無自覚な感情
「本当に世話の焼ける……」
目の前の酒を見つめて微笑みながらも、黒髪の女性……、水尾さんは溜息を吐いた。
確かにそう言いたくなる気持ちも分かるが、彼女自身がそれを誰に対して言ったのかは分からない。
「あれで、良かったのかい?」
「良いだろ。目の前で、いつまでも、ぐだぐだ、じめじめ、イライラされるのも鬱陶しい」
「それは同感だ」
ヤツにしては、珍しいほどずっと迷っていた。
今回の状況から、それも已む無しと、後、2,3日ほどは放置する気でいたが、早々に開き直れたなら、問題もない。
尤も、当人が開き直れたからと言って、その相手もそうかは別の問題だが……。
「それより、先輩は良いのか? 弟がいなくなったから、別の女性客を相手にした方が良いだろ?」
二人がこの店に入ってから、俺はずっと彼女や弟しか会話していなかった。
それが気になったようだ。
要は、仕事をしていないように見えるのだろう。
「問題ない。後、2時間は弟に買われた時間だ」
「は?」
俺の返答が意外だったのか、彼女は目を丸くした。
「この店は、気に入った従業員をキープするサービスをしている店だからな。リヒトと二人で時間を買われた」
こんな場所にある店では珍しくもない話だ。
この店は、ひらたすら給仕をして、対面で話す程度だが、それなりに値段はするため、あまりそのサービスを利用するような人間はいなかった。
同じ金額を支払うなら、もっと見目が良い異性が揃っていて、もっと接触できるサービスの店を利用するだろう。
人間とはそんなものだ。
そして、今回は、閉店時間まで買われているため、このまま水尾さんを送り届けることも許可される。
彼女に自覚はないようだが、こんな酒場にあって、これだけの酒を口にしていても、この容姿は異性の眼を惹きつけている。
いや、下手すれば同性の眼も。
尤も、多少、酔ったぐらいで彼女がその辺りの男に不覚をとることもないのは分かっているのだが、何事もやりすぎは良くないだろう。
「なるほど、兄を買う弟か」
「それだけ聞くと別の意味に聞こえるな」
時間を買われただけで、それ以上のモノは売った覚えもない。
「まあ、先輩とリヒトが問題なければ良いよ。一人の客に構いすぎてクビになったら、何のために就職したのか分からないからな」
安心したのか、さらに別の酒を頼んだ。
彼女が選ぶのは、基本的に酒精の強いものばかりだった。
普通の女性なら心配しなければならない強さと量なのだが、彼女は魔法国家出身者……、それも彼女は王族だ。
だから、その魔力の強さのために、度数が高い酒に惹かれてしまうのだろう。
この世界で生まれた人間にとって、酒は一時的とは言え、自分の能力を向上させるのだ。
魔法国家の人間にとっては、自分を身体強化させる美味い薬としか思っていないと聞いている。
「……って言うか、九十九はかなり金を持ってねえか? 1オルセもする酒をガバガバ飲まれているのに一言も文句も言わないなんて……」
そう思うなら控えてやれば良いのだが、そこまでお人好しではないらしい。
「日頃から、物欲が薄い弟だからな。俺よりは貯め込んでいるはずだ」
「九十九は料理に結構、使っている気がするが……」
「食費は経費で賄えている。あれでも釣りが出るぐらいの金額は出ているんだよ」
それに、弟もこれまであちこちで小金を稼いでいる。
数年単位で豪遊できる程度には貯め込んでいたはずだ。
咄嗟に渡された財布からもそれは分かる。
そして、この財布も全財産ではないはずだ。
そこまで迂闊な教育はしていない。
「日頃の庶民的な買い物の仕方では想像もできないな」
王族だと言うのに値切りが得意な女性は苦笑する。
弟もそんな彼女に言われたくはないことだろう。
「ところで、先輩は心配じゃないのか?」
「心配?」
「高田のこと。保護したヤツって男だろう?」
ああ、そのことか。
「彼なら大丈夫だよ」
何度か連絡を受けたために、そこまで心配していない。
