忘れられない表情
わたしが目を覚ました時、予想に反して周囲には誰もいなかった。
もしかしたら、いつものように黒髪の青年がいるかもしれないと、目を開けてすぐに身体を起こさず、再び目を閉じて意識を集中させたが、彼は自分が泊っている部屋にいるようだった。
そのことにホッとしたけれど、同時にドス黒い感情が、わたしの胸の内にあることに気付く。
だが、黒いこの感情が自分の中のどこから生まれているのか分からない。
漠然と、何故か、「ふざけるな! 」系の反発に似たものがあるだけだった。
いや、それが何に対してかも本当によく分からないのだけど。
もそもそと起き上がり、いつものように九十九お手製の保存食を口にする。
彼に対して、いろいろ複雑な心境にあっても、食べ物に罪はない。
それに、あまりこの建物内の食事をとりたくはないという理由もある。
城とか高級を売りにしている場所って、妙に油の多い食事が多くて、わたしには合わないのだ。
もぐもぐと口を動かしながら周囲を見ると、なんとなく、この部屋に、九十九がいたのかなって気配があった。
もしかしたら、心配して付いていてくれたのかもしれない。
あれだけはっきりとした拒絶をしたわたしだというのに、九十九は気を使ってくれている。
それに、外で来島といた時だって、彼は最後まで姿を現さなかった。
近くにいることは分かっていたのに。
護衛として守りつつも、わたしの「近付くな! 」って一方的で勝手すぎる言い分を飲んでくれたのだろう。
だけど、それでも何かがモヤモヤする。
目を閉じると、少し前にわたしの前に現れたミオリさんの声が聞こえた気がした。
―――― ああ、嫌になる
わたしは九十九のことを男性として好きというわけではないし、九十九だって、わたしにそんな感情はない。
確かに女性として触れられたし、求められたけれど、それは通常の九十九ではなく、状態異常「発情期」中の九十九だ。
だから、それを数に入れてはいけないのだ。
だけど、それでも女性として触れられたのは彼女よりも、わたしの方が先だって、よく分からない対抗心に似たものがある。
そんなことを競っても何の得にもならない。
さらに、昔の九十九のことなんて知らないけど、今の九十九のことならよく知っているっていう妙な自負もあった。
そんなこと、問題にもならないのに。
そして、これまで自分を支えていた何かを、無遠慮に粉砕してしまうような彼女の言葉の数々が、ずっとわたしの頭を廻り巡っている。
正直、そろそろ勘弁して欲しい。
その時の九十九の反応なんてもうこれ以上、知りたくない。
わたしには何も関係ないのだから。
―――― ああ、もう嫌だ
大体、未経験の未通娘に情事の詳細を伝えてどうしろと?
今後の参考にでもしろってことですか?
それって、余計なお世話過ぎる。
何より、そんな相手がわたしに現れるとでも?
ふと、赤い髪の青年が頭に浮かんだ。
ああ、確かに彼ならその相手はしてくれるかもしれない。
わたしでも問題なく受け入れてくれると言っていたから。
でも、それって何かが違う気がする。
『九十九は何度も私の名前を呼んでくれたわ』
だから、どうした?
名前を呼ばれたのはそんなに偉いのか?
同時に勝ち誇ったようなミオリさんの顔も浮かぶ。
いや、実際は、勝ち誇っていたわけではないのだろう。
これはわたしの考えすぎだって分かっている。
確かに好意はあるのだろうけど、彼女は仕事として、九十九と接していたはずなのだから。
だけど、それ以上の強くて激しい感情が彼女の中にあったら?
『力強くて、強引に……』
その先は聞きたくなくて、思わず耳を塞ぎたかった。
だけど、なけなしのプライドみたいなものが、わたしに彼女の声を聞かせた。
精いっぱい虚勢を張ったことで、なんとか最後まで、表情も魔気を乱さずに押さえ込むことができたと思う。
彼女が笑顔で退室した直後、わたしは、脱力したのか、床に膝をついたことだけは覚えている。
だけど、いろいろ気持ちが悪くて、ごちゃごちゃと考え込んでいるうちに、意識が遠のいたのだった。
保存食を無理矢理口に押し込め、そのままごろりとベッドに転がる。
仮に、彼女の中にそれ以外の感情やそれ以上の感情があったところで、九十九が応えるかは別の話だ。
そして、そこにはわたしが関与することではない。
自分の右手を見つめ、そのまま、天井に向けて伸ばす。
わたしは、あの時、彼の求めに応えなかったのだ。
あれだけ、苦しそうにしていたのに……。
あの行為が、九十九が本心からじゃないって分かっていたと言うのもあるが、それ以上に怖かったのだ。
彼との関係が変わることが怖かった。
いや、それ以上に自分が変わってしまうことの方がもっとずっと怖かった。
あんな自分は知らなかったのだ。
伸ばされた手はこれまで以上にずっと強くて、思わずそれを掴もうとわたしも自分の手を伸ばしかけて、それでも、最終的には振り払ってしまった。
もし、あの時、わたしが掴んでいたら、こんな想いはしなかっただろうか?
水尾先輩は、わたしの選択を「正しかった」と言ってくれた。
あの時、九十九に応えなかったのは正解だったって。
だけど、それならどうして、こんなに苦しいのだろう?
どうして、あの時の辛くて泣き出しそうな九十九の顔ばかりを思い出すのだろう?
どうして、わたしはあの時のことを忘れられないのだろう?
確かにあの時は、怖くて、すぐに逃げ出したかったけど、そこに恐怖はあっても、嫌悪はなかった。
正直、不快、というわけではなかったのだ。
あの時、これまでにないほど至近距離で、わたしは九十九を見て、そして知った。
激しく乱れたあの黒い髪を。
苦しそうな色に染まっていくあの黒い瞳を。
熱い息を漏らし続けたあの紅い唇を。
汗が流れ落ちていくあの素肌を。
あの九十九が、わたしに男性として触れたのだ。
何より、あの九十九が、わたしを本当の意味で女性扱いしてくれたのだ。
それに対して思うところがないはずがない!
九十九のことが好きかどうかなんて、正直、今も分からない。
でも、彼から女性扱いされたことは素直に嬉しい。
これまで、ずっとそういった対象で見られていないという自覚はあったから。
じゃあ、彼と共にその先に進みたいかと言われたら、思わず首を横に振ってしまう。
それは怖い!
そんなことがずっとぐるぐる回っている。
わたしにだって、分かっているんだ。
同じところで足踏みをしているだけだって。
あの時、応えられなかった悔恨と。
応えなかったことによる安心と。
その後に応えた女性からの余計な情報と。
それらがずっとわたしを悩ませている。
―――― 今からでも応える?
無理だ!
あれは、発情期中の九十九だったから起こったことで、通常の九十九がわたしを相手にするはずがない。
いや、発情期中だと言うのに、苦しみながらもしっかりわたしを拒んでくれたほどだ。
だから、落ち着いた後の彼が、今更、そこまで女性として魅力があるわけがないわたしを相手にする理由など皆無だろう。
我ながら考え方が変な方向に向かっているのはなんとなく分かっているのだけど、このぐちゃぐちゃした思考回路はどうにも修正できそうもなかった。
そういったことを進んでしたいわけではないのだけど……、年頃の娘として全く興味がないわけでもなく。
未知の行為に対する怖さは確かにあるのだけど、それに伴う甘くて切ない感覚も、僅からながら知ってしまったわけで。
それらを全て含めて自分の心境が大きく変化したということもあったのだと思う。
だから、部屋から出てみたのだ。
今、自分の気持ちがどこにあるのかを確かめたくて……。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




