悪夢のような苦痛
―――― それは、まるで、悪夢のような時間だった。
長かったのか短かったのか分からないあの苦痛の時間は、過ぎてしまえばあっという間だったのだろう。
思わず遠い目をしながらそう言いたくなるほど、わたしにとっては苦行とも言える時間だった。
何度、あの場で九十九を通信珠で召喚して、彼女を黙らせたいと思ったことか。
いや、それは、何の解決もなっていないことは分かっている。
何故か、わたしが聞かなければいけないようだったし。
それに、彼を呼び出したところで、目の前でラブラブモード全開となっていちゃつかれてもかなり困るか。
今のわたしの精神状態で、魔力の暴走を起こさない自信など全くないのだ!
それにしても、この「トラオメルベ」の規定ってかなり酷くない?
何が悲しくて、同級生の赤裸々体験談ってやつを聞かなければいけないの?
しかも未経験者ですよ? わたし。
確かに九十九の主人と言う位置にいるけど、それにしたって酷すぎると思うのです。
いや、そこには「ゆめ」と客の管理とかそう言った意味はあるのだろうけど、トルクスタン王子は何も言ってなかったよね?
一人で来ていれば、確かに別の人に報告する必要はないから知らないかもしれないけど、システム的には知っていると思うのですよ?
さらに、わたしが妙に苛立ってしまったのは、それを幸せそうに語ってくれるミオリさんを見ていたからだと思う。
彼女からは、すっごく九十九のことが好きだって伝わってきて、かなり複雑な心境になったことは間違いない。
でも、これは嫉妬というのとは少し違う気がする。
似た系統の負の感情ではあると思うのだけど、なんと言うか、友人でも自慢話や惚気話を聞いていると、妙に腹が立つような、あの感情に近い。
正直、勝手にしてくれと言う感覚だった。
九十九の力強い腕とか、その身体の熱さとか、いちいち細かく説明してくれなくても、そんなの既に知っとるわ!
いつもはそう感じなかったけど、意外に汗かきだったってこともちゃんと知っているっての!
その辺りのことは、少し前にちゃんと身を持って知ったから詳細の報告は要らないと何度叫びたかったことだろう。
でも、彼女が言っていた「強引で性急」ってところに関しては少し首を捻りたくなった。
強引は納得できるけど、性急?
彼に対してそう感じることはあまりなかったから。
性急って、確か気が短いとかせっかちって意味だよね?
でも、九十九は基本的に、気は短くないと思っている。
寧ろ、長いくらいだ。
そうでなければ、10年も待ってくれるなんてことはないだろう。
言葉に対する突っ込みはキレ良く、かなり鋭いことはあるけど……。
あの時だってそう思わなかった。
全身を時間かけてゆっくりと撫で回された覚えがある。
せっかちな人が、そんな悠長なことをするだろうか?
反応に変化が現れてからは、じわじわとこちらの反応を窺うように、さらに時間をかけるようになって…………。
詳細を思い出しかけて、思いっきり頭を振った。
あの時のことは忘れたいのに、どうしても頭が思い出そうとする。
特に話を聞いてしまったせいだろう。
いや、これに関しては、彼女は自分の仕事を全うしているだけだし、何も悪くないのだけど。
そして、ミオリさんは余計なことまで教えてくれた。
九十九は、相手の名前を呼ぶ……って。
わたし、あの時は自分の名前を呼ばれていない。
尤も、アレは、九十九自身の意思ではなく、「発情期」が原因だったせいかもしれないけど。
ああ、でも、一度だけ名前を呼ばれたっけ。
少しの間だけいつもの九十九に戻った時、彼はわたしを抱き締めながら……。
『オレに、お前を抱かせるな、栞』
と、言って、初めて、わたしの名前を呼んだのだ。
あの状況を思い出すと、今更ながら、かなり恥ずかしくなってしまう。
それを言われたのが、互いにほとんど服を着てないような状態だったから。
素肌同士が触れあうって、九十九の上半身にうっかり自分の頬をくっつけた時以来だけど、その時とは状況が違いすぎる。
互いに熱を持ち、汗ばんだ身体のしっとり感とか生々しさが暫く残っている気さえした。
でも、どうしてあの時は、そんな状態で一方的に抱き締められたと言うのに、平気だったのだろう?
