浮かんでは消えていく
わたしの目が覚めた時、幸い、まだ来島は戻っていなかった。
だけど、この部屋に連れ込まれてから既に数時間経ってはいると思う。
だから、そう時間を置かずして戻って来る気がする。
本当なら、彼が帰る前にこの部屋から離れるべきなのだろうけど……、「呪い」とまで言われるような方向音痴の人間が真っすぐ宿泊先に戻れるわけはない。
それに、心配してくれた相手に対して、何の挨拶もなしに戻ること自体にも僅かながら抵抗がある。
だからと言って、彼に変な期待させるのも申し訳ない。
わたしにその気がないのだから。
「ただいま」
来島が帰ってきたようだ。
思わず、ビクリと身体が震えたが……。
「お、お帰り」
部屋から出て行かなかった以上、何も返答しないわけにもいかない。
だけど、彼からの反応はなかった。
すぐ近くにいる気配はするのに……。
「お、怒ってる?」
「怒ってねえよ。呆れているだけだ」
口を押さえながら、来島はそう返答した。
その反応で、怒っていないとは思えない。
「お前、俺が冗談で言っていたと思っているだろう?」
「思ってないよ」
どんなに鈍いわたしでも、それぐらいは分かる。
そして、その意味も……。
「思ってないけど、わたしは、どうして良いのか分からない」
あのまま、何も言わずに帰れば良かったのだろうか?
でも、それを選択した時点で、そのまま来島との縁を切るという決断をしなければならなかっただろう。
それも少し、嫌だった。
「何について、だ?」
「いろいろ、だね」
ここ数日、本当にいろいろありすぎて、頭の中がぐちゃぐちゃで纏まらなかった。
この「ゆめの郷」に来てから、本当に今まで経験のないことばかりで、わたしの許容量をとっくにオーバーしている。
自分の分身体が現れたり、九十九の元彼女さんのミオリさんからの話や、来島から告白されたりとかもいっぱいいっぱいなのに、さらに九十九からあんなことやこんなことまでされて、いろいろもう無理だ!
正直、忘れたい。
こんな時こそ、これまでの記憶を封印したい!
「それで、お前はどうしたいんだ?」
「どうしたいんだろう?」
分かってる。
どんなに苦しくても、これらの問題から逃げるわけにはいかないってことぐらい。
ミオリさんのことは正直どうでも良いし、話された内容にしたって九十九と二人の問題だから本当に勝手にしてくれとは思うけど、目の前の赤い髪の青年とはちゃんとしっかり、話をしておかなければいけない。
それが例え、どんな結果になったとしても……。
だけど……。
「メシ、食ったか?」
彼は不意に話題を変えた。
「ふぇ?」
思わず、力の抜けるような返答を返す。
「空腹だとろくな考えも浮かばん。何か、作ってやるからそこで座って待ってろ」
そんな九十九のようなことを口にして、彼は席を立った。
再び、一人残される。
本来は空腹なのかもしれないけれど、なんとなく食欲が湧かない。
来島に言われるまで食事のことを全く考えていなかったぐらいだ。
数時間ばかり眠っていたせいもあるのだろうけど。
勝手にベッドを借りちゃったのは悪かったかな。
お腹が満たされたら、少しは何か変わるだろうか?
「栞、食えないものはあるか?」
不意に来島が隣の部屋から呼びかける。
「へ? あ? ふ? ほ?」
思わず、変妙な声が出てしまう。
食えないもの?
人間かな?
