逃がしはしない
前話の引きから分かるように、この話はややR15の部分があります。
ご注意ください。
「んっ!!」
自分とは違う柔らかい感触と生温かさが口に伝わり、思わず小さく声が漏れる。
唇を重ねられているものの、掴まれているのは頬だけなのだから、本気で逃げようと思えば逃げられるのだろう。
だけど、身体が固まって動けなかった。
両腕も力なく下がり、少しも持ち上がろうとはしない。
まるで……、あの時のようだった。
「震えてるな」
唇を離し、わたしの耳元でそう囁く。
「怖いか?」
その言葉に少しだけ顔を縦に動かすと、来島はわたしの後頭部に触れて引き寄せ、そのまま自分の胸に押し付ける。
「聞こえるか?」
「ふ?」
「俺の音」
簡潔だが、はっきり伝わる。
わたしの耳に、来島の鼓動が届いた。
「そのまま、目を閉じて、音だけを聞け」
言われるがままに、目を閉じる。
規則的に伝わってくる振動が妙に心地よくて、安心する。
視界が閉ざされているせいか、力強い音も、身体を震わせる動きも、はっきりと届く。
気付くと、頭を撫でられている。
ゆっくり、ゆっくりと。
「落ち着くか?」
「ん」
わたしの頭を撫でながら、来島は言葉を続ける。
「俺は女を気遣ったことがないからな。これが正しいか分からん。嫌なら言え」
これだけの気遣いを見せつつも、そんなことを言う青年。
「だが……」
「ふっ!?」
再び唇を重ねられ、思わず、口から息が漏れた。
そのまま、舌先で軽く唇を舐められ、くすぐったさに少しだけ開かれた口に対して、何かが侵入する気配があった。
そこで、あることに思い至って……。
「ちょっと待ったあああああああっ!!」
思わずのけぞりながら、そんな色気のない叫び声を上げてしまった。
「お前……」
来島が呆れた顔をしてわたしを見る。
それでも、この腕を放してくれる気はないらしい。
しっかり固定されたままの状態で、わたしを捉えている。
まるで、始めからわたしが逃げることを予測していたかのように。
「いやいや、これはダメでしょう」
「ダメって、今更……」
「さっき、ご飯、食べた後!」
「は?」
思わず片言になったわたしの言葉に、来島は意味が分からないという顔をする。
え?
分からない?
「は、歯磨きもしていないのに……」
わたしがそう答えると……。
「……めんどくせえ」
と、わたしの肩に額を付けた。
ぬ?
この世界って歯磨きの文化はないの?
いや、歯ブラシがあるんだから、あるよね?
「ああ、だけど、そのめんどくささを含めて、栞……、だよな」
わざとらしく、見せつけるように大きな溜息を吐いた。
「分かった。歯磨き、いや、もうお前、風呂、入ってこい」
「へ?」
「ああ、その前に、入り口のボックスで通販しとけ。栞は魔法が得意じゃないなら、物質召喚も怪しいだろ。洗浄セット、化粧品、着替え、その他諸々必要な物を買っとけ。金は俺が出す」
「あ、あの……?」
言われてみれば確かに化粧品はともかく、着替えは持ってきてないし、お風呂だって入りたいけど、それは……。
「ここまで来たのに、いろいろと理由を付けて逃げられるのはたまらんからな。先に退路を断ってやる」
そう言ってわたしを見る紫の瞳は肉食獣の目をしていた。
やはり、逃がしてくれる気はないらしい。
「分かった。お言葉に甘える」
「通販ボックスの使い方は分かるか?」
「大丈夫だよ」
通販ボックスは、スカルウォーク大陸の宿泊施設にある自動販売機みたいな物だ。
ボタンを押すと、選んだ品物が物質転送されるか、注文した部屋まで人が運んでくるようになっている。
基本的にスカルウォーク大陸は魔法が使えない人間にも優しいのだ。
因みに、わたしが宿泊している部屋にも設置してあるのは知っていたけど、一度も利用したことはない。
優秀な護衛が必要な物を全て出してくれていたから。
「スカルウォーク大陸言語表記だが……」
「? ここはスカルウォーク大陸だから、当然でしょう?」
来島は何を心配しているのだろうか?
