧に対してもそう思っていた。
鬼と対峙した時に比べたら、確かに鬼の方が命の危険を感じるほどのことではあったが、あの時は相手のことを気にかける必要はなかった。しかし、今回はナシュマンを見殺しにするようなことはできなかった。相手を殺さずに無力化することが、どれほど難しいことか、アッシュは改めて思い知った。
アッシュはナシュマンの上からどいて地面に座り込むと、深いため息を吐いた。同時に、アッシュの体から力が抜けていく感覚があり、鬼の力もここまでだと分かった。そのまま飲み込まれるなどということにならずに、アッシュは少なからずホッとしていた。
「アッシュ君!」
不意にアッシュの名を飛ぶ声が聞こえ、アッシュはそちらへと顔を向けると、リーシャが心配そうな顔をしてアッシュの元へと駆け寄ってきた。
いつもならリーシャが近くにまで来たら察知できるはずなのだが、今は疲れでそういう基本的なこともできないようだった。
「リーシャ、そっちはもう大丈夫になったの?」
「大丈夫だと思う。軍の人たちが駆けつけてくれて、ようやく収拾がついた感じ」
「そう。それは良かった」
アッシュは安心してほっと息を吐いた。かなりの無茶をしていたため、これ以上戦えと言われてもできるかどうか怪しかった。魔素も回復してきてはいるが、未だに心もとない。
「それじゃあ、二人を保健室とかに運びたいところだけど……」
アッシュはナシュマンと、離れた所に倒れるユリアに目を向ける。しかし、今は心身ともに疲れ切っているため、しばらく休んでから動こうとアッシュは決めた。
「少し寝たいから、しばらくしたら起こして」
「え?えっと、アッシュ君が良いなら別に良いと思うけど、しばらくってどれくらい?」
地面にそのまま寝転がるアッシュに驚いたリーシャだったが、すぐに平静を取り戻した。
そのリーシャの問いに、アッシュは少し唸って答えた。
「う~ん、一時間、と言いたいところだけど、現実的なのはせいぜい十分くらいかな」
「今すぐ寝るのが果たして現実的なのかはともかく、ね」
「それはそれ、これはこれ。ということで、よろしく……とは、いかないのかな」
寝ようとしていたアッシュは仕方なく起き上がり、ため息を吐いた。
「アッシュ君?どうしたの?」
アッシュのいきなりな行動に首を傾げるリーシャだったが、アッシュの真剣そのもの顔を見て、何か良からぬことがあるのだと分かった。
「明らかに良くないものなんだよね、これは。何というか、黒い霧をさらに濃くしたような感じする」
「さらに濃くって、それは」
「よくお分かりになるようですねぇ、人形使い様」
おどけたような声が辺りに響く。しかし、周囲に人影はない。ただ声だけが聞こえていた。
「少し様子を見ようと思って戻ってみれば、いやはやなかなか面白いものがあるようで。まさか、私と同じ、意思のある人形がいるとは思ってもいませんでした」
「何か嫌な予感がするな」
アッシュが小さくつぶやく。
そして、その予感は間違っていなかった。
「少しそちらの同胞には興味がありましてね。持ち帰って分解でもしてみようかと思います」
そう言って、相手はリーシャのことを興味深そうに眺める。相手の言葉から、どうやら人形のようだと分かるが、アッシュはその言動からどうにも人間のようなものを感じて、違和感を覚えてしまう。
「他の人からしたら、この違和感はリーシャに対しても持っているのかな」
そんな、今はどうでも良いことを考えてしまうほどに、アッシュはこの状況が嫌になっていた。せっかく面倒なナシュマンの相手が終わったというのに、新手が現れるなど想定していなかった。しかも、よりによって今までの相手よりも強い黒い霧の気配を、アッシュは目の前の相手から感じていた。
そして、今相手が言った言葉が、アッシュには聞き捨てならなかった。
「私と同じってことは、君も意思のある人形なんだね」
「そう言いましたが?」
「どうやってそんな……」
「あなたもそうではないんですか?人間の魂を人形へと移す。それによって、人を超えた存在になるのですよ。本当に、素晴らしいですね」
相手の人形はとても愉快そうに笑う。その笑い声が、アッシュにはひどく耳障りに聞こえた。
人の魂を持っていると言うが、目の前の人形が同じ人間とは思いたくはなかった。
「人間を超えた存在だって?ふざけるな。何をもって人間を超えたというんだ?」
「おや、あなたなら分かると思っていたんですがね。わざわざ魂を持った人形を作るぐらいですから」
「作りたくて作ったわけじゃない。死ぬことさえなかったら、どれだけ……」
アッシュはリーシャが一度死んだときのことをもい出して歯を食いしばった。そのことがなければ、アッシュは人形に意思を持たせようなどと考えることはなかっただろう。今でも、その行動が正しかったのか、アッシュは悩み続けている。リーシャを助けたかった思いに嘘はないし、間違っているとは思っていないが、やり方が正しかったかは分からない。もっとまともなやり方があったのではないか、といつも考えてしまう。
そんなアッシュの様子を、リーシャは辛そうに見つめていた。自分のせいで苦しむ姿を、リーシャは見たくはなかった。
「それで、一体何の用なの?」
リーシャは一歩前に出てアッシュの前に立ち、不気味に笑う相手に問いかける。リーシャはいつでも戦えるように身構えて相手を見る。どう考えても、相手は良くない存在にしか思えなかった。
「そうですね。手っ取り早く言いますと、私の仲間になりませんか、同類」
「仲間?」
相手にそう言われたリーシャは、困惑よりも嫌悪感が勝った。何か特別な理由はなく、ただ気味が悪く関わり合いたくない相手だった。
「仲間になるわけないでしょ。それにあなたに同類なんて呼ばれたくない。私とあなたは別物よ」
「私たちは人の魂を持つ人形でしょう?同類じゃないですか」
「その一点しか共通していない。私はあなたのように誰かを不幸にしたくはないし、それを笑っていたくない。存在の定義が同じだとしても、それ以外の部分が違っていれば同類だなんて言えない」
「人形の体だからと言って、人に従う必要はないんですよ?何だったら、あなたの主を消してしまいましょうか」
そう言われた瞬間、リーシャは何も考えることなく飛び出していた。アッシュは咄嗟にリーシャを呼び止めようとするが、聞こえていないのか止まる気配がない。
一瞬で相手の目の前まで踏み込むと、全力で殴りかかっていた。
しかし、その拳は呆気なく受け止められてしまう。
アッシュもリーシャも、まさかそんなに簡単に受け止められるとは思っていなかった。元々リーシャの体は近接戦闘用に作られたものではないが、その強度は最高クラスだ。受け止めようと思って受け止められるものではない。
リーシャの拳を受け止める人形が不敵に笑うのを見て、アッシュは嫌な予感がして叫んでいた。
「リーシャ、戻れ!」
アッシュは言葉と同時にリーシャの体を強制的に自分の元へと戻す。
「迂闊に近づかない方が良いよ。今回の元凶がこいつなら、黒い霧を使ってくるかもしれない」
「でも、魔素を持っていれば大丈夫なんでしょ」
「遠隔で操作されているものと、直接目の前で操作するのとでは強さが違う可能性がある。楽観視できない。ただでさえ、ナシュマンとの戦いでこっちはボロボロなんだから、下手な手は打ちたくない」
「分かった」
アッシュはふらつくからだのまま何とか立ち上がり、相手を見据えた。




