月が青いとでも言っておけ
わたしはただ彼に願っただけ。
一度だけで良いから、自分を名前で呼んで欲しいと。
だけど、何がどうして、こうなった?
「は?」
九十九が目を丸くする。
「名前」
わたしがそう言うと……。
「名前?」
不思議そうに言葉を返すその姿が、何故かとてもおかしく見えた。
「それってどっちだ?」
「へ?」
どっちってどっち?
苗字と名前ってことかな?
それ以外に選択肢って、多分ないよね?
「下の名前だけど?」
だから、素直にそう言った。
魔界人ならファーストネームと呼ばれるもの。
だけど、「シオリ」とはあまり呼ばれたくなかった。
さて、彼はどちらで呼んでくれるだろうか?
「栞?」
彼の口から出てきた言葉は、疑問符を装着しながらも、柔らかかった。
だけど、それ以上に甘さを含んでいる気がして、名前を呼ばれただけだというのに、自分の思考がどこかに持っていかれた気がした。
いや、親しい同級生男子からでも、名前呼びの破壊力は、ソウで思い知ったはずだった。
だけど、それが自分好みの声となれば、その威力は限界値を突破してしまう。
「どうした?」
だが、勿論、当事者はそんなことに気付きもしない。
「い、いや、別に、なんでもない」
動揺しないように意識すればするほど、先ほどの耳に残った声が、頭まで響いていく。
「体調、崩したか?」
「いやいやいや! そんなんじゃないから!!」
そんなわたしの言葉も……。
「でも、今、体内魔気が大きく乱れた」
彼には誤魔化しきれない。
「座れ」
さらに、そう強く言われては……。
「うぬぅ」
悔しいが、素直に従うしかないようだ。
体内魔気の誤魔化し方を知らないと、どうにもならないね。
そのまま、何を話すでもなく、一緒に座っている。
だけど、それが苦痛ではない。
寧ろ、居心地は良いぐらいだ。
だから、九十九と二人で過ごすのは久し振りだと言うのに、無理に話題を探す必要を感じなかった。
だが、ふと空を見た九十九が……。
「『蒼月』が、綺麗だな」
そんなことを口にした。
「へ?」
思わず、変な声が出る。
空に浮かぶ「蒼月」は、「紅月」と共に浮かぶこの星の衛星だ。
つまりは、「お月様」。
ふと、人間界での雑学を思い出す。
―――― 月が綺麗ですね。
「I love you.」と言う英語を「愛している」とは、奥手な日本人たちは素直に訳さない。
だから、「月が綺麗ですね」とでも訳せととある文学者が言ったという逸話があった。
実際、その文学者が言ったという記録はないらしい。
だけど、この人ならそう言っても不思議ではないと思わせるだけの説得力があって、かつ、多くの日本人の心を揺らしたのだから、それで良いだろう。
不意に、そんな話を思い出したのだ。
「お前は星が綺麗だって言ったけど、オレは月が綺麗だって言っただけだ」
さらに、「月が綺麗」と九十九は言った。
だが、その顔は普通だ。
そこに何の意図も感じられないことはよく分かるほどに。
他意はなかったらしい彼の指差した方向を見ると、そこには青く白い輝きを放つ「蒼月」の姿があった。
「うわ~、本当だ」
思わず、わたしも驚く。
空に広がっていた星しか見ていなかったが、上にある「蒼月」は確かに、綺麗だった。
これなら、思わず「綺麗」と言ってしまうだろう。
実は、「月が綺麗ですね」にはもう一つ、逸話がある。
その文学者は実際、「日本人がそんなこっぱずかしいことを言えるか。『月が青い』とでも言っておけ」といったそうな。
月が青い、は、本来、ありえないという意味もあったらしいけど……、ここはあえて、その文学者の言葉に倣おうか。
「『蒼月』って、ちょっと薄暗い色だと思っていたけど、今日の月はすごく青いね」
わたしにも他意はない。
ただ、そんな逸話を思い出しただけ。
しかも、そちらについては有名ではないから彼も知らない話。
だから、きっと気付かれない。
そう思って、わたしは笑った。
いつか、何かの機会に、彼がそれを知ることがあったら、どう思うのだろうか?
