月が綺麗だと言っただけ
「本当に罰を与える気はないんだな?」
オレはしつこいぐらいに確認する。
もともと彼女がそう言った行為を好まないとは知っているが、やはり、何のお咎めもなしと言うのは、居心地も悪い。
アレは、彼女……、いや女にとってかなりの裏切り行為であり、オレにとっては、甘美な時間だったのだから。
「ないよ」
だが、彼女も自分の考えを変える気はないようだ。
「そのことで後悔はないか?」
「それは、分からないけど……、現状では罰を与えた方が絶対に後悔しそうだなって思う」
迷うように言ったが、やはりオレに罰を与える気にはなれないらしい。
それならば、別の方向から妥協案を出すしかないだろう。
「じゃあ、何か望みはあるか?」
「望み?」
「罰の替わりだ。どんな願いでも一つだけ叶えてやろう」
彼女のことだ。
無理難題は言わない。
そして、たまには我が儘の一つも聞いてやりたいと思っただけだったのだが。
「不老不死?」
想像以上の無理難題が来た。
時に関する魔法を、本気で探す必要が出てきた気がする。
「オレを越える願いを躊躇なく口にするなよ」
昔、読んだ少年漫画のように、女性用の下着が欲しいとか言われても困るわけだが。
いや、望めば買う気はあるけれど、それはどことなく、男子学生グループの罰ゲーム的な感覚は拭えない。
「まあ、本気じゃないよ。ずっと老いず、死なずは苦しそうだ」
そう言って、彼女は淋しく笑った。
まるで、それを感じたことがあるかのように。
「一つだけ、お前の我がままを聞いてやるって言ってるんだよ」
オレはもっと分かりやすく言うと、彼女は少し考えて。
「和食のフルコース?」
「それは我が儘に入らん」
……と言うか、和食なのにフルコースってなんだ?
旅館のように次々と出せば良いのか?
それなら難しいことではない。
「和菓子の満漢全席?」
「それぐらい言われなくても普通に作ってやる」
和菓子なのに満漢全席っていろいろおかしくねえか?
いや、量を作れと言われたら、作ってやるけどな。
だが、食いきれんだろう。
「……と言うか、なんで料理ばかりなんだよ?」
うっかり、口に出してしまった。
こいつ、オレのことを「専属護衛」と書いて「専属料理人」って読んでないか?
「九十九の料理が食べたいからじゃないかな?」
だけど、オレの言葉にひるまず、素直に返す。
さらに……。
「ずっとまともに食べてなかったから、恋しいんだよ」
容赦なくカウンターを叩き込んできやがった。
そこまで言われては、オレも折れるしかない。
「ほら」
そう言って市松模様のクッキーを差し出す。
「メシは、もう少し待て」
ちゃんとしたやつは、後で食わせてやりたい。
だから、こんな場所ではこれぐらいにしておく。
「うん」
「これぐらい、いつでもしてやる。お前はもっと食え」
気付けば、また痩せている気がした。
あの男、食わせなかったのか?
「結構、食ってるつもりだけど……」
当人にその意識はないらしい。
いや、確かにこれだけ細くて簡単に折れそうなのに、思っていた以上にあちこち柔らかくて、それなりに弾力もあることは、もう知っているのだけど。
「食欲以外に要望はないのか?」
「いきなり言われてもねえ。新しい紙と筆記具?」
「それもいつもと同じだな」
そして、それぐらいは我が儘に入らない。
どちらかと言えば、オレの我が儘に近くなる。
「本当に願いは何もないのか? 食い物や紙以外に欲しい物とか」
なんて、物欲がない女なんだ。
もっとあるだろう?
服とか装飾品とか……。
そう思ったけど、それを求める彼女は想像もできなかった。
あれ?
この女、食欲と絵を描く以外の欲が本当にないのか?
