何度も浮かび上がっては
―――― 悪い夢を見たみたいだ。
目が覚めて、最初に思ったのは、そんなことだった。
「発情期」中は、夢や幻を見やすいことは知っているが、今回のものは特に性質が悪いというしかなかった。
だが、意外なことに頭が、まるで真夏に冷水をぶっかけられた時のように妙にさっぱりしている。
どうやら、ぐっすり眠っていたらしい。
オレにしては、珍しいことだった。
先ほどまで眠っていたベッドが、酷く乱れている。
一体、どんな寝相をしていたら、ここまで荒れるのかと思うぐらい、の状態だった。
掛布団は下に落ち、敷かれていた白いシーツも皺くちゃになっている。
何気なく手を伸ばすと、そこには自分がよく知っている気配と、香りが残っていて……。
―――― ドクンッ!!
自分の全身を震わすほど、大きく心臓が動いた。
「はあっ!!」
その音がまるで、何かの合図だったかのように、オレに狂おしいほどの熱をもたらす。
そして、その熱さで思い出した。
少し前のアレが、夢ではなかったことを。
今も滾るような身体の熱と、せわしなく動き続ける心臓と、荒々しい呼吸が、まだ何も終わっていないことをオレに伝えていた。
この状態から、オレはあの女を抱かずに済んだことは間違いない。
間違い、ないのだが……。
「あそこまでしていたら、変わらんだろう!」
オレはベッドに両拳を叩きつけた。
今の自分の心境に不似合いな力の抜けるような音が、部屋に響き渡る。
あの時間を思い出すだけで、呼吸が息苦しくなる。
記憶している部分だけでは、確かに、あの行為は最後まで至っていなかった。
だけど、彼女の素肌に触れた。
自分の熱を押し付けた。
身勝手な欲を曝け出した。
それだけでも、オレにとっては十分すぎるほどの罪過だ。
――――ちくしょう!
悔やむ心は確かにある。
だけど、この身体はどこまでも正直で……。
オレの中にある欲が、まだ何も諦めていないことを伝えていた。
アイツが欲しい、アイツを壊したい、と身体の奥底から今も激しく叫び声を上げている。
幸い、当人が近くにいないせいか、幸いにして、今は、あの時ほど本能に引きずられてはいない。
だが、ベッドの残り香や残留魔気だけで、これだけ力強い反応をしていることも、否定できなかった。
オレは、変態か!?
「変態だな」
自嘲するように吐き捨てる。
あの時のことは、悔しいが記憶が飛ぶまでの経緯を鮮明に覚えている。
一気に本来の目的を達成しようとしなかったのは、残っていた理性が抑制していたわけではなかった。
目的に到達してしまえば、その先は二度とない。
それを知っていたから、少しでも長く味わおうとしただけだ。
そうでなければ、あんな夢魔が使う魅了魔法を越えるほどの甘い魅惑に、抗えるような男がいるものか!
記憶が吹っ飛んでからは覚えていないが、恐らく、彼女が何らかの「命令」をしたことは間違いないだろう。
オレを抑制する魔法は、至近距離で意識を吹っ飛ばすぐらいしかない彼女だ。
そんなアイツが唯一、オレたち兄弟を押さえつける手段を行使して……、オレをちゃんと拒絶してくれた。
だから、彼女が無事だった、とは言い切れないけれど、最低限の部分は護り切ったのだと信じよう。
だが、唇は重ねてしまった。
それも一度や二度じゃなく、数えきれないほど多かった。
十や二十の話ではない。
さらに、舌までねじ込んだし、それ以上のこともした記憶が残っている。
改めて思う。
なんてことをやらかしてんだ!!
