もしも男なら
外から帰り、部屋に向かっている時、不意に変な気配がした。
この建物は、部屋にいると不思議と他人の気配を感じにくい。
声や音だけではなく、普通は感じられる他人の魔気が、意識を集中してもあまり感じられないのだ。
まあ、この建物の宿泊以外の目的について考えれば、その対応は当然のことかもしれないのだけど……。
だけど、そんな中でも、わたしは、九十九だけは集中すれば、いつもよりかなり弱い気配だけど、感じることができることは、部屋にいた時から分かっていた。
しかも、彼は今、室内ではなく……。
「九十九!?」
何故か、通路で倒れていた。
わたしは思わず駆け寄る。
「九十九!? 大丈夫!? 生きてる!?」
彼から感じられる体内魔気は不自然なほど激しく乱れていて、これだけでも、彼の状態が普通ではないことが分かる。
呼吸は息切れするほど短くて荒く、それに合わせるように肩が大きく揺れていた。
まるで、全身を使って息をしているようだ。
顔がかなり紅く、額や首筋だけではなく、あちこちに目に見えるほど分かりやすく大粒の汗が流れ落ちている。
額に触れると、じっとりと汗ばんでいるのに、驚くほど熱かった。
「九十九!! しっかりして!!」
手首に触れると、脈がいつもより速い。
「九十九!!」
「た……か……?」
何度目かの呼びかけに、呟きのような小さな声で彼が応えた。
ようやく反応があったことにほっとする。
だけど、その声は小さく、呼吸は荒いまま、苦し気だった。
困ったことに、周囲を見回しても、不自然なほど誰もいない。
受付まで戻れば、恐らく、誰かいるだろうけど、ここは三階。
しかも、階段はちょっと遠い。
転移魔法や移動魔法も使えないわたしが彼を連れて移動するには時間もかかりすぎる。
彼を置いていけば、もっと早く移動できるだろうけど、こんな状態の彼を一人にはできない。
わたしが持つ通信珠は、目の前にいる九十九にしか通信できない。
それも、一方的に声を送るだけ。
心を読める長耳族のリヒトも、この場所では、心が読めないように、長耳族の能力を封印して行動すると聞いている。
だから、恐らく、呼び掛けても気付かないだろう。
治癒魔法を使うにも、吹っ飛ばし攻撃に近いわたしの魔法では、彼に止めを刺しかねない。
それに、治癒魔法では病気の治療はできないのだ。
「こうなれば……」
わたしは、九十九の身体の両脇に腕を通して、上半身を引きずる。
「ちょっとごめん!」
わたしより身体の大きな彼は重いけど、背中を右膝で支えて、出来る限り、上半身を起こさせた。
「やめ……」
「止めない!」
彼が抵抗するような動作があったから、わたしは強くそう言い切った。
さらに彼の背中に張り付いて、両脇から抱え込むように腕を通し、彼のお腹辺りで、自分の両腕を掴む。
ちょっと体勢的に恥ずかしいけど、誰も見ていないし、今はそれどころではない。
周囲に花のように甘い匂いが漂っている気がしたけど……、今はそれを気にする時間でもなかった。
こんなことなら、人間界であった保健体育の救命講習をちゃんと覚えておくべきだったと思う。
見様見真似だから、多分、九十九も苦しい体勢だろうし、正確な運び方でもないだろう。
そして、微妙に腰が痛い、
だから、少しでも早く、彼の部屋に運ばなければ!
そんな正義感にも似た感情に突き動かされ、彼の両足を引きずりながら、なんとか動き出した。
彼のように、簡単に人を担げない自分の非力さが心底、恨めしい。
多少、筋力、体力が付いたところで、それを使いこなせれば意味がない。
今のわたしには倒れて、力が抜けている人間を持ち上げるような技術がなかった。
―――― なんで、わたしは女なのだろう?
もしも男なら、こんな時こそ、彼の役に立てただろう。
それに、こんな場所に来ても、動揺することなく過ごせただろうね。
溜息と弱音を吐きたい気持ちを、ぐっと我慢する。
今は、この明らかに発熱している九十九を運ぶことだけを考えるべきだ!