いや、そんな話じゃない。
これまで食べるのに抵抗があったものと言えば……。
「む、虫の形が残っているものは難しい……かも?」
出されたものはできるだけ食べるようにしているわたしでも、流石に、節足動物と思しき存在の足が突き出た料理は、手を伸ばすことが難しかった。
「安心しろ。それは俺も無理だ。……と言うか、食わされたことがあるのか?」
「す、ストレリチアの王女殿下から馳走になりまして……」
「若宮は完全な虫嫌いだったはずじゃないか?」
人間界で彼女と面識があるせいか、詳しく説明しなくても伝わるのは助かるね。
「護衛の反撃の責任を取らされました」
ストレリチアにいた頃、ワカの我が儘に振り回されていた九十九が反撃の意味で、お茶受けとしてだしたのだ。
あの時の耳をつんざくようなワカの悲鳴は九十九も驚いたと思う。
「来島は知ってる? 虫の足ってさ……」
思い出すと語りたくなるのは何故だろう。
「いやいや、そんな系統の詳細な説明は要らないからな」
来島は何かを察したのか断りを入れてきた。
「不味くはなかったのだけど、食感がね」
あの独特の食感は忘れられない。
それでも、不味く作らないのが、九十九の凄いところだと思う。
「分かった。それよりはまともな見た目の物を食わせてやる」
来島はそう言って、奥に引っ込んだようだ。
しかし、この状況はどうなのだろう?
来島はわたしに手を出す様子はないが、この部屋に留め置こうとしているのは分かる。
男の人って、好きな女性がずっと同じ部屋にいたら、すぐに手を出してしまうと思っていたから、少し不思議。
別に手を出されたかったわけではないのだけど!
ただ、こう、なんと言うか?
女性としての魅力が皆無と言われている気がするのは何故でしょうか?
いや、本当に、手を出されたかったわけではないのだけど!!
なんか、こう、ぐるぐるするのだ。
なんだろうね、この自分勝手な感情は。
九十九の時もそうだった。
つまり、わたしは勝手な女だということだ。
その気はないのに、相手の好意や厚意に甘えている。
だけど、もし、これから来島に迫られたら、わたしはちゃんと拒否しきれるだろうか?
九十九の時と同じようにその場の雰囲気に流されはしないだろうか?
そして、来島は恐らく、九十九のように止まってはくれないだろう。
わたしの護衛である九十九と違って、彼には止まる理由なんてないから。
これじゃあ、わたしに手を出した直後、「ゆめ」を抱いた九十九に対して強く言うことなどできない。
わたしだって、同じことをしようとしている。
いや、もともと九十九に強く言う権利なんて始めからわたしにないのだけど。
思わず、溜息が出てしまう。
自分はいつからこんなに弱くなってしまったのだろうか?
確かに迷いは多いと思っていたけど、ここ数日のわたしは明らかにおかしい。
人格がぶれている、ような?
それ以上に質量の伴う分身体を生み出すのは普通じゃないとも思うけど……。
だけど、あの時の感覚が忘れられない。
鏡に吸い取られるかのような、魔力の放出は、「魔気の護り」とは全然違った。
「魔気の護り」はもっと自然に近いモノ。
自分の意思で空気を吐き出すような感覚なのだけど、あの時は、別の部分から空気を押し出されるような感覚に近かった気がする。
その感覚の違い、意識だけの存在に促されたのは思考の誘導だった。
分かりやすくも具体的だった指示は、わたしにあっていたのだろう。
まるで、絵を描く時のように具体的なイメージが頭の中に導き出されたのだから。
それは、わたしの中にある想像力と創造力が一致した瞬間だった。
目の前にあるものをありのままに描く静物画と違って、空想の中の存在を絵に描く時のイメージは、頭の中にしかない。
それを形に表すのは、自分のこの二本の腕しかないのだ。
それに気付いた時、どこか掴みにくかった風というモノが、自分の目に形となって映り込んだ気がした。
そして、その目に見えた空気の流れをはっきりと空間に描き出して……。
「あれ?」
そこで、あることに気付く。
空気の、流れ……?
空気を吸う。
空気を吐き出す。
魔法に関係なく誰でもできることだ。
そして、空気を揺らす。
空気を震わす。
空気を動かす。
空気を響かせることも……、やり方によってはできると思う。
何かが頭にちらちらと浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。
だけど、この手を伸ばせば、きっと、今なら、何かに届くような気がして……。
「何、やってんだ?」
そんな声が背後から聞こえ、思わず、思考の世界から現実に引き戻されたのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




