選択の間違い
深織をほとんど部屋から追い出すように、帰した後、オレは気配を辿る。
だが、その時には、既にオレが探していた気配の持ち主は、いつものように落ち着いており、先ほどの心配は杞憂だったことがよく分かった。
あの激しく動揺する気配から、もしかして、血迷った男にでも襲われたのかと思って、深織を突き飛ばして部屋から飛び出したいぐらい焦ったのだが、そんなオレの気持ちは行き場をなくしてしまったらしい。
あの時のオレの動揺を返せと力の限り叫びたかった。
ほっとした半面、同時に、腹も立ってくる。
あの女はどうして、いつも、勝手な行動をとるのかと。
彼女は今、間違いなくこの宿ではなく、外にいる。
オレに護衛を頼まなかったと言うことは、オレの代わりに兄貴が付いているか、また以前のように一人で勝手に出かけたのだろう。
確かに、今回に限って、オレに頼みにくいというのは分かるが、こんな風に慌てることになるよりは、よっぽどかマシだ。
深織には大変、悪いことをしたと思う。
だから、派遣してくれた店にも、ちゃんと彼女の方に非はないことを伝えておかねばならない。
そして、次回の手配は彼女を避けるように、別の店に願う必要もあるだろう。
やはり、知り合いが、それも元彼女が相手となるのは、かなり気まずいことは自分でもよく分かった。
そこに多少なりとも好意があれば、どうしても、オレ自身がその気になりにくいようだ。
だが、この部屋に来た「ゆめ」が、本当に無関係な女性だったら、オレはどうしていただろうか?
そんなことを今更、考えても仕方がないか。
この頭の中にある、滾るような熱いものが、発情期のためなのか、怒りが頂点に達したためなのかよく分からない。
だけど、それでも、どこかで何かの制止がかかっていることだけはよく分かった。
ただ、現状の問題として頭が酷くぐらぐらしている。
だから、このままでは不味いなということだけはよく理解できた。
状態としては、まるで、兄貴から幻惑魔法を試されたり、水尾さんから混乱魔法を試されたり、トルクスタンから怪しげな薬を試された時に似ている気がする。
気付かないうちに、精神系の魔法をどこからか受けたってことか?
だが、深織からはそんな気配はなかった。
いくら油断していても、気を許した相手であっても、目の前の人間から魔法を使われたなら、オレだって反応できる。
彼女に関して言えば、久しぶりのまともな口付けがかなり心地よく感じたぐらいか?
荷物から、大神官より習った薬湯の元となるものを取り出して、手早く調合していく。
一度、大聖堂の地下で発情期となり、その症状が落ち着いてからは、毎晩、欠かさずに服用しているせいか、かなり慣れたものだった。
相変わらず不味いが、妙に落ち着く、効果があるはずなのだが、やはりぐらぐらとした頭はどこか落ち着かないままだった。
そわそわして、気分だけが逸るようなそんな変な感覚が付きまとっている気がする。
どうやら、これも発情期の兆候かもしれない。
それならば、そう遠くない未来に、オレはストレリチア城にいた時のような事態に陥ってしまうことは避けられない。
あの時のことを思い出して、思わず身震いをする。
そして、厄介なことに、今は、あんな恵まれた状況にないのだ。
夢幻と思って、実物に手を出しかねない。
そうと分かれば、とっととやることをやってしまった方が良いだろう。
ここはそのための場所だ。
だが、そう考えると、先ほどの状況はかなり惜しかった気もするが、仕方ない。
そう考えれば、深織とは、ある意味、縁がないのかもしれない。
オレはもう一度、外の気配を確認する。
「……?」
何かが、おかしい。
少し身体が火照ってはいるが、それでも、高田の魔気を感じ取れないほど、オレの感覚は鈍ってはいないはずだ。
だが、この気配……。
歓喜?
いや、もっと別の……?
