ここに来てから
背後にいる人間がゆっくりと動く気配に、身体が固まる。
だが……。
『そんなに緊張しなくても、大丈夫だよ、ツクモ』
いつもの声で、違う響きの言葉が背中から聞こえた。
「分身体の方か……」
オレは少しだけ胸を撫でおろして、後ろを向くと、そこには黒髪、黒い瞳の女が笑いながら手を振っていた。
『ツクモがいろいろ混乱していたみたいだからね。ちょっと出てみた』
どこか嬉しそうに笑う「分身体」。
「いや、そんなに簡単に出入りできるものか?」
あまり頻繁に「分身体」が出てくるのは、本体に影響はないのだろうか?
『普通はできないけど、今回、完全に意識を落とされているからね。栞の意識がなければワタシでも動かせるみたい。いや~、凄くない? 昏睡魔法』
拳を握って、どこかキラキラした眼差しをオレに向ける。
その表情は高田によく似ているが、それでも心が揺らされる感覚はなかった。
「水尾さんの魔法だからな。オレでも意識を落とされるだろう」
あの精神系魔法に強い兄貴の意識すら落としたものだ。
それだけ魔法国家の王女の魔法がとんでもないものだということを表しているだろう。
『そっか。確かに凄いのは、昏睡魔法ではなくて、それを扱うミオルカ王女殿下の方だね』
「分身体」は素直に納得している。
「だが、友人に昏睡魔法を使うのはどうかと思うぞ?」
「でも、あれがあの場での最善だったから仕方なくない? 九十九の誘眠魔法ぐらいなら、今の栞は簡単に無効化するよ?」
痛い所を突かれる。
確かに、高田の魔法攻撃がオレに効果が薄いのと同じように、高田にオレの魔法が効きにくいことは分かるけど、完全に無効化されてしまうのか。
『ああ、別に九十九の魔法が弱いわけじゃないよ。単に、今は、栞の耐性が強すぎるだけ。警戒心が最大限になっているからね。えっと、ゲームで言うところの、ステータスの振り分けで攻撃を全て捨てて、物理、魔法防御に全振りしちゃっている状態?』
「何故、ゲームに例えた?」
そして、それが分かりやすいから腹立たしい。
話を聞くまでもなく、高田は完全なる防御特化型だ。
しかも、当人(?)曰く、物理耐性のみ、魔法耐性のみに偏っていないらしい。
だが、魔法耐性はともかく、物理耐性が本当に高いかは謎だと思う。
『え? 分かりやすいでしょう? 現実は、あんなに単純に数値化できるはずはないのだけどね』
確かに、人間界のゲームは本当に分かりやすかった。
現実の魔法は使い手が本来持つ魔力の強さだけではない。
想像力や創造力に始まり、当人の体調や精神状態、周囲に漂う大気魔気や、最終的には運などにも大きく左右されてしまうのだ。
だが、人間界のゲームはそこまで変調が少なかった。
まあ、そんなに細かく計算してしまうと、ゲームとして複雑になってしまうし、プレイヤーたちも検証、やり込み型を除いて混乱するだろう。
『呪文一つで、一定の効果が見込めるってかなり凄い話だと思うよ』
「ゲームだからな」
気楽に気軽に遊びたいだけなのに、いちいち想像して、創造して魔法を行使するなんてやっていたら、戦闘中にイライラするだけだろう。
『まあ、栞のこの魔法耐性や、物理耐性は期間限定だと思うから、そんなに心配しなくても良いよ』
「心配? 耐性が高いなら、守りとしては良いんじゃないか?」
『いやいや、ずっと気が張っている状態だよ? 精神的に疲れちゃう』
「なんでそんなに気を張っている状態なんだよ?」
『この「ゆめの郷」に来てから、この身体と精神にどれだけの負担がかかっているか、想像もできない?』
言われて、納得する。
しかも、その肉体的、精神的な負担の大半はオレのせいかもしれない。
『だから、その負担を少しでも軽くして欲しいわけだ。専属護衛くんに』
「分身体」はニヤリと笑う。
高田が何か企んだ時の表情に似ているが、何を言い出す気だ?
