不可思議な結びつき
「ただいま」
いつもは誰もいない部屋に呼び掛ける。
これは、もう習慣のようなものだな。
だけど……。
「お、お帰り」
怖々と様子を窺うような声で、返答があった。
正直、期待はしていたことは間違いない。
彼女は、帰らないでいてくれるかもって。
それは俺が考えている方向性の理由ではないことも理解している。
だが、それでも、今、この時だけは、あの黒い髪の護衛ではなく、俺を選んでくれた。
それだけのことなのに、思わず頬が緩むことは避けられなかった。
不思議だ。
国の人間ではなく、昔馴染みとして彼女に関わったせいか、まるで自分が中学生で、時が止まったままでいる気がする。
いつもならこんな温い考え方にはならないのに、どうも俺は自分が思っていた以上にこの女に惚れこんでいたらしい。
「お、怒ってる?」
反応しなかった俺をどう思ったのか。
そんなことを聞いてきた。
大きな瞳の上目遣いはかなりの殺傷能力を持つ凶器だと思う。
「怒ってねえよ。呆れているだけだ」
呆れているのは事実だ。
だが、それ以上に、やはりこの場に残っていてくれたことは素直に嬉しい。
そして、同時に少しだけ、期待してしまう。
我ながら阿呆だとは思うのだけど。
「お前、俺が冗談で言っていたと思っているだろう?」
「思ってないよ」
意外な言葉が返ってきた。
「思ってないけど、わたしは、どうして良いのか分からない」
自信が無さそうに目の前の黒い髪の女はそう言った。
いつもの迷いがない黒く強い瞳が、今は揺らいでいる。
「何について、だ?」
「いろいろ、だね」
ここ数日で彼女の身にいろいろありすぎたためだろう。
処理能力と思考回路が複雑怪奇な動きをしているため、破裂しそうになっているかもしれない。
彼女から話を聞いた限りでは、この「ゆめの郷」には、護衛の発情期治療のために訪れ、そこで、その護衛から襲われたらしい。
男が「ゆめ」を買わずに迷って、身近な「主人」に手を出す。
知らない女より、見知った女の方が良いのも理由としては分かりやすく、この「ゆめの郷」では珍しくもない話だ。
幸か不幸か、彼女自身の純潔は守られたらしいが、その護衛は直後、他の「ゆめ」を抱いたという。
当人から聞いたわけではないだろうけど、態度とか雰囲気とか女の勘のようなもので判断したようだ。
それらを羅列しただけでも並の女ならどうにかなってもおかしくはないことが盛りだくさんだった。
加えて、その「ゆめ」と護衛は、昔、人間界で縁があって、もともと浅からぬ仲だったことも知っている。
あれだけ野暮天な男が、付き合っていた女とキスをしていたことに俺も人間界で聞いた時は驚いた。
そして、さらにタチが悪いことは続く。
その「ゆめ」は、この黒髪の女とも縁があったらしい。
だが、そのことについては、俺も知っていたことである。
だから、それ自体は意外でもなんでもない話だが、まさかそれぞれが別ルートでバッタリ会うとは思っていなかった。
人間界にいた時、あの「ゆめ」とはソフトボールの試合会場でよく会ったのだ。
あちらは「選手」で、俺は「観客」という立場ではあったが、同じ中学ということもあって、よくソフトボールに付いて話していた覚えがある。
俺はソフトボール知識が浅かったから、後で試合内容について解説されたことも一度や二度じゃない。
そして、同じく「観客」だったこともあった。
「応援」ではない。
「観衆」である。
あの「ゆめ」は自分の学校の練習試合がない日には、別の中学の練習試合を見ていたのだ。
傍目には熱心に見えるその行動。
それがどういう意味を持っていたか……。
その当時から、分かる人間は少なかったことだろう。
俺もその時は深く考えなかった。
だが、部活引退後にあの女は、急に雰囲気を変えていく。
短かった髪を伸ばし始め、笑顔を絶やさなくなった。
無邪気に笑ったかと思えば、物静かに微笑む姿は、まるで、俺が本屋でたまに見かけていた女のようで、正直、薄気味悪さを感じていた。
小柄で黒い髪、黒い瞳。
人間界、日本ではそんな容姿の女は珍しくない。
だが、好奇心に瞳を輝かせ、行動的なのに不思議と目立たない。
否も応もはっきりしているのに、何故か敵は少ない。
計算高く、強かでもあるのに反感を抱きにくい。
