過程と顛末の話
間欠泉のようにちょっとした湯柱が上がった。
雄也先輩の身体を押したが、思ったより激しくなってしまったみたいだ。
だけど、その身体の行く先はお湯がたっぷり入って揺れている湯船だった。
咄嗟に受け身を取ることができなくても、大きな怪我はしないと思う。
魔界人はかなり頑丈だし。
「うわっ!?」
その中で、慌てたような雄也先輩の声が聞こえたが、構わない。
そして、ここでわたしも動揺は見せず、口を結ぶ。
このやり方が乱暴なのは認めよう。
後で、ちゃんと謝るつもりもある。
だけど、今のわたしにはそれ以外は思いつかなかったし、何よりも、今、ここでわたしが負けるわけにはいかないのだ。
「目は覚めましたか?」
あえて、冷たい口調で言ってみる。
そのイメージは目の前にいる人。
本当は良い人なのに、あえて、相手のために、汚れ役を買って出てしまうような人。
「目……?」
先ほどとは別の意味で呆然とした表情でわたしを見る雄也先輩。
「わたしの前で、いつまで寝惚けたような甘えを口にするのですか?」
そう言いながら、拳を握り締める。
「確かにご両親の死因の一端は、雄也先輩が生まれたことに関係しているかもしれません」
わたしの指摘に、雄也先輩の顔が悲痛に歪んだ気がした。
その表情に胸が痛まないわけがない。
でも……、これはただの原因と結果だけの話ではない。
ただ過程と顛末の話に過ぎないのだ。
そんなこともこの人が気付いていないとは思えなかった。
思いたくもなかった。
「母親が身籠ったことだって、お二人が駆け落ちしたことだって、お父さんが王位を放棄したことだって、雄也先輩が産まれたことだって、何一つ、雄也先輩自身の意思ではないでしょう!?」
そんなこと、どれも雄也先輩のせいではないのだ。
それぞれ両親が納得して選んだ道だと思う。
それなのに、その子供が勝手に重くしたまま背負い込んでどうするのか?
「あなたはわたしよりもずっと頭が良いのに、そんな単純なことも分からないのですか?」
「だが……、事実だ」
「仮にそれが事実でも! あなたの意思は一切、関わっていません! 生まれる前のあなたに何ができたというのですか?」
「それでも……」
ああ、もう!
頭が良い人って、なんでいっつも、こうなのだろう。
一度、思い込んだら、梃子でも動かない。
正解だと思ったら、それ以外のことを考えようとしなくなる人があまりにも多すぎる。
本当はもっと選択肢もある。
苦しければ今の場所から逃げたって、八つ当たりのように誰かのせいにしたって良いのに、頭が良い人たちは、絶対にそれをしようとしないのだ。
でも、わたしは阿呆だから。
そして、器用でもないから。
何よりも、思い込みの激しさに関しては、誰にも負けてないから!
