黄昏の遠吠え
「栞にも世話になったな」
目の前で、赤い髪の青年が笑った。
「いや、わたしの方が世話になったと思うよ」
わたしは心の底からそう言った。
彼がいなければ、今、わたしはこうしていないとは思う。
「いや、俺自身もいろいろ考え直すことができた。それは、栞のおかげだ」
それは、何かの覚悟を決めた顔。
そのことに何か言おうとして……留まる。
本当にわたしは、彼の役に立てたのだろうか?
そんな疑問が頭から離れない。
何も言わなければ、このまま別れることになるのだろう。
そして、恐らくは、もう二度と会えない。
彼はミラージュの人間だ。
本来は、わたしとこんなに長い時間、交流を続けることも許されないかもしれないのに、それでも、彼は何も言わずにギリギリまで傍にいてくれた。
もし、このまま、何も考えずに「行かないで」って言ったら、彼は止まってくれるだろうか?
いや、止まらないね。
止められないよね。
それに、わたしは彼を止める資格なんてないのだ。
彼から差し出された手をとることもできずに、結局、振り払ってしまった。
だから、行かないで欲しいと思っているのに、わたしからこの手を伸ばせないでいる。
そんなわたしの迷いに気付いていたのだろう。
彼は、わたしの肩を掴んで、ぐるりと回れ右をさせる。
そこには、見慣れた黒髪の青年の背中があった。
そして、彼は、わたしの耳元に唇を近づけ、低く甘い声で囁く。
『迷ってくれて、サンキューな』
それは本当に小さく少しだけかすれた声だったけど、わたしの耳に響いた。
その直後……。
「あ、笹さん」
「ん?」
彼の声かけに、黒い髪の青年が振り返る。
そして……。
「忘れ物」
そう言って、彼はわたしの背を押し……。
「「あ? 」」
九十九とわたしの声が重なった。
背を押された勢いで、わたしは九十九とぶつかる。
少しだけ、九十九の心臓の音がわたしの耳を打った。
「この危なっかしい女から、もう二度と目を離すな」
わたしの背中に手を当てたまま、彼はそう言う。
「おお」
九十九が答えると、背中の圧力が消える。
「ちょっと!?」
そう言いながら、わたしが九十九から離れて振り返った時には、そこには既に誰もいなかった。
つい先ほどまで、そこにいた赤い髪の青年。
彼が、最後にどんな顔をしていたのか、見ることもでないまま、彼はわたしにお礼を言ってくれたのに、わたしは何の言葉も返すことができなかったのだ。
あれだけ彼に迷惑をかけたのに、「ごめんなさい」の言葉も、
あれだけお世話になったのに、「ありがとう」の言葉も、
もしかしたら、もう二度と会えないかもしれないのに「さようなら」の言葉も、
何一つ、口にできないまま……。
「……ソウ……?」
思わず、彼の名を呟く。
この名も、たった一度しか呼んでいない。
その一度だけで、彼はあんなにも喜んでくれたのに。
「行っちゃった……?」
そのことが信じられない。
この数日、あんなにも一緒にいてくれたのに。
彼がもう近くにいないことが、どこか、信じられなかった。
胸の中にぽっかりと大きな穴が開いたかのように、わたしは喪失感に襲われ、不安が広がっていく。
「ソウ!」
先ほどよりも大きな声でその名を呼んだ。
それでも、答える声はない。
「ソウ! どうして!?」
その答えを知りたくて、わたしは呼び続ける。
分かっている。
ここは「ゆめの郷」。
一夜の夢のように、楽しかった時間は唐突に終わりを告げる場所。
真実を知って、一度、目が覚めてまった後は、二度と同じ甘い夢を見ることができるはずもない。
それでも、どこかで信じたかった。
またわたしに応えるあの声に期待して。
『お前、何の反省もしてないのか?』
あのどこか呆れたような声が背後から聞こえてくるような気がして。
だけど、当然ながらそんな声は、もう、どこにもない。
もう、二度と聞くことができない。
「高田!!」
別の場所から、わたしを呼ぶ声がする。
でも、今聞きたいのは、その言葉じゃないのだ。
わたしが聞きたいのはもっと別の……。
「どうした!?」
だけど、その声はいつもわたしを気にかけてくれている。
そのことは分かっているのに、今はその声に応える余裕がない。
わたしは、その場で、両手と両膝を付いて、地面を見る。
「どうして……?」
そんな力のない言葉が口から出てきた。
「戻れば、消えちゃうのに……」
「高田……? お前、気付いて……?」
「気付いていたよ」
わたしには、彼の国の事情なんてほとんど分からない。
でも、彼の国の王子はわたしに言った。
俺を殺してくれ……と。
そして、今、わたしの友人も同じようなことを望んで、叶えられなくて、そのまま姿を消した。
そこに、何の繋がりもないとは思えない。
彼の国は、変な法律がある「謎の国」なのだから!