「栞は、他大陸出身の人間なのに、この文字が読めるのか?」
ああ、読めないと思われていたわけだね。
確かに、人間界にいた時は、英語の読み書きも怪しかったことは認めるけど。
「こう見えても、各大陸言語を読むことぐらいはできるようになったよ。ウォルダンテ大陸言語はまだ勉強中だし、ダーミタージュ大陸言語は勉強しようにも資料がないから無理だけど」
そう考えると、母は、どこから資料を持ってきたのだろうか?
「ダーミタージュ大陸の存在を知っているだけでも、栞がこれまで十分、勉強してきたことが分かるよ」
「幻の大陸らしいからね」
「幻って言うか、過去に消失したと言われる大陸だからな」
消失……、アリッサムのように……ってことだろうか?
その辺りの歴史的な出来事はまだまだ不勉強だと思う。
「まあ、ボックスが使えるなら話は早い。とっとと、頼め」
「よ、予算は?」
「こんな時にケチくさいことを聞くなよ。全部、俺が持つって言ってるんだ。気にせず、頼め」
そうは言われても、やはり奢ってもらうのは悪い気がする。
これまで、散々、迷惑をかけた上に、宿泊をさせてもらっているし、食事も何度かご馳走になっているのだ。
前に「貸すだけ」だと言っていたお金も、返そうとしたら結局、「いらん」と、断られてしまったし。
「巡回警備員って安月給じゃなかったの?」
「最近、貴族の女を助け、厄介な王族の捕縛もして臨時収入があった」
なるほど、分かりやすい理由だった。
「じゃあ、それに貢献した者として、ありがたく施しを受けます」
そう言いながら、改めて、機械に向き直る。
「えっと、日用品から『歯ブラシ』を選んで、余計な機能はなくておっけ~。色は……、青、いや、オレンジ?」
「『赤』もあるぞ」
「ああ、たまには良いかもね」
なんとなく「赤」は水尾先輩や真央先輩のイメージがあるけど、たまには気分も変わるかな。
「……って、なんで後ろから覗いてるの?」
「気になるから」
「あの、今からまだいろいろ選びたいのだけど……」
確かに出資者だから、見せろと言われたらやむを得ない部分はある。
でも……。
「いや、ちゃんと注文できているなら良い。俺は向こうで待ってるからな」
そう言って、来島は部屋の方へ戻った。
さり気なく言われた「待っている」という言葉の中に「逃げるなよ」と、含まれていたような気がするのは考えすぎ?
服は、どうしよう?
素直に選ぶなら、部屋着?
流石に寝間着は露骨すぎてどうかと思うし……。
いや、いっそ普段着で良い?
それに、一番の問題って、もしかしなくても下着?
いや、なんかここの選択肢はセクシー系が多すぎて困るのだけど。
なんで、こんなに透けているのが多い?
この下着なんか、隠れてないし……。
一通り、揃えた後、お風呂を借りる。
既に温かそうなお湯が揺れていた。
わたしが宿泊している場所と違って、脱衣所に鏡はあっても、浴室内にはない。
浴槽も角は丸いけど、長方形に近く、見慣れた形をしているのでちょっと安心した。
いつもより念入りに身体を洗って、浴槽に浸かると、妙に落ち着いて息が漏れる。
泊っている所のお風呂は本当に落ち着かなかったのだ。
いや、あの部屋は全体的に落ち着かない。
設備を見た限り、高級は高級なのだけど、なんか違うような気がして仕方なかった。
「さて、どうしよう?」
どうするもこうするも、ここまで来て逃げるわけにはいかないことは自分でもよく分かっている。
流石に、今更「なし! 」と言うことなんかできるはずはない。
知識はあっても、ほぼ未知の世界だし、かなり怖い。
でも、ここに来て、来島にかなり助けてもらっている。
九十九から、あんなことをされて、頭も心も、魔力ですらわけが分からない状態になってしまったのに、それから救い出してくれた。
正直、彼がいなければ、どうなってしまったのか、分からない。
混乱した頭の中にずっとあったのは、赤く古い映像のような光景。
それは、いつか、どこかで視た、誰かの遠い過去。
目の前で起きた出来事に耐えかねて、その誰かは自身の魔力を激しく暴走させ、世界を救ったその魔力で、今度は世界を滅ぼそうとしてしまう。
その姿が、その迷いなき強さが、何故か自分と重なって、わたしの全身に震えが走っていく。
わたしは、「聖女」と違うはずなのに……。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




