18 人形使い、約束を果たす
アッシュが気配を辿ってみると、人気がない場所でユリアが倒れているのが見えた。
急いで駆け寄ってみると、どうやら呼吸はしっかりとしているらしい。気を失っているだけで、しばらく休んでいればいずれ目を覚ますだろう。
周囲を見渡して見ると、人形の欠片が散乱しており、シルフィーの面影があった。
「また、壊されたのか……」
アッシュはうっすらと黒い霧の気配をユリアから感じ取った。
それは残滓のようで、もう黒い霧に取りつかれているようには思えない。しばらくすれば、霧散していくだろう。
このまま倒れたままにするのも悪いので、ユリアの体を起こして、近くの壁に寄り掛からせた。
特に体に怪我をしている様子もないので、誰かを呼ばなくても大丈夫そうだった。
アッシュは再び壊れてしまったシルフィーの残骸を見て、悲しそうな表情をした。
戦いのため、仕方がないとはいえ、こう何度も壊されては人形としても悲しいことだろう。人形そのものに意思はないが、もし意思があるとしたら、などと考えてしまう。
アッシュは雑念を振り払うと、周囲の気配を探った。今アッシュが感じる嫌な気配は、うっすらと残る黒い霧とは別物だ。残りかすではなく、今もなお強く存在感を放っている。
「あっちかな」
ユリアをこのまま残しておくことに少しだけ罪悪感を感じながらも、その迷いを振り払って気配へと向かう。
こんなところでアッシュに介抱されえるなど、ユリアにとっては屈辱でしかないはずで、一体アッシュが何を言われるのか分かったものじゃない。
黒い霧の気配を辿って走っていると、アッシュはまるで自分が犬みたいだな、と思い苦笑した。
それはあながち間違っていないかもしれない。犬が匂いを元に辿るのなら、アッシュは気配を元に辿っている。何かを感じ取っているという点については、全く同じだ。
「まぁ、犬ならここまで恐れることは……いや、獣だからこそ感じるものもあるか」
アッシュは黒い霧の気配に近づくにつれて、自分の体に重しがかかっていくような感じがしていた。
それをアッシュはよく知っている。鬼と対峙した時と同じ、恐怖だ。
まさか、今回の危機も鬼と同じレベルとは思わないが、それでも体が重く感じてしまう。アッシュにとっての初めての危機が、相当ハード過ぎたのだ。
「まったく、できることなら鬼なんて一生会わない方が良かったのに……。でも、まぁ、いくら言っても仕方のないことだけどさ」
あの経験の全てが、後悔するものというわけではない。
後悔するものは多いが、得るものも大きかった。それだけのことだ。恐れるだけの経験ではなかったはずだ。
「あれか……」
ふらふらと体を揺らしながら歩く後姿を見つけ、そこから濃密な黒い霧が溢れているのが分かった。
向こうもアッシュに気付いたのか、歩みを止めて振り返った。
「……なるほどね。そういうことか」
アッシュは振り向いたその人が、ナシュマンであることに気付くと、先ほどのユリアの倒れていた場所のことを思い出し、おおよそが予想できた。
「確かに、ナシュマンには黒い霧に対する抵抗力が、人形以上に低いね。考えれば分かることだった。この状況でナシュマンが黒い霧に侵されていることは、想定してしかるべきだったよ」
そう言うが、ナシュマンは聞こえていないのか、何も返さない。その代わりに返ってきたのは、純粋な闘志。
(前は殺意を向けられたっけ。それに比べれば大分マシなんだろうけど……もしかして意識がない状態とか?何か勿体ない気がしなくもないけど、この場合は仕方ないか。他に誰かがいるわけでもないからね。自分でどうにかするしかない、か)
アッシュは咄嗟にアダマンタイトの結晶を取り出そうとするが、すぐにやめる。人形相手ならともかく、生身の人間を相手にするのに、アダマンタイトの武器は危険すぎる。使うにしても、最小限にしなくてはならない。
(まぁ、ナシュマンは普通の人間よりは頑丈だろうから、少しは気が楽なんだけど……せめて戦うなら、こんな狂暴そうなときじゃなければ良かったのに)
ナシュマンはまるで獣のような雰囲気を纏っており、アッシュは手に負えなさそうと思ってしまった。