「あなたがどんなに自分の存在を罪深いものとして否定したとしても……」
これだけははっきりと言ってやる。
「わたしがあなたの存在を肯定します」
「え……」
雄也先輩の瞳が見開かれた。
そんなに驚くことを言ったつもりはない。
わたしにとって、この結論は、至極、当然のことだと思う。
「あなたがこの世界に生まれてきたことに、心からの感謝を」
そう言って、わたしは両膝と両手を床に付き、前髪も下に付いてしまうほど深々と頭を下げた。
セントポーリアの最敬礼。
床に付くほどの礼は、本来は、王族など対して行うもの。
だけど……、王の血を引く娘が、他国の王族に対してこの礼をとることは何の問題にもならない。
どちらが上とか下とか関係ない。
わたしが今、したかったから、しただけのこと。
何より、今は、誰も見ていないのだ。
だから、それを咎める人もいない。
「し、栞ちゃん!?」
お湯の中で、慌てるような雄也先輩の気配。
そこで、わたしは顔を上げる。
「あなたがいなければ、その弟である九十九もいないでしょう」
きっぱりと言い切った。
彼らの父親が、身籠った母親を見捨てるという選択肢もあったはずだ。
人としてはどうかと思うけど、王子という立場にいる人間としては、そんな考え方もあっただろう。
あの黒髪、黒い瞳の青年がいなければ、また別の運命が変わっていく。
アリッサムの王女である水尾先輩は彼に救われ、カルセオラリアという国の王族やその存在も救われた。
いや、それ以上に救われた人間がここにいる。
「九十九がいなければ、わたしもここにいません」
人間界で、15歳の誕生日に、ミラージュの人たちに連れ去られていたと思う。
いや、それ以前に、魔界にいた頃に、人間界へいくこともなく命を落としていた可能性だってある。
彼らはずっと守ってくれていたのだから。
「そして、今も、未熟なわたしは、あなたに何度も助けられています」
どこへ行こうとも、この世界での生活基盤を整えてくれるのは、いつだってこの人だ。
思い付きで行動するわたしの無茶な我が儘を叶えてくれるのも。
人間界で、皆とお別れする前に、時間をくれたのは雄也先輩だった。
セントポーリア城で、王子の無茶な要求から守ってくれたのは、雄也先輩だった。
ジギタリスで、占術師が亡くなった時、閉じこもったわたしを立ち直らせてくれたのは、雄也先輩だった。
ストレリチアに行くために楓夜兄ちゃんを巻き込むことを提案したのは、雄也先輩だった。
ストレリチアでわたしが見習神官たちに襲撃される前、警告してくれたのは雄也先輩だった。
カルセオラリアに行くために、準備してくれたのも雄也先輩だった。
迷いの森で、リヒトを助ける時、わたしの意思を尊重してくれたのも雄也先輩だった。
他にも、もっといっぱいの返しきれない恩がある。
何よりも、カルセオラリア城の崩壊の時、自分の身を犠牲にして助けてくれたのも雄也先輩だったではないか。
「ずっとわたしを助けてくれているあなた自身が、自分の存在を『罪』だなんて言わないでください」
そんなこと、悲しすぎるじゃないですか。
「わたしは、あなたに会えて本当に幸せなのですから」
そう言ったわたしは、ちゃんと笑えただろうか?
頑張って笑顔を作った。
だけど……、もう何もよく見えない。
これは周りの湯気だけじゃなくて……、わたしの視界がうにうにと歪んでいるからだ。
情けない。
格好つかない。
ここはびしっとかっこよく決める所なのに。
だけど……、感情が一度、昂ったらもう止まらなくなった。
自分のことなら、ある程度まで耐えられるのに、どうして、他の人のことだとこうも耐えられなくなるのか?
「栞ちゃん」
わたしに近付く気配がある。
だけど顔も上げられない。
せめて、今のくしゃくしゃになった情けない顔を見せたくはなかった。
顔を押さえてガードする。
「キミが俺のことでそんなに心を痛める必要はない」
「それなら、そん、な、悲しい、こと、言わないで、くだ……さ、いよ……」
鼻を啜り上げながらも反論する。
お風呂場と言うのはどうしてこうも音が反響してしまうのか。
情けない上に、聞き苦しい音が必要以上に響き渡って、もっと顔が上げられない事態になってしまった。
「今、わたしが、泣い、ている、の。雄……也先……輩のせい……ですからね」
思わず、八つ当たりに似た言葉すら出てきてしまう。
「分かっている」
そう言って、顔をガードしていた腕を引かれ……。
「ありがとう」
静かに、わたしは抱き寄せられた。
雄也先輩は上着ごと濡れ、前髪からぽたぽたと雫が落ちている。
それが、自分の頭も肩も濡らしているけど、今はそんなことも気にならない。
「ありがとう」
彼の両腕には、力が込められているのに、何故か痛くはなくて。
「ありがとう」
耳元で何度も繰り返されるお礼の言葉を聞いていた。
そして……。
「俺も、キミに出会えて本当に幸せだよ」
それは、昔、夢に現れた雄也先輩が口にしたものと同じ言葉なのに、全く違った意味が込められていた気がしたのだった。
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