名前を呼ばれる違和感
「それで、お前はどこか行きたいところはあるか?」
食事をして店から出た後で、来島からそう尋ねられた。
でも、周囲に街灯はあるものの、空は真っ暗だから、あまり出歩かない方が良い時間帯だよね?
まあ、警備員の格好はしていないけど、来島もいるから危険は少ないだろう。
明々としているのは酒場みたいだけど、わたしは、まだお酒が飲めない。
「こんな時間だし、この街のことは分からないから、来島に任せる」
蛇の道は蛇……、じゃないけど、ここは勝手知ったると言うやつだ。
街に詳しい人に案内してもらった方が良いだろう。
さっきのお店も美味しかったからね。
「…………お前はまた……。このまま安宿に連れ込まれても文句言うなよ」
「いや、その場合、文句ぐらいは言わせてよ」
いくら何でもそんな展開はあんまりだと思う。
そして、そんな男だとは思ってもいない。
「それとも帰るか? 俺はそっちを推奨するが?」
「…………帰りたくない」
来島は親切心から言ってくれたのだろうけど、こんな心境で帰りたくないし、帰ったらまたあの人と会うことになる。
だけど、そんなわたしの言葉に、何故か来島が頭を抱えた。
「お前、さっきから俺を誘ってるのか?」
じろりと睨まれても困る。
「……誘われていたらどうするのさ?」
確かにそうとれなくもない台詞だったかもしれないけど、わたしにそんな気はない。
「そりゃ、据え膳なら食うだろ。男として」
「正直すぎる。でも、申し訳ないけどお誘いじゃないよ」
「可愛い顔して、本当に残酷な女だな、お前は……」
そう言っても、来島は笑っている。
あまり苦しそうには見えない。
わたしのことを好きだって言ってくれているけど、彼はわたしのことをどのくらい好きなんだろう?
「まあ、女側の心理としては、未遂だったとはいえ、知人に襲われたなら帰りたくはねえよな。どこまでされたか知らんけど」
流石に、「割と言い難い所までされています」とは言えない。
それに……。
「それだけじゃない」
わたしはポツリと呟く。
帰りたくない、会いたくないのにはもっと別の理由がある。
「ん? まだあるのか?」
「それから間を置かずして、別の女の気配がした」
実際は、真っ暗な状態から、同じように真っ暗な部屋になっていたから一日ほど時間が経っていたかもしれないけど、それでも自分の感覚としては、二時間と経っていないのだ。
「それは……」
基本的に返答が早い来島の視線が虚空を彷徨い、珍しく言葉を探した。
「確かに『発情期』だったから仕方ないし、もともと、そういった理由で『ゆめの郷にいたことも承知だけど……」
言葉にすれば、気持ちが形になっていく気がする。
つまり、これまで表に出てこなかった「怒り」だ。
「じゃあ、その前にわたしに手を出したのはなんだったのか? ……って少しぐらい思っちゃいけませんか?」
つまり、九十九はわたしのことを本当に何とも思っていないって証明にもなっているのだけど。
「えっと、つまり、栞の焼餅ってことで『Final answer』?」
来島が無駄に英語の発音が良くて腹が立つ。
いや、彼はもともと英語特化型の文系だったと知っているけど。
なんとなく、九十九もそんな感じだったよね。
人間界の男性って理系に強い印象だけど、魔界人がそうなのかな?
「焼餅? そんなのではなくてもっと、こう、数少ない乙女心が刺激されたと言うか……」
流石に女として、看過できなかったというか。
「乙女心、数少ないのかよ。そして、見事にスルーしやがった、この女」
「受け流し?」
はて、何のことだろう?
「俺、結構、勇気出して言ったつもりだったんだけど?」
「ふえ?」
勇気?
ファイナルアンサーが?