しかし、今ここで逃げても意味はない。本来なら未熟な学生なら逃げるべき場面なのだろうが、アッシュはちょっとした約束を覚えていた。
それは、入学試験の時にナシュマンと戦うと言ったこと。リーシャを使わずに、自分の力のみで。
(今がその時、か。こんなタイミングじゃなきゃ、ただ面倒に思っただけなのに)
アッシュは周囲の状況を確認し、ナシュマンへと視線を戻す。
ナシュマンがふらふらと体を揺らし、次の瞬間、急激に加速してアッシュの目の前に迫ってきた。
「《ファーラ・イス》!」
地面を変形させて咄嗟にナシュマンとの間に壁を何枚か作るが、すぐにそれが無駄なことだと気付いた。人形を素手で破壊できるほどの力を持っているのなら、土でできた壁などは大した障害にはならない。精々、少しの間視界を塞ぐ程度。
アッシュは体を横に投げ、ナシュマンの突進を躱す。アッシュが思った以上に、呆気なく土の壁が壊れてしまった。元々のナシュマンの攻撃力は予想くらいしかできていなかったが、今のナシュマンは予想以上だった。
これがナシュマン本来の力なのか、黒い霧による影響なのかは分からないが、どちらにせよ生半可なやり方では止めることはできない。
「《ファーラ・イス》」
今度はアダマンタイトの結晶を二つ取り出し、それらを障壁にした。これなら、大抵の攻撃はどうにかできる。少なくとも、今までこれが砕けるところは見たことがない。いくら強化していたところで、人間の肉体では破壊は不可能だ。
ナシュマンが接近して拳を突き出してくるが、それに合わせて障壁で防いでいく。
しかし、突如ナシュマンの姿がアッシュの視界から消えると、アッシュは咄嗟に障壁を一枚後方に動かした。アッシュが振り向くよりも前に鈍い音が聞こえ、攻撃を何とか防げたことを察した。
アッシュは一度ナシュマンから距離を取り、呼吸を整える。あまり動いていないが、ナシュマンの迫力に圧倒されて、呼吸が乱れていた。
「……色々と面倒だな」
アッシュは様々な魔術を使う必要があると感じつつも、それらを使うことが面倒だと思った。
そこで、ふと思い至った。
「……《ファーラ・イス》」
アダマンタイトの結晶を取り出し、その表面に魔法陣を刻む。同時にその魔法陣に魔力を流し込み、魔法を発動させる。
放たれたのは圧縮した風の砲弾。猛烈な速度でナシュマンに迫ったそれは、躱されてしまう。
だが、アッシュにとっては当たれば御の字という気持ちだった。ただ、発動できるということが確認できれば問題はない。
基本的に魔法は詠唱をして発動するものだ。特別な儀式や大きな魔法となれば魔法陣を必要とするが、今も昔も詠唱が中心なのは変わらない。
しかし、魔法が生まれた当初は詠唱などはなく、ただの祈りのみで発動させていた。そして、次に魔法陣、その次に詠唱という風に変化していった。
魔法陣を使うよりも詠唱の方が優れているというわけではない。ただ、わざわざ戦闘中に魔法陣を書くのが難しいため、詠唱の方が主流になっていき、魔法陣は大きな魔法でしか使わないという認識になっていったのだ。
つまり、どんな魔法でも魔法陣さえあればその場で発動できる。アダマンタイトに錬金の魔法で魔法陣を刻めば、常に同じ詠唱で別々の魔法を発動できる。相手は詠唱から魔法を予測することができない。
今初めてやったことであるため、ぶっつけ本番もいい所だが、意外に使えそうな戦い方に、アッシュはふっと笑みをこぼした。
「《ファーラ・イス》」
アッシュは左腕のアダマンタイトの義手にいくつか魔法陣を刻み込んだ。パッと見た感じでは変化はないが、服の内側にはいくつも魔法陣が刻まれている。
魔法を発動するとき、魔法陣が発光するが、服の下に隠れていれば、それは察知されにくい。
ただ、今はあまり強力な魔法を使うわけにはいかなかった。前世で魔法使い同士で模擬戦をした経験はあるが、その時と同じような感覚で魔法を使っては、ナシュマンの体が持たない。
魔法使いは自身の持つ魔素によって、魔法の威力をある程度軽減できるが、ナシュマンには魔素がほとんどないため、軽減することができない。肉体の強度は高いだろうが、それにも限界がある。つまり、魔法使いに使うのと同じ感覚でやっては、ナシュマンの体が壊れてしまう可能性があるのだ。
