違和感が群れを成して
我が耳を疑うとはこういった時に使うのだろうか?
昔、縁があった女の口から……、何故か「高田栞」の名が出てきた。
それも、小学校も、中学校も違うというのに。
いや、確かに近い場所で生活していたのだから、その名前を知っていてもおかしくはないのだが、小学校や中学校では学校区が違うとそれだけで交流する機会はぐっと減る。
「深織……、なんで……、高田のことを知っているんだ?」
誤魔化すことも忘れて、思わず、そう尋ねていた。
高田の方は深織のことを知らなかったみたいだし。
「あっちは知らなくても、不思議じゃないよ。私が一方的に知っているだけだから」
苦笑しながらも、深織は答えた。
「髪の長さがかなり違ったから、すぐに確信は持てなかったけれど……、南中の元生徒会長もセットだったからね」
元生徒会長……?
ああ、確か、水尾さんのことか?
いや、なんで、こいつ、ここまで知っているんだ?
「九十九は知らなかったかもしれないけど、あの二人。近隣中学校の女子ソフトボール経験者ならそこそこ有名だったから。『南中の凸凹二塁手』」
「あ?」
なんだ?
その異名。
そして……、ソフトボール経験者ならって……、深織は、ソフトボール部だったのか?
オレたちが付き合う頃には、彼女も部活を引退していたからそんなことも知らなかった。
「まさか……、こんな所で、あんな形で会うなんて思ってなかったけど」
そう言って深織はどこか懐かし気に言う。
オレは、ソフトボールをやっていた頃の高田をほとんど知らない。
彼女と再会したのは、冬を越え、春を迎えた頃。
既に部活動は終わり、受験目前だったから。
たまに近くのバッティングセンターにいるという話を、中学で野球経験者の兄貴から聞いていたぐらいだったが、オレは一度も行ったことはなかった。
野球とかはよく分からなかったし、あの頃は、高田と会うことは禁じられていたから。
「九十九が未経験なのは、あの可愛らしいご主人様の意向?」
「そんなわけあるか」
少し被せ気味にオレは反論した。
「単にオレがモテないだけだ」
「え? 九十九はモテるでしょう?」
なんだ?
少し前にもこんな話をどこかでしたような気がする。
「私、貴方と付き合っている時、大分、嫉妬されたのだけど。受験生なのに、教科書隠された時はどうしようかと思ったぐらいだよ?」
「…………は?」
そして、その時の会話と同じように嫌がらせを受けていたとか……。
「まあ、それなりにこっそり報復はさせてもらったけどね」
どこか黒い笑みを浮かべる深織。
普通に考えれば、使用制限はあっても、魔法が使える魔界人なのだ。
嫌がらせをした人種がどんな相手であっても、ただの人間の身では、太刀打ちできないことだろう。
「まだまだ九十九とは話していたいけど、そろそろここまでにしましょうか。時間は有限だから」
そう言って、深織は立ち上がった。
「九十九は本当に変わっちゃったね。ご主人様の名前を出すまで、私と顔も目も合わせてくれないなんて……」
その言葉は非難と言うよりもどこか淋しさを含んでいる。
そして、彼女はオレの右手を取った。
「手を出せない人を好きになっちゃったなら、これまでずっと大変だったでしょう?」
「好きじゃねえよ」
「嘘つき」
オレの言葉を深織は両断する。
だが、オレは嘘を吐いた覚えはないのだ。
何より、オレは、高田だけは好きになってはいけないのだから。
「九十九はずっと苦しんでいたはずだよ。一度もなかった? 『なんでオレの気持ちを分かってくれないんだ?』って思ったことは……」
そんな思いは数えきれないほどしてきた。
だが、それは彼女の言っている意味と少し違う気がしたので、黙っている。
「そんな人たちのために、私たち『ゆめ』がいる」
そう言いながら、深織はオレの手をさらに強く握った。
「九十九が最初に出した『ゆめ』の希望は、あのご主人様そっくりだったのは分かっている?」
「分かってるよ」
流石にそれを認めないわけにはいかなかった。
無意識の願望。
手に入らないからこそ欲しくなる切望。
だが、それ以上の感情は否定する。
「そうか……、それは分かっているんだね」
