存在の肯定
「失礼します!」
そんな言葉と胸への強い衝撃の後……。
ゆっくりと揺らぐ視界の中で天井が見え、水面にぶち当たるような感覚。
そして、自分の周囲から湯の壁ができる瞬間を見た気がした。
お湯の温かさを感じる間もなく、周囲が白く濁り、反射的に息を止める。
どうやら、俺は湯に向かって突き飛ばされたらしい。
気落ちしていたとはいえ、抵抗する間もないほど反応が鈍くなっていたことに、突き飛ばされた以上の衝撃がある。
「うわっ!?」
不意打ちによって、湯に叩きこまれたため、本能的に溺れぬよう、体勢を整える。
浴槽はその目的のため、あまり深くないが、人間は僅かな水深であっても溺れることができるのだ。
だが、慌てる俺に対して……。
「目は覚めましたか?」
いつもと違った冷えた少女の声が俺の耳に届いた。
「目……?」
言われた意味が分からず、その声の持ち主を見る。
その声だけでなく、表情すら凍り付いたように冷たいものだった。
「わたしの前で、いつまで寝惚けたような甘えを口にするのですか?」
さらに、冷たく言い捨てるように、辛辣な言葉を口にする。
「確かにご両親の死因の一端は、雄也先輩が生まれたことに関係しているかもしれません」
自分以外の誰かから、はっきりとそう口にされたことはない。
だが、それをまさか、この少女から指摘されるとは思ってもみなかった。
「母親が身籠ったことだって、お二人が駆け落ちしたことだって、お父さんが王位を放棄したことだって、雄也先輩が産まれたことだって、何一つ、雄也先輩自身の意思ではないでしょう!?」
さらに彼女は正論を吐く。
確かにそれも間違いない。
それら全てが、俺の意思が働いていないことぐらい分かっている。
だが、俺が彼らのもとに生まれたことで、その歯車を大きく狂わせてしまったこともまた真実なのだ。
「あなたはわたしよりもずっと頭が良いのに、そんな単純なことも分からないのですか?」
「だが……、事実だ」
俺は彼女の顔も見ずにそう答えるしかない。
今、あの真っすぐな黒い瞳を見ることは出来なかった。
「仮にそれが事実でも! あなたの意思は一切、関わっていません! 生まれる前のあなたに何ができたというのですか?」
いつになく強い口調で、彼女は俺を責める。
それも分かっているのだ。
この世に生まれてしまった以上、それらを享受して生きるしかないことぐらい。
それでも……、自分が生まれなければ良かったと何度思ったことだろう。
死んだ方がマシだとも思ったことも一度や二度ではない。
だが、自ら死ぬことも選べなかった。
「それでも……」
―――― ツクモを、可愛がってね
―――― ツクモを、頼んだ
両親は、俺に向かってそう言った。
俺よりも、もっと幼い息子の方が気にかかったのだろう。
だから、俺は死ぬわけにはいかなかった。
両親の言葉を守ることで、救われたかったのかもしれない。
誰かに認めて欲しかったのかもしれない。
そんなことをしたところで、既に認めてくれる人間など、もういなかったのに。
だけど、そんな俺に対して……。
「あなたがどんなに自分の存在を罪深いものとして否定したとしても……、わたしがあなたの存在を肯定します」
「え……」
思わぬ言葉に思わず顔を上げてしまった。
そこにあったのはいつもの強い少女の瞳ではない。
どこか悲しそうで、今にも泣き出しそうな女性の瞳。
「あなたがこの世界に生まれてきたことに、心からの感謝を」
その瞬間、俺は今まで以上に驚愕した。
俺に向かって、目の前の少女は両膝と両手を床に付き、前髪も下に付いてしまうほど深々と頭を下げた。
それは、セントポーリアの最敬礼。
そして、彼女にはその意味も教えてきたつもりだ。
いつか、セントポーリア国王陛下に向かってするために。
だが、こんな場所で、しかも俺如きのためにするものではない。
「し、栞ちゃん!?」
お湯の中であることがもどかしい。
体力が落ちていることもあるが、動きにくくて仕方なかった。
そこで、目の前の少女は顔を上げ、いつもの強い瞳を俺に向ける。
「あなたがいなければ、その弟である九十九もいないでしょう」
強い口調で断言する。
黒髪の、幼い赤ん坊の顔が頭に浮かんだ。
母親に抱きかかえられた小さな弟。
光に包まれ、父と母の愛に包まれて誕生した、ただ一人の兄弟。
「九十九がいなければ、わたしもここにいません」
黒髪の幼い娘の姿を思い出す。
俺に向かって伸ばされた小さな手の感触は、今も残っている気がする。
「ずっとわたしを助けてくれているあなた自身が、自分の存在を『罪』だなんて言わないでください」
そして、その時の娘は、今、目の前で俺を見据えている。
眩しいほどに、強く美しく真っすぐに育ってくれた。
そんな少女が……。
「わたしは、あなたに会えて本当に幸せなのですから」
自分の耳を疑った。
幸せ?
