ずっと一緒にいた違和感
全身が、ゆらゆらと揺れている気がする。
まるで水の中にいるみたいだ。
ぬるま湯のように気持ちよくて、このままずっと何も考えずに眠っていたい……、そう思ってしまうほどに。
不意に、ジギタリスの船で、紅い髪の精霊から水に浸された時のことを思い出す。
今のゆらゆらした状態が、あの感覚に似ているからだろうか?
あの時は、まだ本当に何も知らなかった。
何も知らないままでいられた。
だけど、あれから二年、いやもう三年近く?
もうすぐわたしは18歳になるが、それでも人間界でただの人間していた時よりは、ずっと魔界人になってしまった。
そのまま心細くなって膝を抱えて背中を丸める。
そんな自分はまるで、胎児みたいだなと思った。
いや、本物の胎児は見たことがないけれど。
ああ、似たような存在なら、カルセオラリア城で見たことはあるな。
あれを普通の胎児として認めるかどうかは、様々な事情を知った今でも迷うところではあるけど。
なんだろう?
さっきまでの穏やかな気持ちが急速になくなり、現実的な思考が入り込んできた気がする。
まるで心地の良い夢から覚める前のように。
『いつまでもぬるま湯気分ではいられないってことでしょう?』
そんなわたしの思考に返答するモノがあった。
その声の主をわたしは知っている。
ずっと一緒にいたから。
だけど、ソレがなんであるかは分からない。
ずっと一緒にいたはずなのに。
『今は、ワタシのことなんてどうでも良いんだよ』
まただ。
確実にわたしの思考を読み取り、強引に入り込んでくる。
わたしは何も考えずに眠っていたいのに。
『それでも、目を覚ましたいと願っているのもアナタだよ』
そんなことはない。
わたしはこのまま、目を開けたくない。
いろいろな人に心配かけて、迷惑かけてばかりの自分なんか嫌だ。
そんなわたしよりもずっと、本来のあなたの方が良いでしょう?
『本来のワタシも何も、ワタシはアナタから分かたれた魂でしかない。過去の遺物が今を生きるアナタに今更、成り代われるはずもないし、もう成り代わる気もなくなったよ』
わたしが嫌になったら殺してでも出て行くのではなかったの?
『確かに今もそうしてグダグダ悩んでいるアナタのことは嫌なんだよ。でも、それでもアナタがいなくなるのを望んでいる人は誰もいないから』
そうかな?
案外、うまくいきそうな気がするけど。
彼女ならわたしより様々な知識がある。
それに、魔法が使えるではないか。
『ふざけるな』
うん。
その反応は正しい。
逆の立場なら、わたしもそう言う。
『その考え方は、アナタを望んでいる人たちに失礼だからね』
うん、分かっている。
わたしは、十分すぎるくらい護られていて、分不相応なぐらい愛されている。
『少なくとも、ケルナスミーヤ王女殿下や、ミオルカ王女殿下は「高田栞」以外の「ワタシ」を認めない』
彼女たちは、「高田栞」として生きている間に会ったからね。
それ以外の「わたし」を知らないんだよ。
『ユーヤもツクモも「高田栞」以外を求めない』
いやいやいや、彼らは「シオリ」でも十分だと思うよ。
もともと彼らが捜していたのは「シオリ」なのだから。
『何を言っているの?』
それは純粋な疑問。
『この上ない形で、ツクモから求められたのに』
…………。
はっ!?
思考が完全に停止していた。
いや、「ツクモから求められた」って、アレは一種の病気状態だよね?
あれは、数に入らない……、と言うか、入れてはいけない気がするよ。
『病気でもなんでも、「女性」として求められたのは初めてでしょう?』
嬉しくない。
どうせなら、もっと別の形が良かった。
『一度はその気になったくせに』
それは確かにそうだったけれど!
でも、アレはどちらかと言うと、好きとかそういった感情から湧き起こったわけではなく、肉体的な反応に近かったと思う。
『口では嫌だと言っても、身体は正直ってやつ?』
それは、何か違うと否定したいし、使い所が微妙に違う気もする。
なんか発想がオッサンっぽいよ?