先ほどから深織はオレの目ではなく、ずっと握ったままの両手を見ている。
「本当は、『ゆめ』ではなく、あのご主人様を……、抱きたい?」
そう言われて……。
「いや、アイツだけは抱きたくない」
オレは迷いもなく言い切った。
それはあの時、高田に向かって言ったこと。
オレは、どんなに欲しくても、「高田栞」だけは抱きたくないのだ。
男としては、強く激しく求めている気持ちがある。
だから、あの時、高田に手を出したのだから。
だが……、彼女の護衛である「笹ヶ谷九十九」は、その気持ちを拒絶する。
それが矛盾した感情だと分かっていても、オレの中では十分、成り立っていることだ。
「嘘つき」
再度、深織はそう言った。
「あの人以外、もう見えないくせに……」
ポツリと言ったその言葉は、先ほどより随分、弱くなっている。
「深織……?」
「昨日は通じたものが今は通じない。これだけ接近しても効果がないなんて……、特定の想い人がいる時ぐらいだって聞いている」
彼女はオレの手を見つめたまま何やら、呟いている。
「何の話だ?」
「真面目な話、ここから貴方はその気になる?」
そう言いながら、ようやく顔を上げた。
「……何の話だ?」
「分かった。言葉を変えよう」
深織は、オレの手から離れ、咳払いをする。
「今、ヤる気はある?」
「………………ねえな」
少し考えて答えた。
その気が削がれた……が正しい。
それなりに緊張していたし、オレ自身も臨戦態勢を整えようとしたけど、あまり効果がなかったようだ。
逆に時間を置いた上に話し込んでしまったことで、落ち着いてしまった気がする。
「こんなことなら、一緒にお風呂にはいるべきだったかな。でも、未経験者と言うことを考慮すれば、ちょっと夢がない気がしたのよね」
明らかに心遣いの方向が間違っている気がする。
最初、深織がこの部屋に来た時はもう少し、オレもその気になっていた……と言うか、発情期が重なったようになっていた。
だけど……、深織を追い返した後、高田とそれなりのことをして……、ある程度、心も身体も満足してしまった感はある。
いや、正直、足りなかった。
そう言った意味では、心から満たされたわけではないのだろう。
だが、かなりギリギリの線までしてしまったのだ。
だから、身体はともかく、心が落ち着いたことは間違いない。
直後は……、心こそ乱れていたけれど。
「だけど、流石に『ゆめ』として、二度も帰るわけにはいかない」
そう言って、深織は思いつめたような顔をしながら……、瓶を召喚した。
その透明な瓶には紫色の液体が揺れている。
「オレに飲めと?」
トルクスタン王子から聞いたところによれば、「ゆめ」は、様々な媚薬を所持しているという話だった。
つまり、その一種なのだろう。
だが、オレはある程度、薬に耐性がある。
今、彼女が手にしているのがどんな種類の薬かは分からないが、服薬で効果が出るかは疑問だった。
「まさか。信用を得ていない初見のお客様に薬品投与は許されていないよ。当人が希望すれば、別だけどね」
既知の関係でも初見になるかは疑問だが、言っている意味は分かる。
「私としても、これは、あまり使いたくなかったのだけど……」
そう言いながら、深織はその瓶の中の液体を呷り……。
「不味っ!?」
そして、同時に咽た。
味を知らなかったらしい。
そして、オレとしては逆にそんな薬品に興味を覚えてしまった。
分けてもらうことはできないだろうか?
いや、成分と効果が分かれば、調合は可能か?
しかし、そんな思考は不意に途切れる。
目の前で咳込んでいた女の気配が不意に変わったのだ。
そんなことはあり得ない。
だが、この気配を、オレが見誤るはずがなかった。
「な……?」
さらに……、その女は長い髪をかき上げて、オレを見る。
黒い髪、強い光を宿した大きな黒い瞳。
先ほどまでの深織の面影はなく、よく見知った女がそこにいた。
そして、オレは自分の身体の全てが心臓になったかのように、全身を動かす大きな鼓動を聞いた気がしたのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