誰が?
何故?
思わず、彼女をしっかり見ようとして……、動きが止まった。
いつも真っすぐ強い瞳は、清らかで大きな雫を零していた。
俺が覚えている限り、彼女は、あまり泣くことが少ない。
それは昔から変わらなくて……。
でも、今、そんな彼女が……、俺の目の前で大粒の涙を溢れさせていた。
泣かせたのは誰だ?
そんな分かり切った問いかけが、頭の中で鐘のように鳴り響く。
決まっている。
阿呆な俺が、彼女を泣かせたのだ。
「栞ちゃん」
そんな姿を見て、泣き言など言っていられない。
俺が近づいたことが分かったのか、その顔を両手で押さえたが、その隙間から、尚も雫が流れ落ちていく。
その姿が痛ましくて……。
「キミが俺のことでそんなに心を痛める必要はない」
そんな大層な人間ではないのだ。
「それなら、そん、な、悲しい、こと、言わないで、くだ……さ、いよ……」
鼻を啜り上げながらも、少女は俺に向かって言葉を続ける。
「今、わたしが、泣い、ている、の。雄……也先……輩のせい……ですからね」
―――― ああ、そんなに責めないで欲しい。
「分かっている」
そう言って、俺は彼女の手を掴んで引き寄せる。
抵抗もせず、そのまま、俺の腕の中に小柄な少女は収まった。
そのことに、酷く安心する。
「ありがとう」
今はこれしか言えない。
「ありがとう」
万感の感情をこめて。
「ありがとう」
泣いている彼女の耳にもちゃんと届くように何度も繰り返す。
そして……。
「俺も、キミに出会えて本当に幸せだよ」
気付くと、そんな言葉が自然と零れ落ちていた。
自分よりも二つ年下の小さな少女。
だが、もう、いつまでも少女扱いはできない。
今、ここにいる彼女は、もう立派に女性だということは、十分すぎるぐらいに分かっている。
先ほど大聖堂にて、彼女がいつもと違った姿で現れた時、俺も大神官も言葉を失った。
それだけ、彼女は女性らしく育っていたことに、近くにいたというのに、気付いてもいなかったのだ。
彼女が身に着けている「神装」に、セントポーリアの「主色」とされる「橙」色の生地を選んだのは俺だった。
これだけはどうしても譲れなかったのだ。
その色が、彼女の白い肌に映えて、よりその輝きを増している。
女性的なラインを際立たせるようなデザインも、彼女のほっそりとした身体によく似合っていた。
だから、お世辞でも、社交辞令でもなく自然と称賛する言葉も出てきた。
そして、同時に……。
―――― 神々しい。
柄にもなく、そんなことさえ思ってしまったのだ。
だが、それは、誇張でも迷いでもなく、信仰心はないはずの自分にとって、素直な感想だったのだから仕方ない。
彼女の身近にいる人間ほど、彼女を「聖女」にとは望まない。
だが、本人や周囲の考えを無視して、彼女自身はしっかりと成長を続けていく。
―――― いずれ、「聖女」に至るために。
あの時、何故かそんな気がしてしまったのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




