痛みを知る人間
「…………は?」
私の言葉に、高田はその黒く大きな目をぱちくりとした。
まあ、無理もない。
本当に突拍子もない話だし、こんな状況にならなければ、私も彼女に話す気などなかったことだ。
「高田とは状況も違うし、かなり昔のことだけど、私も『発情期』になった男に襲い掛かられたことがあるんだ」
「み、水尾先輩……?」
どこか呆然としたような声で……、彼女は私に手を伸ばそうとする。
私はその手を握って、あえて笑った。
「昔の話だよ」
あの時のことは、思い出すだけでも、おぞましく、正直、口にしたくもない話。
そして、あのことを知っているのは、マオと、女王陛下と王配だけ。
「8歳の時だから、もう10年以上昔のことだ」
「はっさい!?」
10年という月日が流れていることよりも、私の年齢の方が気になったようだ。
まあ、普通の反応と言えばそうだろう。
普通ならば、8歳の心も身体も未成熟なガキに反応するような変態はいない。
……多分。
「当時、聖騎士団にいた男の一人が、九十九と同じように『発情期』になったんだ。体内魔気は激しく乱れ、魔力も暴走状態に近かった」
あの時のことは今でも忘れることができない。
「その男は、将来の聖騎士団長を確実視されているような男だった。それだけの才能が見え隠れしていたんだ。そんな男が魔力を暴走させてしまっては、並の人間が束になって掛かっても、蹴散らされるしかなかった」
「そ、そんな人に……、水尾先輩が……?」
彼女の疑問には応えず、私は話を続ける。
「その男は私が本命だったわけじゃなかった。たまたま見かけて惚れた女がいて、それを欲したけれど、その女は高嶺の花だった」
「高嶺の……花?」
そう。
間違いなく高嶺の花だ。
そこが一番の問題だった。
「普通なら、『発情期』では、合意が無くても罪に問われない。生物にとって必要なこととされ、黙認されている。だけど、その男が欲した存在は、聖騎士団長候補とはいえ、手にするのは、国にとっては都合が悪すぎたんだ」
あらゆる意味で、正気の沙汰じゃないと誰もが思うほどの存在。
「まだ聖騎士団の……、隊長にもなっていない若造がさ。王族……、それも、まだ12歳の小娘に本気で懸想したっていうのだから、周囲がどれほど頭を抱えたか。想像できるだろ?」
「み、水尾先輩の、お姉さん!?」
私のその言葉だけで相手を察してくれたらしい。
そして、彼女が驚くのも無理はなかった。
「そう。アリッサム王位継承権第一位。発情期を理由にしても、手を出すことなんか許されない存在だ」
「……それ以前の問題がある気がします」
「はっきり言って、ロリコンでしかないよな」
その時点で、そいつは既に27歳だった。
社会に出て数年の男が、まだランドセルを背負っているような小学生相手に懸想し、本気で手を出すという話である。
勿論、ヤツもその歳まで、全く発情期を発症していなかったわけではないらしい。
ただ異性にも同性にも、いや、ヤツは人間そのものに興味が湧かなかったから、症状は短い期間で比較的軽く、潜伏期間も長期にわたっていたため、それまでは日常生活に影響はなかったそうだ。
だが、ある日。
たまたま見た姉貴に一目惚れをし、いきなりぶっ飛んだと後に聞いている。
そんなことを、聞かされた方はたまったもんじゃない。
そして、今、時を越えて、聞かされている彼女もとんだ災難かもしれない。
「国としては、将来の聖騎士団長候補。もしかしたら、王配の器かもしれない人間を簡単に処断することはできない。人材は財産だ。そして、その時点では年齢的にも身分的にも釣り合っていなかったが、聖騎士団長に上がれば、次期女王との婚儀に誰も文句は言えなくなる」
「大神官さまと……、ストレリチアの王女殿下みたいに?」
「そうだな。アリッサムはもっと分かりやすい。王配候補に必要なのは、身分でも地位でも、血筋でもなく、強い魔力と、大きな魔法力だ。それが認められたら、自国、他国を問わずに候補に挙がるが、認定されるのは、ほとんどその時の聖騎士団長だな」
そもそも、聖騎士団長という地位がその時の聖騎士団最高位だ。
聖騎士団の中でも、魔力、魔法力は群を抜き、そして、法力まで使える頂点。