呑気で鈍く見えるのに、気付けば他人の懐に潜り込んでくる鋭さがある。
自己中心的に見えるのに、目に届く無関係な人間にも手を伸ばそうとする。
何より、外見からは想像もできないほど恐ろしいほどの粘り強さがある。
そんな微妙なバランスを持つ人間はそう多くない。
そんな女になりたかったようだが、その理由はよく分からなかった。
だが、その女が、年の瀬を前にしてある男と付き合いだしたという噂を耳にした時、合点がいった。
あの女の目的と、その意味に。
受験生なのに余裕だとか、釣り合っていないからどうせすぐ別れるとか、やっかみ半分のものもあったが、互いに魔界人だったと分かればその時期を選んだのも納得もできる。
いずれは魔界へ帰る身ならば、受験など関係ないのだ。
そこで一生を終えるわけでもないのだから。
だが、それでも人間と添い遂げることは許されないだろう。
仮に魔界人でも驚くほどの稀有な才が眠っているような相手でも、それを発芽させる方が珍しいため、間違いなく家人の理解は得られない。
だからこその期間限定。
一種の火遊びのようなものだ。
魔法を使うことができない人間に惚れてしまった魔界人はそうするしかできないのだから。
「それで、お前はどうしたいんだ?」
「どうしたいんだろう?」
俺の問いかけにもぼんやりと返す。
ああ、こりゃかなり弱っているな。
こんなに弱音を吐くのは初めて見る気がする。
今なら、間違いなく付け込むことができるだろう。
それだけの隙はあるような気がした。
だが……。
「メシ、食ったか?」
「ふぇ?」
この様子だと、恐らく何も食べてないのだろう。
近くにあった漫画も珍しく数冊程度しか読んでいないようだ。
結構な時間が経っているのに、彼女の読了した本が二桁越えをしていないのはかなり稀だと思う。
それが何を意味するのか……。
寝ていた可能性が高いな。
「空腹だとろくな考えも浮かばん。何か、作ってやるからそこで座って待ってろ」
そう言って、俺はどこかぼんやりとしている高田を置いて、炊事場へ向かった。
さて、何を作るか。
これまで様子を見てきた限りでは、あまり好き嫌いはなさそうだが、苦味や匂いの強い物を避ける傾向がある。
味が濃いものよりは薄い方が好きだろう。
そして、量は食べない。
まあ、普通の女のように気取った高級料理を好みそうもないし、「ゆめ」のように客の前ではサラダだけ、素の自分に戻ればどっぷり、ガッツリ酒と肉、というタイプでもなさそうだ。
それならば、あっさりシンプルに見える方が良さそうだ。
せっかく作っても、食べてもらえなければ意味もない。
そうなると、作る料理の方向性は決まってくる。
幸い、俺にはそこそこ料理の才があったようで、ある程度は深く考えずとも食える物が出来上がる。
生きてく上で、これは本当にありがたい。
魔界で料理を作るのは本当に難しいことだから。
それでも、一応、確認はしておくか。
「栞、食えないものはあるか?」
「へ? あ? ふ? ほ?」
何故か珍妙な返事の後に……。
「む、虫の形が残っているものは難しい……かも?」
「安心しろ。それは俺も無理だ。……と言うか、食わされたことがあるのか?」
「す、ストレリチアの王女殿下から馳走になりまして……」
「若宮は完全な虫嫌いだったはずじゃないか?」
ストレリチアの王女殿下は人間界にいた時に、普段からは想像ができないほど甲高い声を上げて虫から逃げ回っていた覚えがある。
「護衛の反撃の責任を取らされました」
その光景が分かりやすく浮かんでくるのは何故だろう?
「来島は知ってる? 虫の足ってさ……」
「いやいや、そんな系統の詳細な説明は要らないからな」
頼むから、余計な知識を増やそうとするな。
「不味くはなかったのだけど、食感がね」
しかも、不味くない料理法があるのかよ。
そして、見た目で退いてしまうような料理だと言うのに、ちゃんと素直に食う辺りが偉いとも思う。
「分かった。それよりはまともな見た目の物を食わせてやる」
それでも、虫の形が残っているような料理を、美味く作れる護衛には到底、敵わないのだろうけど。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




