お触り厳禁!
『――――』
「……?」
誰かがわたしを呼んでいる?
そんな気がして、ふと窓の外を見た。
時間帯は夕方。
窓は日暮れ……と言うほどではないけれど、日が傾いていることはよく分かった。
手に持っていた本を閉じる。
九十九はもういない。
彼は、わたしが落ち着いたことを確認してから部屋に戻ったのだ。
あれから結構、時間も経っている。
もしかしたら、今頃……、そう考えて、頭を振った。
こればかりは考えても仕方ないことだ。
九十九は「発情期」という、本人自身の意思だけではどうにもならない爆弾を抱えていて、それをなんとかするためにこの「ゆめの郷」に来た。
それは当人が決めたことであり、そして、わたしも認めたことだ。
だから、こんな顔をしていちゃいけない。
顔を洗うけど、すっきりしない。
鏡を見ても、酷い顔のままだった。
『――――』
「……?」
また誰かが呼んだ気がする。
九十九とかの声とは違うけど……、わたしを呼んでいる気がした。
窓を覗き込むが、風景は変わらない。
人もまばらだった。
通信珠は持っているが、今は使わない方が良いだろう。
その、お取り込み中だとかなり申し訳ないし。
素早く部屋着から、外出着に着替える。
スカートよりは、パンツルックの方が目立たないだろう。
窓から見た限り、ここでは女性がスカートを履いている方が多いみたいだし。
髪を上で纏めて上からカツラで押さえ込む。
これぐらいで男の子には見えないことは分かっているけど、パッと見て女性と分かるよりは危険も少ないだろう。
トルクスタン王子の話では、この街は全体的に魔法を制限するような結界は張られていないらしい。
だから、「魔法を使う際は、十分、注意しろ」、「手加減しろ」と水尾先輩にかなり念を押していたのを見た。
わたしも「魔気の護り」をうっかり発動させないように気を付けなければいけない。
セントポーリア城でセントポーリア国王陛下より魔法を数多く撃ちこまれて以来、魔力も魔法力も上がっているのだ。
一般人相手に使えば、相手が気絶で済むかどうかも分からない。
なんとなく、今は、どこか不安定みたいだしね。
こっそりと、宿を抜け出す。
わたしを呼ぶ声の正体を確かめたくて。
なんか前にもこんなことがあったような気がするのだけど、あれはいつのことだっけ?
よく思い出せない。
なんとなく、思考がぼんやりとしている。
何かを思い出しそうで、思い出せない。
あの時のように波の音は聞こえない。
聞こえてくるのは微かな人の声と時折、木々を揺らす風の音だけ。
「坊ちゃん、一人かい?」
不意に後ろから声を掛けられた。
……坊ちゃん?
周囲を見るが、そこに男の子の姿はない。
それどころか、この通りに人は一人としていなかった。
そうなると、ご指名されているのは……。
「そこでキョロキョロしているあんただよ」
やっぱりわたしでしたか。
いや、まさか、髪を短くしただけで「少年」扱いとは……、どんだけ女性っぽくないのか、わたしは。
そんだけだ!!
「ちょっと私に付き合ってもらえないか?」
いやいやいやいや?
聞こえなかったふりをしよう。
そうしよう。
わたしはそう思って、足早にそこから立ち去ろうとするが……。
「待てよ、つれねえな」
と、いきなり強引に右腕を掴まれた。
九十九とも、知っている誰とも違う感触の手。
どこか、ぬめっとしたような不快感がそこにあった。
それを意識した途端、どうしようもない嫌悪感が掴まれている右手首から一斉に走り出す。
そして、背中から粟立つような感覚。
そのまま一気に全身に鳥肌が立った。
不味い!?
この人の気配、あの時の……「青羽の神官」よりもっと性質が悪い!!
これは、確実にわたしに害意を向けている気がする。
殺すとかの命がかかった感覚ではなくもっと別種のもの。
ねっとりと纏わりつくような我慾に満ちた感情と視線。
そして、同時に……。
―――― このままでは、この人を殺してしまう!!
