逃げたい気持ち
白い靄が立ち込めている。
ここはお風呂場だから、湯気でいっぱいなのはおかしくないか。
しかし、やはり誰かと一緒にお風呂場にいる……という状況は、かなり緊張する。
同級生しかいない修学旅行とか、ワカたちと行った卒業旅行でも緊張したのだ。
それなのに、今、この場にいるのは男性、それも雄也先輩が横に立っているという状況。
そのことを意識して、急に恥ずかしくなってきた。
思わず、その場に座り込みたくなるが、なんとか我慢して、足を踏ん張る。
「緊張している?」
少しだけ周囲に反響する低い声。
「それはもう……」
わたしはそう答えるだけで精いっぱいだった。
いや、これからもっと恥ずかしいことをしなければならないのだ。
ここで、怖気づいてどうする?
「それにしても、ここが聖湯場か……。壮観だな」
緊張するわたしとは違って、雄也先輩は周りを見回している余裕がある。
経験の差と言うのはこれだけ大きいものなのか。
「お湯も白い……。普通の湯ではないんだね」
湯舟を覗き込む雄也先輩。
白く濁っている理由は、確か……。
「それは『聖酒』だと聞いたことがあります」
「『聖酒』?」
雄也先輩が小首を傾げた。
少し彼にしては珍しい反応で、可愛らしいと言いたくなった。
年上の男性なのにね。
「神によって浄められた聖なるお酒だと大神官さまから、教えていただきました」
「それは、あの時?」
「はい。あの時です」
わたしがここを使用したのはたった一回だけ。
だから、雄也先輩も気付いたのだろう。
「なるほど……、それでこれだけ良い香りなのか」
わたしもあの時と違って、魔力が解放されているからよく分かる。
咽かえるほど甘い匂い。
ここは、酒精特有の香りが充満していた。
これだけの頭に直撃してくる匂いの中、よく平気だったな、あの時の自分。
「そうなると……、この給湯口の生物は……、神獣『鬣蛇』かな」
「ティサークフ?」
そう言えば、あの時、それについては、恭哉兄ちゃんに確認していなかった。
「見ての通り、髭と鬣のある蛇だよ。でも、本来は、神様にお酒を注ぐ役目を持っていたはずだが……、それが何故、口から出ているのだろう?」
首を捻っている雄也先輩。
そして、それからも珍しそうな顔であちこち見回している。
今の格好と相まって、まるでリゾート施設に来たかのような印象だった。
でも、気のせいかもしれないのだけど、その様子がなんとなく……。
「雄也先輩」
わたしは思い切って声をかけてみる。
「何?」
施設見学の邪魔をされたことに対して怒る様子もなく、雄也先輩はごく自然にわたしを振り返る。
「もしかして、雄也先輩も緊張しています?」
わたしがそう確認すると、雄也先輩がその動きを止めてわたしを見た。
「やはり分かる?」
そう確認されたので、黙って頷いた。
どこか落ち着かない様子の雄也先輩のその姿が、先ほどまで恭哉兄ちゃんが迎えに来るまで、部屋で待っていた時の自分と重なったのだ。
「雄也先輩でも緊張するのですね」
ちょっとびっくり。
彼はどこか完璧超人に見えるのに。
「俺も人間だからね。初めて、年頃の異性と浴室にいるのは流石に緊張するよ」
「…………初めて?」
純粋な疑問が湧きおこる。
「うん。初めてだけど……、どうかした?」
「いえ、雄也先輩のことだから、てっきり異性とお風呂には入り慣れているかと思っていました」
「キミの中の俺はどれだけ、不純異性交遊の達人なのだろうね」
そう言いながらも、困ったように雄也先輩は笑った。
いや、これは誰が聞いたって本当に意外だと思うよ?
水尾先輩だって同じか、それ以上の反応をすると思う。
あれ?
もしかして、魔界人って、恋人と一緒にお風呂に入ったりしないのかな?
人間界の独自文化?
それとも、あれは漫画の世界だけ?