尤も、わたしから教える気などないのだけど……。
「栞……」
九十九がわたしの名を呼んだ。
「ふえっ!?」
いや、一度だけで良かったのに。
こう何度も呼ばれたら、心臓がいつか飛び出てしまうかもしれない。
だけど、そんなどこかフワフワした気持ちは一気に吹っ飛んだ。
「オレからも頼みがある」
そんな真面目な声と表情で。
「お前を抱かせてくれないか?」
そんなとんでもない言葉を告げる彼によって。
「…………」
わたしは、思考が停止するしかなかった。
彼の言葉の意味が、本当によく分からない。
「…………あの時の続きをしたいってこと?」
だけど、わたしの口は、震えながらもそう尋ねていた。
「あ?」
九十九が一瞬、眉間に皺をよせ、沸騰した。
「違う違う違う!!」
顔の前で手を思いっきり振りながら、否定する。
だけど、その顔は、彼にしてはかなり赤い。
何度か照れた九十九を見たことがあるけれど、これまでで一番、紅いのではないだろうか?
「そう言う意味は一切合切ねえ!」
顔の赤みが消えぬまま、彼はそう叫んだ。
それは羞恥なのか、興奮なのかよく分からない。
「じゃあ、どういう意味?」
そう確認するとともに、そう言った意味ではなかったことに、酷くホッとしている自分がいた。
「お前に触れたい」
「…………はい!?」
今度はわたしが赤くなる番だった。
そのわたしの表情に気付いたのか、九十九は慌てて……。
「ち、違う! その、お前と違って、邪な意味はない!!」
と、かなり失礼なことを言った。
「ちょっと、それ、どういう意味?」
「お前、以前、絵のモデルと称して、半裸のオレをペタペタと触り捲ったじゃねえか! しかも、頬までくっつけやがって!! アレを邪と言って何が悪い?」
「あれも邪な意図はなかったよ?」
流石に申し訳ないことをしたとは思ったけど。
「オレもない。全くない」
「じゃあ、『抱きたい』ってどういう意味?」
その後に言われた「触れたい」も結構、破壊力がある言葉だったと思う。
うん。
うっかり、異性に言ってはいけない言葉だということはよく分かった。
「抱き締めさせろって言ったんだ」
これまでの破壊力に比べれば、幾分、パンチ力は落ちる気はしたが。
「この場所では、『ゆめ』以外に手を出したらいけないんだよ?」
「だから、ちゃんと合意を得ようとしているんだよ。オレが護衛でいる以上、お前に触らないわけにはいないだろ?」
「その言い方もどうかと思うけど……」
でも、確かにわたしを庇ったりするためにはどうしても、必要なことだ。
「だけど、オレがお前を怖がらせたから、もしかしたら、もう触れることもできなくなったんじゃないかと」
その声は少しずつ弱くなっていく。
なんだろう?
わたしの方が、一応、被害者なはずなのに、この加害者になってしまったかのように居たたまれない罪悪感。
それは、九十九がわたしの前で「発情期」になってしまったあの日から、ずっと、彼に対してそんな感情を抱き続けている気がするのだ。
それが何故か分からないのだけど……。
「じゃあ、試してみましょう」
それで、彼の懸念がなくなるのなら。
「良いのか?」
「必要なことなのでしょう?」
怖くないと言えば勿論、嘘になる。
どうしても、わたしの中に、「発情期」の怖さがどこかに残っているから。
だけど、あの時の九十九と今の九十九は明らかに違い過ぎて、ちょっと戸惑ってしまう。
いや、この状態が本来の九十九だって分かっているのだけど……。
彼が、ゆっくりわたしに向かって手を伸ばす。
腕をゆっくりと引かれ、彼の腕に治まった。
なんとなく、目を閉じる。
怖さは、なかった。
身構えていたのに、妙に落ち着く。
そして、九十九の心臓の音が、いつもよりもはっきりと聞こえる。
その音はちょっと早いから、彼も緊張しているのだろう。
「大丈夫か?」
わたしを気遣うように、九十九が確認する。
「……うん」
その声は酷く優しくて、錯覚しそうになる。
九十九は、わたしのことを好きではないと分かっているのに、少しぐらい想われているのではないかって……。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