このどうしようもない嫌悪感をなんとか振り払いたいのに、そのことが頭をよぎり、ゾッとした。
身体の奥から、巻き起ころうとする嵐。
それを懸命に押さえつける。
そんなわたしの様子を見た男はから、何故か笑う気配があった。
「魔力の弱い貴族の嬢ちゃんが、こんな場所を供も付けずにお散歩とは……、ちょいっとばかり躾が必要だな」
もう、言葉の端々から、嫌な予感しかない。
わたしのことを魔力が弱いってことは、魔気の感知能力は高くない。
そして、「嬢ちゃん」。
わたしが女ってことはとっくに分かっているってことだ。
いや、分かっていて声を掛けてきた可能性がある。
一瞬、いつものように通信珠を使って、九十九を呼ぼうとしたが、流石に真っ最中だったらどうする!?
かなり気まずい。
「なぁに、ザルな警備の穴なんざ、よく分かっている。嬢ちゃんがふらふらと裏道に来てくれたことは本当に都合が良かったなぁ」
そう言いながらも、強引にわたしの腕を引こうとされたので、力を入れてその場に踏ん張ると、少し、足がずれる。
「お?」
それが分かったのか、さらに掴まれた手に力が入ったので、素早く相手の親指に向かって、いっそのこと折るつもりの勢いで腕を素早く捩じって振り払おうとするが……。
「――っ!!」
相手の息を呑む気配はしたが、体勢が悪かったのか振り払うには至らなかった。
非力な自分が憎い。
「嬢ちゃん、俺は手荒な真似はしたくないんだが……」
口調が完全にチンピラのそれに変わっている。
中肉中背、顔に特徴はなし。
服装もスカルウォーク大陸では珍しくない形の服。
風景に溶け込んでしまいそうな男の顔は……。
「おい、おっさん」
そんな言葉で、一気に歪むこととなる。
「だ、だれ……っ! ぐあっ!?」
男の悲鳴と同時に、わたしの腕の拘束がなくなり、そのまま視界が黒く染まる。
一瞬、何か布のようなものを被せられたことが分かり、それを反射的にはぎ取ろうとしたが……。
「それ、被ったまま、こっち見るな! できれば座って、じっとしてろ!!」
強い制止の声。
思わず、それに従い、その場に座り込む。
い、いや、ちょっと、待て……?
そんなはずはない。
黒一色の視界の中、わたしはぐるぐると考えている。
聞こえてくるのは先ほどわたしを掴んでいたと男の呻き声と、大きな生物が地面をのたうちまわるような音。
その震える声の中に「俺の腕」とか「貴様」とかそんな物騒な声が混じっている。
「おっさん、この街、初めて?」
挑発するような明るい青年の声。
「じゃあ、覚えておいて」
そして、青年から分かりやすく放たれる炎のような殺気。
「この街で、『ゆめ』以外の相手に、合意のないお触りは厳禁なんだよ!」
何かをガキンと断つような音と、耳をつんざくような激しい絶叫。
そして、訪れた静寂の中で、金属音だけが聞こえた。
「なんだ。覚悟もなしに、犯罪やろうとしていたのか。阿呆だな」
青年は呆れたようにそう言い捨てた。
「とりあえず、身体と、腕と、足から先に本部に転移させるか」
な、なんか明るく物騒なことを言っている人がいる。
だけど……、だけど……。
「……っと、被害者の確認をしないと」
その言葉にビクリとなる。
だけど、わたしの覚悟もなしに、視界は広げられた。
日が傾いていたとは言え、真っ暗から広がる景色の眩しさに、一瞬だけ目が眩む。
「お嬢さん、怪我の方は……って、ああああああああああっ!?」
先ほどの男とは違った意味の絶叫がすぐそばで聞こえた。
そして、その反応で、わたしは自分の耳に間違いがなかったことを確信する。
九十九が元彼女さんとの出会いがあったのなら、わたしにも別の出会いが用意されていたらしい。
「た、高田!? え? 本物!? マジか!?」
明らかに混乱している相手に向かって、被されていた布を脱ぎ降ろし、わたしは頷きながらこう言った。
「久しぶりだね、来島」
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