「名前呼び」
「…………ああ」
今、さらりと言われたからそのまま気にも留めなかった。
いや、魔界に来てから結構、普通に「シオリ」って言われていたからだろう。
でも、今、来島が言ったのはもうちょっと柔らかい印象を持つ「栞」だった気がする。
それを思い出して、少し……、耳が心地よい。
「来島でも、名前呼びって緊張するの?」
「これまでの呼び方を変えるってタイミングが必要だからな。機会を狙ってたけど、慣れてなかったからなかなか割り込ませることができなかったんだよ」
ああ、その気持ちは分かる。
わたしも、まだ雄也さんのことを「雄也さん」呼びに慣れないから。
「呼び方を変えるって言ってなかったっけ?」
「それは反応伺い。こっちは実践。天と地ほど意味が違う」
「まどろっこしいことするね」
「こういう女だったよ。なんで、俺、こんなヤツに惚れたんだろう? 自分の気持ちに泣きたくなる」
なんとなく酷いことを言われている気がする。
だけど、悪い気はしなかった。
「本当に好きになってくれたんだね」
「お前、人のことをなんだと思ってるんだよ?」
「いや、わたしもこれまで告白に似たようなことは何度か、されてるんだよ」
「そのたびに護衛の笹さんが蹴散らしてきたのか?」
来島が何故か苦笑する。
「いや、九十九、一切、関係ないから」
本当に関係なかった。
大半、九十九がいないところだったから。
「だけど、そのほとんどが『高田栞』を見てくれないの。立場とかそんなものしか見てないんだよ」
まあ、つまり、神官たちによって「聖女の卵」を祭り上げるようなもので……。
「お偉いさんは面倒なんだな」
「仮に見てくれたとしても、年齢差が激しいとか」
「ああ、少女趣味ってやつか。そっち方面にはかなりモテそうだもんな、……栞は」
「……嬉しくない。そして、そこまで幼くもない」
確かに背は低いし、体型もそこまで女性らしいとは言い難いですけど!
「今度は反応したな」
「…………何が?」
「『栞』」
「ふわっ!?」
また流そうとしたけど、一度でも意識すると、やっぱり無理だった。
友人から親し気な呼び名に変えられるって、結構、破壊力がある。
「そうか……。俺の言葉でも、お前にそんな顔はさせられるんだ」
どこか安堵した来島の声。
そんな彼を見ていると、わたしにもその気持ちの半分でも彼に返すことができるのだろうか? と思ってしまう。
恐らく、純粋に恋愛的な意味で「好きだ」と言われたのは初めてだと思う。
ライトは、好奇心もあると言っているし、終始、軽い。
リヒトは、恩人って意味で……、だったと思う。
ストレリチアの元「青羽の神官」は、恋愛より別の感情に近かった。
それ以外の人だって、恋愛って意味で「高田栞」に気持ちを伝えてくれた人はいなかった気がする。
女性として求められたという意味では、九十九の方が先だけど、恋愛感情は欠片もなく、しかも、アレは女性なら誰でも良いというような状況だった。
前もって、「発情期」ってそんなものだと聞かされていても、実際、露骨に見せつけられたら男性不振になっても仕方ないだろう。
「どうした?」
「いや、何でもないよ」
じっと見ていたことに気付かれて、目線を逸らす。
「俺の顔に見惚れたか?」
「……来島って、図太いよね」
「いや、結構、繊細だぞ」
その言葉に対して、いつものように「どこが?」と言いかけて……。
「ほら」
来島はわたしの右手を掴んで、自分の胸に当てさせる。
「すげ~音だろ?」
「え……? あ……、うん」
わたしの方が凄い音になっている気がしますが!?
顔が凄く熱いからかなり紅くなっていることだろう。
しかもなんか口元が妙ににやけてしまうと言うか?
女慣れしている男の言動はこれだから困る!
「俺も緊張してるんだよ」
周囲が暗いからわたしの表情が分かっていないのか?
いや、でも、来島の顔が見たことがないほど真っ赤になっている。
わたしでも、この人にこんな顔をさせられるんだ……、と妙な部分で嬉しく思えた。
「中学の時の感情に引きずられている部分もあるけど、俺にもこんな気持ちはまだ残ってたんだな」
そんな風にしみじみと言われ、来島に手を握られたまま、わたしは下を向いて、何も言葉を発することができなくなってしまったのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




