誰の瞳にも映らないように
その光景を見た時、正直、感情のまま、飛び出したかったことは否定しない。
オレの目に映ったのは、いつか、どこか別の場所で見たことがある赤い髪の男が、高田を抱き締めている図。
それも、彼女の小さな身体は周囲から隠されるようにすっぽりと包み込まれているのだ。
腹立たしさは勿論あるが、それ以上に、そんな行動には、オレ自身も覚えがあった。
周囲の誰の瞳にも映らないように隠したい時、そして、彼女自身の瞳にも自分以外の何も映したくない時。
あんな風に彼女を覆いつくしてしまえば、僅かな時だけその願いは叶うのだ。
ああ、くそっ!
自覚した途端、これまでの自分の行動に分かりやすく建前と本音が入り混じっていたことに気付き、その場で見悶えたくなった。
分かりやすすぎるだろ! オレ!!
寧ろ、当人はなんで気付かなかったんだ!?
いや、過去の自分を悔いてももう戻らない。
これからの自分を信頼するしかないのだ。
そして、その高田は、男から抱き締められているのに、抵抗はしていなかった。
それでも、漂ってくる気配は、驚愕と困惑が強い。
多少、彼女の魔気に関しては敏感とは言え、ここまで離れていてもはっきりと伝わってくるのだから、抱き締めている本人にも伝わっていることだろう。
つまり、どんな流れでそうなったのかは分からないが、互いの合意によるものではないと思われる。
オレが飛び出さずに踏み止まれたのは、それが分かったからだ。
それに、感じられる魔気だけではなく、高田は相手に応えることなく、その両腕を下ろしたままだった。
相手から離れようと、押し返すような様子もないのだが、彼女の両腕は下がったままだったことで、オレの溜飲が下がる気がしたのは間違いない。
少なくとも、オレは応えてもらったことはある。
一度目は、ストレリチアだった。
兄貴が感謝の想いを込めて高田の頭にキスした時、オレは我慢できずに、兄貴よりも数多く彼女の頭に口を付けたのだった。
今にして思えば、「発情期」の兆候が出ていたとはいえ、あの頃から既に、思いっきり、自分の気持ちが駄々洩れて、押さえにくくなっていた。
丸わかりじゃねえか! と叫びたかったが、あの女は何故、それでも気付かないのだ? と疑問も湧き起こる。
いや、気付かれない方がオレにとっては助かることなのだけど、それでも、全く気付かれないのは何か違う気がするのはオレだけか?
あの時、高田に抱き締め返されたのだ。
ぎこちなくも、自分の背へと回された二本の腕。
あの行動は本当に心臓が飛び出るかと思った。
彼女が何を考えてそうしたのかは分からないけれど、僅かながらも応えてくれたことには変わりない。
そして、彼女の体温を初めて身体で感じた……、あの時。
彼女が望んだ行為ではなかったというのに、それでも、強く抱きしめた後に抱き返してくれたのだ。
あの瞬間を思い出すだけで、オレの身体は「発情期」とは全く違う、焼失しそうなほどの高熱を感じるようになっていた。
さらに、血液が沸騰しそうになるほど滾り、蒸気を伴うような汗が出る。
それでも、これは「発情期」の無茶苦茶な精神状態とは違うことが救いだと思える。
あの時は本当に余裕もなかったが、今は、ちゃんと理性も働いているのだ。
彼女を思うと身体が熱くなるのは、生身の健康的な男としては正常なことで、不健康な欲望に流されるまま行動したくなる様子はない。
好意を抱く相手を欲しいと思うのは当たり前だろ?