深く読み取ろうと集中すると、何かが邪魔をしている気がした。
だが、今は、近くに行くわけにはいかない。
彼女にとって、オレが一番、危険人物となる可能性がある。
彼女が今、危険な事態にないのであれば、今は我慢するべきだろう。
ここで、すぐに外に出なかったのは、英断か。
ただの愚考か。
「熱い」
身体が火照って仕方ない。
本来、発情期の症状を一時的に抑えてくれるはずの薬湯の効き目が何故か弱いことも不思議だった。
目の前に餌がぶら下がっていたせいか?
それなりの好意でここまで反応があるのなら、もし、極上の餌が目の前に吊り下げられたら我慢できる気がしない。
簡単に釣られてしまうことだろう。
仕方なく、オレは自身を落ち着かせる方に集中する。
ここまで昂った精神状態では、まともな考えも浮かぶはずもないだろう。
「あ?」
そこで微かな違和感を覚えた。
だが、すぐ掻き消える。
「今のは……?」
いつもと同じようで何かが違うような……気がした。
はっきりと形にならないもの。
だから、それが何であるか具体的に口にすることは難しい。
そのためだろうか?
吐き出される熱の塊がいつも以上だった。
そして、酷く疲れている。
一瞬で、生命力を燃やし尽くしてしまったかのような倦怠感がオレを襲ってきた。
ここまで酷い状態になったことは記憶にない。
まるで、魔法力が枯渇した時のように、眩暈と激しい頭痛が表れ、オレはその場に倒れ伏す。
―――― 何か変だ。
それが分かっていても、どうすることもできない。
ぐるぐると視界は回り続ける。
そう言えば、先ほど、誰かも倒れなかったか?
当人が貧血と思ってしまうような症状。
たまたま食事量が減っていたから、そう思ってしまったと思ったが、もし、これが偶然ではなかったなら?
「やべぇ……」
誰に対して言うのでもなく、床に向かって言葉が漏れた。
何が不味いのかははっきりと分からないが、この状況はかなり良くないことぐらいは理解できている。
姿が見えないところで、敵から襲撃を受けているのかもしれないのだ。
これらが、本当に偶然だとはとても考えられなかった。
兄貴は、他の皆は気付いているだろうか?
リヒトの心を読む術が使えないところも痛い。
どんな手法で手を出されているかも分からない。
これが魔法の効果なのか。
それともそれ以外の術の効果なのか。
だが、オレたちには水尾さんと真央さんという魔法の気配に敏感な人間も近くにいる。
そんな彼女たちが、身近な人間たちに対して、魔法を使われていて気付かないことなどあるだろうか?
回り続ける視界が酷く気持ちが悪い。
床に倒れているのに、身体が地震の時と同じように、ぐらぐらと揺れている気がする。
多少の熱さはあるが、先ほどまでのような、異常なまでの発汗と発熱は、まるで嘘のように治まっていた。
それならば、発情期ではありえない。
口付け一つぐらいで治まるような簡単なものなら、オレたちは無駄に苦しむ必要などないのだから。
発情期を一度も経験したことのないヤツならともかく、オレは、一度、乗り越えてしまっている。
だから、その違いがはっきりと分かった。
…………かなり、複雑すぎるが。
「んっ」
さっき、大量に汗などを流したせいか、喉がかなり渇いていた。
喉にある何かが張り付くような感覚を流そうと、水分を口にする。
「あ…………?」
だが、何故か水分を摂った瞬間、再び、全身が発熱した。
冷えた水分によって身体が冷めるなら分かるが、これは明らかにおかしい。
「な、なんだ……、これ…………?」
これは明らかに異常な反応だった。
自分の身体が自分ではないモノになった気分だ。
「くっ!?」
ただひたすら全身が熱くて、至る所から汗が噴き出てくる。
―――― この部屋が原因か!?
入った時は、空調も十分、効いていたと思うが、今はそれすら分からない。
まるでサウナのように熱くてたまらなかった。
転がるように部屋から出る。
だが、オレは知らない。
この部屋から出たという選択をしたことで、オレが生涯、後悔し続けることを。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