(加減しながら倒すなんて、どんだけ生意気なんだって話だけど……)
アッシュはそこまで近接戦闘ができるわけじゃない。ナシュマンのような超人を相手にするには、圧倒的に力量が足りていない。前世を含めれば戦闘経験はアッシュの方が上だろうが、それだけで安心できる相手ではない。
一番楽なのは、ナシュマンの攻撃を捌きつつ、ちまちまと攻撃をしていくやり方だ。少なくとも、魔法で対応できないほどの相手ではない。やろうと思えば可能なはずだ。
ただ、生半可なやり方では簡単に押し込まれてしまうのもまた事実。相手はただの人間ではなく、いわゆる超人と呼ばれる人種だ。それに、どうやら黒い霧で肉体が強化されているように見える。
(まぁ、元々とんでもないから、今更強化しても苦労するのは変わらないんだろうけど……ひとまず、やってみますか)
義手に魔素を流し込み、刻んだ魔法陣を起動させる。
無数の風の弾丸を放つ。その威力はユリアのシルフィーの攻撃と比べても遜色のないものだった。しかし、その程度ではナシュマンは止まらない。
攻撃のその全てを回避し、アッシュへと迫る。
今度は土の壁ではなく、ナシュマンの周囲から土の棒を出現させ、それらでナシュマンの動きを押さえようとするが、ナシュマンはそれらを腕の一振りで吹き飛ばす。
「だよねぇ……」
アッシュは呆れたようにそう言うと、今度は重力操作で体を浮かした。風で浮かすのは少し魔素消費が激しくなるので、重力魔法を選んだ。ただ、動きが鈍くなるという欠点はあるが、ナシュマンと同じ土俵で戦い続けるよりはずっとマシだ。
一度アッシュを見上げて立ち止まったナシュマンは、少し腰を落とすと、次の瞬間、一気に跳び上がり、アッシュの目の前にまできた。
「やばっ!」
義手を前にして腕を交差させると、そこに強い衝撃が加わり、アッシュは地面に叩き落とされた。
肉体強化をしてダメージを軽減させるものの、元々強力な力で叩きつけられたために、ダメージなしとはいかなかった。
「かはっ、かはっ……」
肺から空気が一気に押し出されて呼吸が一瞬止まる。
だが、そのまま苦しんでもいられず、すぐに体を転がした。
次の瞬間、アッシュがいた所に勢い良く足が降りてきて、地面を陥没させた。もう少し遅ければ、その足の下にいたことだろう。
そのことに戦慄しつつ、アッシュはすぐに立ち上がると、自分を風の魔法でナシュマンから距離を取らせ、土の魔法で地面から無数の棒でナシュマンに攻撃する。
しかし、そのとっさの判断は無駄だということをすぐに理解する。先ほどもただ地面を変形させただけの攻撃は全て砕かれていた。今回も同じように、拳の一振りで呆気なく砕け散った。
「まずったな。ここまで一対一で相手するのが面倒だとは……」
魔素で動く人形ならここまで苦労する必要もなく、ただ内部の器官に介入することも考えたのだが、相手が人間ならそんな真似はできない。もし失敗すれば取り返しのつかないことになりかねない。
「もっと気を引き締めないと……」
アッシュはそっとそう口にしていた。
そもそも近接戦闘能力がナシュマンに比べて遥かに劣るアッシュが、ナシュマンと近距離で戦うことはリスクが高すぎる。本来なら、頼りになるっ前衛を置いて戦いたいものだが、今はアッシュ一人しかいないため、ない物ねだりはできない。
「っ!これはちょっと……」
不意に、ナシュマンの纏う空気が変わった。アッシュに向けられる圧がこれまで以上に重くなり、アッシュはその変わりぶりを嘆いた。明らかにこれまで以上に危ない気配を感じていた。
「もうほんと、勘弁してほしいんだけどなぁ……」
ナシュマンには魔素はない。
だが、どうやら黒い霧が魔素の代わりになっているようで、ナシュマンの力を高めているようだ。ただでさえ生身で超人なのに、さらに強化されてしまえば、一体どこまで強くなるのか。アッシュには想像できなかった。
そして、それを今から自分が味わうと思うと、冷や汗が止まらなかった。