『あの「ゆめ」と何をしたか、洗いざらい吐きなさい』
「アホかああああああああああああっ!!」
思わず、久しぶりに大声を出して突っ込んでしまった。
そんなオレを何故か嬉しそうに見つめる分身体。
その顔と気配が、何故か高田と重なり、今度は少し心が揺さぶられた。
『まあ、それが人間の反応だよね。でも、別に好奇心とか興味本位でないんだよ』
そう言って、分身体はオレの前に立つ。
『あの「ゆめ」が栞に吹き込んだことが、どこまで本当のことだったのか確認したいだけ。ああ、尤も、この会話は、栞の記憶に刻み込まれない可能性は高いけど、当人が意識しない部分で少しだけ、気は楽になるはずだよ』
「あ?」
どういうことだ?
『男からすれば、他者の経験談なんてオカズにできるほど図太い精神力はあるだろうけど……』
「おいこら。高田の顔と身体でなんてこと言いやがる」
いや、この分身体が、身体の記憶ってことは、高田にもそう言った方面の知識はちゃんとあるのか?
『未経験の女性からすれば、吐き気を催し、精神のバランスを崩してしまうほどのものみたいなんだよ。その辺り、ワタシにはよく分からない感情なんだけど』
この分身体は、高田と身体を共有しているだけで、意識は共有していないと言っている。
だから、その時の高田の思考については分からないだろう。
だが、身体の変調や、精神の不安定さは分かるということだ。
「み、深織は、何て言っていた?」
思わず声が上ずる。
真央さんが推測したことは、分身体によって肯定されてしまった。
『いろいろなことを言ってくれた上、最終的には「私は九十九から存分に愛された」ってことが言いたかったのはよく分かった』
「悪いが、覚えがない」
本当に!
これっぽっちも!
全く!
『いっそ清々しいね。でも、普通、思い出のメモリーになるものじゃないの?』
「微妙に古い言い回しだな。だが、本当にオレは全く覚えていないんだよ」
『おや? もしかして、操られた?』
「それに近い」
尤も、それはオレが望んだことだったが。
『なるほどね』
分身体は小馬鹿にするように笑った。
それはオレに対してか。
それとも……。
「ところで、ライズはどれくらい、高田の記憶を持っているんだ?」
『思考が入っていないので、栞の記憶とは少し違うけど、シオリと栞が見たもの、聞いたものは大体頭にあると思うよ』
「なんだそれ、天才か?」
そんな能力があれば、いろいろと楽になることも増えるだろう。
『多分、九十九の身体も、九十九が見聞きしたものは覚えていると思うよ。ワタシみたいに疑似人格を持っていないだけで。だから、ちょっとしたきっかけで思い出すものもあるでしょう?』
確かにあるが、日頃のオレ自身が思い出せないのなら、あまり意味はない気がする。
『それで? 何を確認したいの?』
「高田は……、深織と面識があったのか?」
『うん。面識、細かく言えば顔見知り? あの頃、深織さんとは会話らしい会話を交わしたことはなかったけど、ワタシは覚えているよ』
深織の言っていたことは本当だったか。
「ソフトボールでの繋がり……、か?」
『初めて会ったのは、そうだったね』
オレの確認に、分身体は肯定の言葉を口にする。
『でも、それ以外でも、何度か見かけている。バッティングセンターを始めとして、本屋とかね』
バッティングセンターはソフトボールという同じ競技をしていた以上、不思議ではないだろう。
野球をやっていた兄貴だって、行っていた場所だ。
だが、本屋でも遭遇していたとは、高田自身も知らないと思う。
学校区が違っても、近隣の区域であれば、向かう先の選択肢は限られている。
だから、ある程度は仕方がない話だ。
実際、オレも本屋では高田っぽい女を何度か見かけた。
いや、あれは間違いなく高田栞だっただろう。
オレが彼女を見間違えるはずはないのだ。
尤も、今よりずっと長い黒髪だった彼女に向かって、声をかけることはしなかったが。
だが、分身体は、もっと驚くべきことを口にする。
『あの娘、「高田栞」になりたかったみたいだからね』
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