女王を除けば、その時代の王族を上回ることも珍しくない。
「まあ、そんな背景があるものだから、その男に第一王女に手を出させないようにしなければならなかった。だが、才能溢れる暴走男を止めることは容易でもない。他の女性には目もくれなかったぐらい、第一王女に執着していたからな」
口にして妙に自分でも納得してしまった。
ヤツのアレは、誰かと同じく「執着」だった、と。
「当時の聖騎士団長は?」
「当時の聖騎士団長は、その男の暴走が分かった直後、止めようとして最初にぶっ飛ばされたらしい。油断していたとは言え、当時の頂点に立つような存在を倒してしまうような人間だから、処断は勿体ないと判断されたというのもある」
「それも、愛……ってことになるのでしょうか?」
彼女はどこか複雑そうな顔をしている。
「あの状態を愛と呼べるかは、10年経った今でも分からない」
私としては、そう答えるしかなかった。
アレは明らかに異状だったから。
愛は確かに力を与えることもあると聞くけれど、あんな狂った方向の増強はどうかと思う。
異常なまでの執着、執心。
せめて、通常の「発情期」のように、好きな女性ではなく、好みの女性に反応してくれれば他の対応もあったのに、クソ真面目で融通が利かず、さらに妥協も許さないヤツは、第一王女以外を異性として見なかったらしい。
「だが、女王自らが相手になれば、大事として、処罰せざるをえない。本来、アリッサムの女王陛下は、そこまで表に出る存在でもないからな」
女王は、王女時代から隔離して育てられたためか、即位後もあまり外に出たがらなかったと聞いている。
それは、姉貴や私たちが生まれた後も変わらず、必要以上に人前には現れてはいない。
そして、女王が自ら対象の前に立って、危険な目に遭わないとも限らなかった。
「そこで、王配が下した結論は、第三王女を生贄に出すことだった」
「は……?」
「当時の第二、第三王女は幼く、4つ離れた第一王女と容姿も似ていた。だが、第一王女は王位継承権第一位。第二王女はその保険だ。王配として、その判断は間違っていない」
王位継承権の所持者を護るのは王族の責務だ。
だが、その当時、聖騎士団長をぶっ飛ばすようなヤツを止められそうなのは、女王と第一王女のみだった。
王配になった途端、それまでのような研鑽を怠り、魔力や魔法力も落ち目だった王配に止める術などあるわけがない。
「間違っていますよ。王配って、つまりは、水尾先輩の父親ですよね?」
「そうだな。あんなのでも父親だ」
王配と言っても常に女王の付属品として扱われ、王族と言っても名前だけの地位。
そして、国の扱いとしては王族を増やすための種馬に等しい存在。
そんなあの男の気持ちも分からなくはない。
「それなのに、生贄って……」
「王配は女王の次の地位だ。そいつの命令に王女の身で拒否権などなかった。まあ、私は、暴走しているヤツを止めろとしか聞かされていなかったけどな」
建前上は、女王に次ぐ存在だった。
「『発情期』のことは、聞かされていなかったのですか?」
「聞いてないな。まだ8歳だったし、『発情期』になる可能性がある男ならともかく、女には知識としてはまだ早いだろ」
「そっか……」
彼女はぎゅっと自分の腕を掴んだ。
「まあ、そんなわけで刺客として、私が選出されたわけだ。第一王女に容姿が似ていて、王位継承権も三番目。『発情期』に対して無知。そして、私が魔力を暴走させれば、聖騎士団長候補に対抗できる」
「だけど……」
「その辺に関しては、国家の考え方だ。第一王女は確実に護られるし、私が魔力を暴走させて昏倒させれば、捕縛という名の保護も可能だ。だが、一番の期待は、聖騎士団長候補の『発情期』を抑え込むことだっただろうな」
「『発情期』を……、抑え込む?」
彼女は眉を顰めた。
あの状況を体感した女なら、分かるだろう。
あんな状態になった男に、説得など通じないことを。
対抗策は、それを上回る力で意識を奪うか……。
「第三王女を食わせば、そいつも二度と『発情期』にはならないからな」
これ以上、都合の良い餌はなかったのだ。
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