「でも、わたしは彼を選べなかった……。彼の手を自分から離したわたしが、どんな顔して止めれば良かったの!?」
「止めれば良かったじゃねえか」
「止められるわけないじゃない!!」
ああ、これは八つ当たりだ。
九十九に怒りをぶつけても仕方ない。
わたしには、彼を止める権利もその資格もなかったからって、九十九に言ってもどうしようもないのに。
あの人は、わたしを求めてくれたけど、わたしは拒んだのだ。
それなのに、どの面を下げて、あの人に「死を選ぶくらいなら、行かないで!」と言えるのか?
わたしの奥底から何かがこみあげてくる。
それは怒りか悲しみか分からないけれど、渦巻くような旋風だと思った。
巻き上げるように勢いよく、わたしの感情を動かして、外に出ようとしている。
だけど、不意に、歪んだ視界に入ったものがあった。
わたしよりも、九十九の方が辛そうな顔をしているように見えたのだ。
その周囲はうにうにと歪んで滲んでいるのに、何故かその九十九の表情だけははっきりと目に映った気がした。
もしかしたら、九十九は彼からもっと深いところまで事情を聞いていたのかもしれない。
そして、何を思ったか、次の瞬間、わたしに目を向けると……。
「うわっ!?」
突然、わたしの視界が黒く染まった。
夜は近かったけれど、一瞬で真っ暗になるはずはない。
九十九が、わたしに外套のようなものをかけたのだ。
まるで、あの人と再会した時のように。
それだけでも、もう、いろいろ我慢できる気がしないのに……。
「好きなだけ、喚け」
止めを刺しに来るかのように、布越しでも、はっきりした声が聞こえた。
それは彼のように優しい声ではなく、わたしを突き放すような強い声。
「この場所に人は来ねえ。音も、気配も漏れねえ」
だけど、その声には冷たさを感じない。
どこまでも、いつも通りのぶっきらぼうな声。
「つ、九十九……?」
もっとしっかりその声を聞きたくて、布を取ろうとする。
「オレも暫くは消えるから」
だけど、そんなことを言うから、布を外すことも忘れて、声と気配だけを頼りに思わず、九十九に向かって手を伸ばした。
―――― あなたまで、行かないで
そう思って、伸びた手は何かを掴んだ。
それは、布? 紐? よく分からないけど、九十九の気配が止まった?
「九十九はわたしの護衛だよね?」
今、顔を見たら何故か逃げられる気がして、布を被ったまま、確認する。
「ああ」
短いけど、返答があった。
「じゃあ、傍にいて」
―――― あなたまで、わたしを置いて行かないで
「オレがいても、お前は大丈夫か?」
そんな言葉が聞こえた。
九十九は何を気にしているのだろう?
わたしを置いて行くよりは、傍にいてくれた方が良いに決まっているのに。
わたしは大きく頷く。
すると、近くで、どさりと重いモノが落ちるような音がした。
どうやら、彼が座ったらしい。
そのことに酷く安心して、力が抜けた。
だから、素直に涙が零れ落ちる。
後から後から溢れ出て、止まらなくなっていく。
そして、わたしは子供みたいに、支離滅裂なことを叫びながら。
まるで、遠吠えするオオカミのように、遠慮なく大泣きしたのだった。
この話で、55章は終わります。
次話から第56章「全ては手に入らない」です。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