「期待させていたら、申し訳ないけれど、俺もそう異性に慣れているわけではないよ」
「いや、それは嘘でしょう」
期待しているわけではないけれど、思わずそう言っていた。
「雄也先輩は、かなり女性に慣れていらっしゃると思います」
こう仕草とか雰囲気とか?
慣れていない男性とはかなり違う気がするのだ。
「なかなか酷いな。こんな純真な青年を捉まえて」
「純真?」
思わず素で反応してしまったためか、雄也先輩が苦笑した。
「九十九と違って、経験が多いことについては否定しない。でも、特定の人間はいないからね」
否定しないのですか。
「いえ、それが女性に慣れているってことではないでしょうか?」
「そうかな?」
「そうです」
経験が多い時点で、異性に慣れてないとは言えないと思う。
「無駄に回数だけ熟しても、あまり自慢にはならないと思うよ」
「その回数もこなせない人間もいるのですよ?」
……と言うか、今、わたしは何の話をさせられているのか?
完全に目的から外れた会話となっている。
ん?
目的から外れた…………?
そこで、ふと気づく。
「雄也先輩、もしかして、儀式をしたくないのですか?」
「どうしてそう思ったの?」
「雄也先輩なら、こんな無駄話をしている時間が惜しいから、さっさと終わらせると思います」
九十九と同じで「時は金なり」、「タイムイズマネー」な人だから。
「栞ちゃんとの会話で無駄なものなど一つもないよ? 有意義な時間だ」
「誤魔化さないでください」
そして、今のやりとりで、わたしは確信する。
雄也先輩は、この儀式に気乗りしていないことに。
もしかして、彼から頼んだことだと言うのに、やはり、わたしではダメだと今更、思ったのだろうか?
「やはり、わたしでは力不足でしょうか?」
少し落ち込んでしまう。
本来なら、この儀式はセントポーリア国王陛下の役目だから仕方ないのだけど。
「そんなことはない!」
だけど、雄也先輩は、強く否定する。
「分かっている。これは、俺の逃げだ」
「逃げ……?」
わたしが戸惑っていると、雄也先輩が勢いよく、自分が着ていたガウンを脱いだ。
その激しい行動に胸がドキリとする。
そして、同時に紙と筆記具が切実に欲しくなった。
顔は九十九と似ているけど、全然、違う肢体。
雄也先輩の方が少しだけ細い気がした。
そして、首、肩からの筋肉の付き方が違う。
そして、何よりも漂ってくる色気。
九十九にも仄かにあるけど、雄也先輩のは破壊力が違った。
周囲の甘い匂いもあって、くらくらしてしまう。
「栞ちゃんを付き合わせたのだから、俺も覚悟を決めるべきだった」
そう言いながらも湯気の中に立つ雄也先輩は凄く絵になっていた。
でも、その表情は真剣そのもので、まるで知っている誰かに似ている気がする。
その髪も、瞳も全く色が違うのに。
「栞ちゃん」
そう言いながら、近くにあった手桶で湯船から「聖酒」を掬い、わたしに渡す。
手桶には白い濁ったお湯が、薄っすらと湯気を出しつつ揺れている。
「これをキミの手で、俺にかけてくれるかい?」
それは穏やかで、何かの覚悟を決めた顔だった。
「但し、それをすれば、大神官猊下が言った通り、キミは引き返せなくなる」
「儀式によって、正式な、雇用主になるから……、ですか?」
それならとっくに覚悟を決めたことだ。
そこに迷いはない。
「いいや、それは後付けの理由だよ」
「後付け?」
どういうことだろう?
雄也先輩は儀式をしたかったわけじゃないの?
「うん。恐らく、この儀式も、神官たちの儀式も、その対象者を焙り出すためのものだと思っている」
「焙り出す? 何を……でしょうか?」
なんとなく、その言葉から人間界でやった「焙り出し」を思い出す。
レモン汁か何かで紙に文字を書いて、その裏から火を当てると……見えない文字が浮かび上がるのだ。
「このお湯をかけてくれたら、教えるよ」
そう言って、手桶ごとわたしの手を握った。
その手は微かに震えている。
だから、わたしは……。
雄也先輩と一緒にお湯を被ったのだった。
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