『そんなに迷うぐらいなら、ツクモの言うままに「強制命令服従魔法」なんか使わずに、そのまま流されたら良かったのに』
簡単に言うな。
そんなことしていたら、お互いに後悔してもしきれない。
あの時、直前で九十九が正気になってくれたから、「強制命令服従魔法」を使うと言う手段がとれた。
あんなに苦しんでいた九十九が、それでも「命呪を使え」と叫んでくれたから、わたしもあのまま流されずに済んだのだ。
『お互いに納得した結果なら、なんでそんな状態なの?』
うぐ……。
それは自分でも思う。
わたしだって、あの時、「命呪」を使うしかないと思った。
ろくに抵抗もできない状態だったのだ。
水尾先輩だって、そう言ってくれたではないか。
そうしないとどちらも救われなかった、と。
だけど……。
あんなことがあった今、合わせる顔があると思う?
あんなことまでされた後、どんな顔をしろと言うのか?
「九十九は、わたし以上に傷ついていると思う」
気付けば、声に出ていた。
「あんなに苦しんで、助けて欲しくて、わたしなんかに縋りついたのに……」
それでも、わたしは彼を受け入れることはできなかった。
「命呪」という形で、拒絶したのだ。
『アナタ以上に傷ついているって言うけど、ツクモがそんなに弱いと思う?』
わたしは少し考えて、多分、首を振ったのだと思う。
彼はそんなに弱い人間なんかじゃない。
こんなに迷ってうじうじとしているわたしなんかよりも、もっとずっと強いということは知っている。
『確かに罪は罪だよ。だから、アナタが許したくなければ、ツクモのことを許さないままでも良いと思う。それだけのことはされたのだから。そして、それを彼もちゃんと理解しているから』
許すとか許さないとか、そんな話ではないのだ。
『彼は不実な男?』
そんなわけない。
あの人はどこまでも真面目で、考えすぎてしまうほど考えてくれる人だ。
だけど、そんな人だから、謝った後は、あのことに触れないようにするだろう。
わたしにだって、アレは彼自身の意思じゃなく、「発情期」のせいだというのは分かっているのだ。
そして、彼は本当に何も悪くないということも、ちゃんと分かっているのだ。
『ツクモが真面目な男だって知っているなら、彼から謝る機会を奪わないで』
別に謝って欲しいわけじゃない。
そんなものなんかいらない。
「何事もなく、いつも通りって顔をされるのが、嫌だ」
ついポロリと出てきた言葉。
「大したことじゃないって顔をされるのも嫌だ」
一度、口から出た言葉は次々と溢れていく。
「九十九がわたしのことを好きじゃないのは知っているけど、それでも、あったことがなかったことにされるのは嫌なんだよ!」
これがわたしの本音だった。
あれは既にあったことだ。
確かに、わたし自身、記憶を封印したくなるぐらい怖かったし、何度も思い出したいことでもないし、正直、二度とあんな目に遭いたくもない。
あんなにもわたしの言葉を聞いてくれなかった九十九は本当に初めてで、どうして良いかも分からないほど混乱もして……。
だけど、あれら全てをなかったことにされるのだけは、何故だかわたしは、凄く嫌だったのだ。
『人間って本当にいろいろめんどくさいね』
「人間だからね」
自分より高い声の持ち主の忌憚のない言葉に思わず苦笑する。
『だから、ワタシはその世界で生きていける気はしないんだよ』
「そっか……」
確かに知識だけしかない存在では、感情を伴う人間たちの相手はきついかもしれない。
『それにツクモから、凄く嬉しいモノをいっぱい貰っちゃったから』
なぬ?
ツクモから?
『その思い出だけで、これからのワタシは頑張れるよ』
「ちょっと待って。九十九から何をもらったって?」
あの男、わたしには酷いことをしたというのに……。
『内緒』
その言葉がますます腹立たしい。
『知りたければツクモの口から直接聞いてね』
そんなどこか挑戦的な言葉が聞こえて……。
―――― わたしは、自分の世界へ戻っていったのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