その時のわたしは、九十九の初めて見る容態に焦って、ある意味、冷静ではなかったのだと思う。
いや、冷静であっても、その可能性にまで、思い至っていたかどうかは分からない。
それだけ、わたしにとっては無縁だと思っていたことだったから……。
****
幸い、部屋番号は覚えていたから、九十九の部屋は分かった。
扉だけ見ると、わたしが借りている部屋と変わらないが、スカルウォーク大陸言語で別の部屋番号が書かれている。
「九十九、この部屋に入っても良い?」
「だ……め……だ」
だけど、何故か九十九は断る。
身体は熱いままだけど、先ほどよりは受け答えができている気がした。
「でも、このままじゃ、わたし、九十九を落としちゃうよ」
多分、体力的にはもう少し持つと思う。
でも、慣れない持ち方と体勢のためか、腕と足腰が不思議な震えをしている気がした。
「じゃ……お……せ」
「落とせるわけがないでしょ」
そんなつもりなら、始めからここに運んでいない。
「せめて、扉を開けて。登録している人の許可がなければ開かないように設定されているのでしょう?」
部屋にいる時、そんな説明があったし、来島もそんなことを言っていた気がする。
「あけ……ら、かえ……れ」
多分、「開けたら、帰れ」って言ったのだろう。
「分かった」
彼が何故、こんな状態なのに意地を張るのか分からない。
辛い時ぐらい頼って欲しいのに、彼はわたしを頼ろうとはしないのだ。
そのことが酷く淋しい。
「よっこいしょっと」
彼を支えつつ、扉を片手で開ける。
幸い、扉は抵抗なく開いてくれた。
先ほどの様子では、この扉が開かない気がしたのだ。
「動ける?」
「…………」
返事がない。
ただ短く荒い呼吸だけが聞こえた。
「もう少し、動かすよ」
そう言って、わたしは彼の部屋に入った。
バタンッ!
「あれ?」
部屋に入った途端、激しい音を立てて、わたしたちの目の前にあった扉が閉まる。
九十九の足が完全に入った後で良かった。
結構な勢いで閉まったから、少しでも当たったら、かなり痛かったことだろう。
でも……。
「自動ドア?」
「ちが……」
違うらしい。
わたしの部屋もちゃんと自分で開閉して、鍵だけ自動でかかるような感じだったし。
「九十九が魔法で閉めた?」
考えられるのはそれぐらい?
だけど、彼は無言だった。
話すのもきつくなってきたのか、抱えている彼の身体がさらに熱くなっている。
それに、部屋の扉が閉まったから、この場に彼を置いて、すぐに立ち去ることもできなくなった。
もともと、そのつもりはなかったのだけど。こんな状態の彼を床におくわけにはいかない。
せめて、布団までは運びたいよね。
「よいせっ!」
わたしは、再び、ずるずると九十九の身体を引きずる。
布団、寝台は、奥にあるもう一つの部屋だろう。
幸い、この部屋はわたしが借りている部屋と間取りも同じらしい。
なんとか寝台まで彼を引き摺っては来ることができた。
しかし、ここからがさらなる問題が立ちはだかる。
ここまでは、段差がほとんどなく引き摺って来ることができたけど、今度は、かなり高さに差がある寝台に、彼を持ち上げなければいけない。
そうなると、体勢を入れ替えた方が良いか。
「九十九……、大丈夫?」
返事はない。
だけど、彼の身体に少し力が入っている気がした。
「悪いけど、ちょっと動かすよ」
九十九の右腕を上げさせ、頭をくぐらせると……。
「くっ!」
彼が小さな声を漏らした。
先ほどとは別の角度での密着姿勢になるが、そんなことを気にしている余裕もない。
わたしの右肩に彼の右腕をのせて、左腕で彼の身体を支え、腰を使って持ち上げる。
先ほどよりは楽かな?
なんか、柔道とかプロレスの技でありそうな体勢になった。
いや、この体勢なら、九十九の意識がしっかりしていたら、簡単に返されると思うけど……。
そんな阿呆なことを考えていた時だった。
「ふえ?」
不意に足に何か当たった気がして、そのまま、わたしはバランスを崩しかける。
「九十九……?」
先ほどまで反応がほとんどなかった九十九の様子がどこかおかしい。
わたしは確認のために彼の顔を覗き込んだ時だった。
直後、わたしの呑気な思考が思いっきり吹き飛ばされることになる。
―――― 発情期。
そんな言葉が思い出されたのは、わたしの口が九十九の唇によって塞がれた時だった。
この話で、50章は終わりです。
次話から第51章「すれ違い、行き違い」です。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