勿論、欲したところで、この手に入るかは全く別の話なのだが……。
いや、もう、あの時のことを含めて、いろいろと思い出すことはやめたほうが良い気がしてきた。
ふとしたことで、一喜一憂するような体温の上昇下降を繰り返す精神状態に慣れないことと、自ら埋めたはずの感情を掘り起こしていくのは壮絶な自殺行為……、いや自爆行為でしかないのだ。
これまでのように感情に蓋をして、自分の奥底に沈めるだけ。
それだけで、少なくともオレは、これまでと同じように振舞うことができる。
だが、次の瞬間。
そんな余裕は一気に吹っ飛ぶ。
ぱくっ……。
そんな聞こえるはずのない音が、この耳に届いた気がした。
赤い髪の男が、いきなり高田の指をくわえたのだ。
それを見た時、一瞬で脳が沸騰するかと思った。
分かりやすい嫉妬の形が噴き出そうになる。
だが、それを高田自身が、顔を蒼褪めながらも、力強く振り払ってくれたことで、なんとか治まった。
もし、彼女が顔を赤らめてその行為を素直に受け入れていたら、オレの魔力が暴走しそうなほど、一気に理性が持っていかれたと思う。
今の彼女から伝わってくるのは、混乱、困惑、そして……、恐怖。
これまでどんな相手にも怯まず、その強く大きな黒い瞳を向け続けてきた彼女は、今はただ小さく震えていた。
その状態が酷く彼女らしくない気がして、思わず首を捻り、ある結論に達した。
まさか……、オレのせいか?
これまでの高田なら、指を咥えられた程度で、恐怖を感じるようなことはなかったことだろう。
確かに困惑はしたと思うが、近しい男から頭にキスされても不思議そうにきょとんとした顔を向けるような女だ。
あれぐらいの行為で、あんな表情と感情になるとは思えない。
だが、困ったことにオレは、それを嬉しいと思ってしまった。
あれだけ、心配になってしまうほど鈍かった女が、男を意識したのだ。
その感情を揺らしたきっかけになったのが自分だと思えるのは、自分でも歪んだ感情だと理解しつつも、どこか誇らしくも思えてくる。
こんな自分は知らなかった。
嫉妬については自分でも知っていた感情ではあったのに、今はそれ以上の独占欲が支配している。
正も負も、どんなものでも全ての感情を自分だけに向けて欲しいと……、願ってしまうのは、真っ当な感覚とは言えないだろう。
それでも、それら全てが狂おしいほど、愛おしく思えるから仕方がない。
ああ、「恋に狂う」とはこういうことなのか。
だが、今、オレの胸にあるこの想いはただの狂気でしかない。
子供の頃、抱いていた感情とは全く別種のものだ。
このまま、触れればさらに深く傷つけるだろう。
彼女の心にも、身体にも消えない疵をつけてしまった。
厳密に言えば、身体はギリギリのところで残るような傷を付けずに済んではいるが、それなりの行為には及んでいる。
傷とは言えなくても、痕にはなっているはずだ。
斬りつけるような鋭さを持った言葉ほど、向けられた瞳は強くなかった。
迷いと恐れの色が混ざった瞳など、何の脅威も感じられない。
だが、このままあの瞳が、さらに自分を憎み、嫌悪の色に染まってしまうことだけは、なんとしても避けたかった。
単純に男女関係の話だけなら、何も問題はないはずだったのだ。
少なくとも、ここまで拗れてしまうことにはならなかったと思っている。
何より、オレ自身だって、もっと早く気付くこともできただろう。
だけど、オレたちの関係の始まりが、「恩義」によるもので、傍にいることが許されたのは、「主従」を結んだからだった。
だから、「忠誠」という名の下に、全てを覆い隠した。
ずっと彼女の近くいるために、想いを奥底に沈め、そのまま目を閉じたのだ。
そして、自分が気付かないように隠し続けてここまで来た。
傍から見れば、バレバレの気持ちでも、自分自身を騙せればそれで良かったのだから。
そんな風に、自分の行動を思い出しては、次々と思考の渦に呑み込まれていく。
過去の言動の数々が、ぐるぐると脳内で渦巻いては、何の意識もしていなかった動きにこそ、真実が隠れていたことに思い至る。
そして、自分は、思いのほか欲深い男だったのだなと自覚した時だった。
「分かりやすく、迷走しているようね」
オレは、そんな久し振りの声を聞いたのだった。
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