心に余裕がなかったせいかもしれないけど、隠すことも考えずに受け入れた。
正気に返った今は、顔から火が出るぐらいだと言うのに……。
だけど、あの状況から考えて「栞」とわたしの名前を呼んでくれたと思っていたけど、もしかして、「シオリ」と言いたかったのではないかと今では少し思っている。
彼の本当の幼馴染にして、「昔のわたし」。
でも、あの状況で、本当にそうだったら、嫌すぎるね。
せめて、自分の名前であって欲しいけど、当人に確認なんて絶対にできない!
思い起こせば、これまで、彼から「栞」とわたし自身が呼び捨てられたことはなかった。
他人にわたしのことを話す時は「栞様」が多いし、基本的に彼がわたしを呼ぶ時は「高田」だから。
そのことについて不満に思ったことはなかったのだけど……。
そして、ミオリさんの話を聞いている時に、気付いたことがある。
確かにミオリさんの身体からは、九十九の気配があったのだ。
こんな時にも、そこに反応できてしまう自分の感覚を恨めしく思う。
だから、まあ、二人が深い関係となったことは間違いないと改めて見せつけられた気もしたのだけど……。
でも、わたしとは明らかに漂い方が違ったのだ。
わたしは「印付け」された部分から九十九の体内魔気が今も漂っている気がしている。
少し、触れると、まるでわたしの身体を護るかのような九十九の気配に少しだけほっとしてしまうのは何故だろう?
それに対してミオリさんの方は、その……、下腹部からしか感じなかったのだ。
下腹部ってことは、その、まあ、そう言うことをした結果なのだと思う。
実際、体内魔気は身体的に深く接触することによって移るって、以前、話に聞いたことはあったし。
でも、わたしは何故かそこに強い違和感があった。
何故、下腹部だけ?
「深い関係になったか、ならないかの違い?」
普通に考えればそう言うことなのだと思う。
だけど、深い関係になる直前だったわたしは全身から感じるのに、深い関係になったミオリさんからは、一部だけと言うのもなんか不思議な気がする。
そこに集中しちゃうってことなのか?
その経験がまだないわたしにはよく分からない。
「……と言うか……」
何故、こんなことを考えなければならないのだろう?
九十九は確かに護衛で、わたしがある程度は責任を取らなければならないってことは分かるけど、それでも、こんなことに頭を悩ませなければいけないのか?
彼が、ただの護衛だったらここまで悩んでいなかったかもしれない。
いや、その直前に、彼がわたしに対してあんなことをしなければ、こんな風に複雑な心境にならなくて済んだだろうか?
「綺麗な、人、だったな……」
九十九の昔の恋人、ミオリさん。
綺麗で艶のある黒髪は、絵で描くなら、かなりツヤベタの技術が必要だろうと思うぐらい、一筋一筋が綺麗な髪の毛だった。
表情が変わりやすいあの黒い瞳は大きくて魅力的だった。
あの瞳のハイライトには、かなり気を使わなければ、巧く表現することは難しいかもしれない。
透き通るような白い肌。
日焼けも染みも黒子すら見当たらなかったあの肌は白黒の絵ならともかく、フルカラーだと肌に見えなくなってしまうかもしれない。
かなり繊細な色が必要とされるだろう。
女性的な体型なのに、小柄で護ってあげたい庇護欲をそそる感じを持つ、とても可愛らしい人だった。
男の人ってあんなタイプの人が好きだって聞くし、本当にそうなのだろう。
何よりも、九十九のことが今でも大好きだってことが、第三者のわたしにも伝わってくるぐらいはっきりと分かってしまうぐらい素直で、嬉しそうだった。
だから……。
―――― ああ、九十九が好きになる女性ってこんなタイプなのか。
思わず、そう納得してしまったのだ。
わたしとは、全く違うタイプの女性。
九十九があんな感じの人が好きなら、確かにわたしは対象外だろう。
わたしは、あんなに可愛くはなれないから。
ぐるぐると思考は、同じところを廻り、巡っていく……。
手を伸ばせば何かを掴めそうな気がするのに、その何かにはいつも後、僅かな所で逃げられている。
分かりそうなのに、何も分からない。
だけど、その「何か」を知りたければ、この手を伸ばし続けるしかないのだ。
この話で53章は終わりです。
次話から第54章「手を伸ばした先には」になります。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