与えられた物は喜ぶし、大事にしてくれる。
いや、大事にしすぎるぐらいだ。
一度、与えた物はできるだけかなり長く使おうとする。
そして、物に対する執着もないわけではない。
だけど、彼女が何かを欲するというのは昔からあまり考え付かなかった。
「う~ん」
どうやら、本気で考え付かないようだ。
やはり、腕によりをかけて作った料理の方が喜ばれる気がしてきた。
だが、ふと顔を上げる。
「じゃあ、一つだけ九十九にお願いしたいことがあったのだけど、良い?」
そう言う彼女の黒い瞳には、キラキラした好奇の色が浮かんでいた。
ちょっとした悪戯のようなものを仕掛けて来る気だろうか?
「おお。なんでも言え」
オレは余裕を持って構える。
もともと罰を受ける気でいたのだ。
どんなことでも受け入れてやろう。
だが……。
「一度だけで良いから、わたしを名前で呼んで?」
そんなオレにとって、かなり予想外の言葉を言われた。
「は?」
思わず短く問い返す。
「名前」
「名前?」
言われた言葉をオウム返しにしただけなのに、何故か嬉しそうに頷いた。
「それってどっちだ?」
思わずそう言ってしまったが。
「へ? 下の名前だけど?」
彼女はオレの言葉をそう解釈したらしい。
それなら、別に問題はないか?
そう考えて……。
「栞?」
深く考えずにそのまま口にしてみた。
?
何故か、彼女は目を丸くして、固まった。
「どうした?」
「い、いや、別に、なんでもない」
だが「なんでもない」と言う割に、明らかに様子がおかしくなっている。
なんとなくふらついて見えるし……。
「体調、崩したか?」
よく見ると、感じられる体内魔気が少し乱れている気がした。
落ち着いているように見えたが、やはり、どこか調子が悪いのかもしれない。
「いやいやいや! そんなんじゃないから!!」
激しく否定するが、この女は基本的に無理をする生き物だ。
嘘を言うわけではないが、辛い時でも人知れず頑張ろうとしてしまう。
だから、この言葉を信用してはならない。
「でも、今、体内魔気が大きく乱れた。座れ」
強めの口調でそう言って、オレが座ったすぐ横に座るように促す。
「うぬぅ」
いつものように、奇妙な声を出すが、抵抗することもなく、横にすとんと腰を下ろしてくれた。
それだけのことなのに、かなり幸せなことのように思えた。
ここまでオレって単純な男だったのか?
前と同じように、何も考えず、いつも通りに過ごせるなんて、少し前まで思ってもいなかったから、余計に嬉しく感じてしまうのだろう。
上を見ると「蒼月」がくっきりと見える。
空気が澄んでいるのだろう。
いつもはぼんやりとした「蒼」なのに、今日は輝くような青さに見えた。
「紅月」の方は、今の季節、この大陸では少し見えにくい。
夜明け頃なら、西の空に浮かぶだろう。
ふと、人間界の逸話を思い出した。
これぐらいなら、言っても大丈夫だろうか?
「『蒼月』が、綺麗だな」
その言葉の重さに少しだけ、身構えた。
だが、特に何も起こらなかった。
「へ?」
どこか、きょとんとした声。
「お前は星が綺麗だって言ったけど、オレは月が綺麗だって言っただけだ」
オレは、上を指差すと、彼女も上を見る。
「うわ~、本当だ。『蒼月』って、ちょっと薄暗い色だと思っていたけど、今日の月はすごく青いね」
そう言いながら嬉しそうに眩しい笑顔を放った。
それだけのことだ。
それだけのことなのに……。
オレが好きになった女が、この「高田栞」で良かったと思う。
ちょっとしたことでも、共感してくれる。
嬉しそうに笑ってくれる。
オレが彼女に与えられるものなど、そう多くはないのに。
「栞……」
「ふえっ!?」
名前を呼んだだけで、飛び上がりそうになる彼女。
オレのことを許そうとしてくれてはいるようだが、心のどこかでまだ、警戒されているのだろう。
その動きに少しだけ、胸が痛んだ。
だから、思い切って、こう口にした。
「オレからも頼みがある」
もしかしたら、流石に断られるかもしれない。
だが、ここから始めなければ、この先、進める気がしなかった。
「お前を抱かせてくれないか?」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