あれらの行動全てが、「発情期」の熱に浮かされていたためとは言っても、到底、許されることではない。
何より、彼女はこれまでにそんな経験すらなかったはずだ。
それだけで、罪の重さが増す気がした。
厄介なことに、彼女の声がまだ、耳に残っている。
そして、その姿も、匂いも、感触も、僅かな反応までも。
五感の全てが、あの時の彼女のことをしっかりと覚えている。
それは今のオレにとって、いろいろと問題のある話だった。
勿論、一番、問題なのはやらかした行為の数々なのだが、細かく思い出すにつれて、激しく反応してしまうこの身体だ。
あの時の感覚と感情を、心底、欲している。
「発情期」の時も思った。
このままでは気が狂う……と。
だが、今ある感情はそれ以上のもので、今のオレの精神では、耐えきれる気がしなかった。
知らなければ耐えられた部分も、知ってしまえば脆くなっている。
想像でしかなかった感覚が、実際に経験したことで補完され、より鋭敏なものを求めようとしていた。
ソレは、柔らかく、温かく、何よりも甘くて美味かった。
ソレは、綺麗で、可愛らしく、誰よりも愛お……、いや、魅力的だった。
オレは一瞬、浮かびかけた言葉に対して、頭を強く振ることで否定する。
あの時も、何度も浮かびそうになっていたその言葉の類似。
だけど、それを認めることはできない。
それを認めてしまえばオレは…………。
「なんで、アイツなんだ?」
彼女以外の女なら何も問題はないのに。
だが、今更、他の異性で満足できる気はもうしなかった。
少し前なら、似た姿をした「ゆめ」でも良かっただろう。
だけど、どんなに似ていても、他の人間が欲しいとは思えなくなっている。
今なら、「発情期」中に見る夢や幻も、現れるのはたった一人だけだろう。
それは確信に近いものだった。
黒い髪、黒い瞳。
その強い心と魂で、誰よりもオレを惹きつける女。
自分が傷つくと分かっていても、他人のために手を伸ばす。
だから、あんな状況でもオレに謝ろうとしてしまうのだ。
実際、あの状況で、彼女が謝る必要など、当然ながらどこにもなかった。
謝るべきはオレで、罰せられるのもオレだけで良いのだ。
彼女は一つも悪くない。
だから、何も謝る必要はない。
誰がどう見ても、悪いのは本能に流されてしまったオレの方だろう。
そう……。
「本能」を「理由」にして、彼女の女としての「弱さ」に付け込んだオレが全て悪いのだ。
「『痛い』って言われたな」
その言葉が、オレの行動を少しの間だけ止めた。
あれだけの悲痛な叫びはこれまでに聞いたこともなかったから。
どんなに魔法を食らっても、不意に傷を負っても、オレは、彼女のあれだけ大きな悲鳴を聞いた覚えはない。
苦痛を噛み殺し、歯を食いしばってぐっと耐える彼女しか知らなかったから。
オレは彼女を傷つけたいわけではないのだ。
尤も、その後、さらに続いた様々な記憶も、オレの行為の邪魔をしてくれたのだが。
腹立たしくもあったが、結果として救われたことも間違いない。
そして、それらがあったからこそ、オレが僅かながら、我に返ることもできたのだから。
だが、困った。
結局のところ、何も問題は解決していない。
そればかりか、悪戯に被害が広げただけとなったのだ。
せっかくここに派遣された「ゆめ」も断ってしまった。
そして、護るべき彼女を深く傷つけたばかりか、恐らく、オレは護衛の任務を外されるだろう。
あれだけのことをするような危険人物を、変わらず傍に置くほど、あの女が呑気だとは流石に思っていない。
さらに、オレの「発情期」は治まっていない上に、その対象を狭めただけとなった。
どこからどう見ても救いようがない。
いや、救われるわけにもいかないか。
オレはそれだけのことを彼女にしてしまったのだから。
耳に残るは、魅惑的な声。
胸に残るは、甘美な疼き。
身体に残るは、温かな感触。
記憶に残るは、得難い悦び。
心に残るは、激しい後悔。
―――― ああ、それでも……。
もう一度、あの甘やかなる時間を味わいたいと、意思が弱いオレは願ってしまうのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