それに、あの青年なら大丈夫だ。
少なくとも、主人の意に反することはしない。
俺に向かって直接牽制してくるような男だったからな。
「知り合いなのか?」
「偶然だったけどね。流石に何も知らない相手に任せることはしないよ」
「だが、男だぞ?」
「そうだね。それも、あの娘に惚れているような男性だ」
人間界にいた時からその気配はあった。
だが、会わなかった数年で、その恋心は十分、育っていたらしい。
「それが分かっているのに……」
「分かっているからこそ……だね。多少強引でも、無理強いを好むタイプではない。あの娘が拒めば、退くだけの理性はある」
「今の高田なら、流されかねないぞ?」
「それならそれでも問題ないよ。弟を選ぶよりは互いに傷つくこともない」
勿論、あの主人が弟を選ぶなら、それは光栄なことだろう。
だが、その先にあるものは明るくはない未来だ。
できれば、避けていただきたい。
「いや、傷つくのは弟じゃなくて、先輩じゃないかって話」
「は?」
思わぬことを口にされて、一瞬だけなんと答えて良いのか分からなくなった。
「言っている意味が分からないな」
いや、言いたいことは分かる。
見当違いだと思うが、単純にそう思い至った理由には興味があったので、敢えてとぼけて反応を窺うことにした。
「先輩も高田のこと、好きだろ?」
やはり、その結論だったか。
「確かに、彼女のことは、……好きだよ。だけど、貴女が思うような感情から来るものではないね」
そんな感情から来ていれば、こんなことを口にはできない。
「九十九は、他の女とヤってから明らかに変わった。だから、その部分が記憶にないってのも……、多分、そのせいだろう」
それはどうだろうか?
どんな形であっても、女だけではなく、男にとっても最初は重要だ。
他に想い人がいるなら、尚のこと、あの弟がその最中を忘れるとは思えない。
「でも、先輩はそれ以前。私たちがカルセオラリアに行っている間に、明らかに高田に対しての雰囲気が変わっている」
それは当然だ。
あの主人に重いモノを背負わせてしまったのだ。
そこに対しての罪悪は少なからずある。
「『雄也さん』と呼ばれることに、悦びを感じている自覚はあるか?」
「一般的に、主人との距離が近づくのは嬉しいことではないか?」
「先輩はそんなタイプではないだろ?」
言われて納得する。
確かに、護衛、世話役と言う立場から、相手の信頼は必要だが、近すぎる距離は、時として、重荷にもなる。
だから、最低限の信用を得られれば、問題はないはずなのだが……。
「どちらかと言うと、物足りなさを感じているのだが……」
「それは、もっと距離を近づけたいからじゃないのか?」
準備されていたかのように、即座に問い返されて、思考する。
あの主人との距離を近づけたいと言えば、確かに肯定するしかない。
だが、そこに、異性に対する感情があるか? と自問すれば、内なる自分は首を横に振って自答する。
自分の主人を可愛いか? と問われたら否定はしない。
魅力的か? と問われたら、全身全霊で肯定できる自信は持っている。
だが、どこまで思考を巡らせても、俺にとって、あの娘は、あの女性の娘でしかない。
黒い髪、黒く強い瞳の気高い女性。
たった一人でこの世界に投げ出されても、絶望せず、苦難の道を切り拓いてきた強く美しい俺の憧れ。
剣術国家の王を虜にし、情報国家の王やその妹を味方に付け、俺たち兄弟を救ってくれた恩人。
そんなあの方に抱く以上の感情を、大切にしているその娘に対して向ける気は一切、なかった。
確かにこの先、もっと魅力的な異性に育つことは間違いない。
だが、俺はそれでも、これまで以上に強く、激しく、そして熱い感情を抱くことはないだろう。
それは、俺にとって、尊敬すべきあの人たちに対する裏切り行為に等しいのだから。
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