何も考えなければ
「う……?」
不意に、後ろから声がした。
「あれ? 九十九……?」
どこか寝ぼけたようないつもの声。
それでも、オレのことは分かるらしい。
「ようやく、起きたか……」
振り返ると、焦点が合わないような高田の顔が目に入る。
そして……、少しずつ、その顔に赤みが差し……。
「うわっ! ごめん、うっかり寝ちゃった!!」
慌てて、飛び起きた。
突然だが、セントポーリアのスカートは広がりやすい。
だから、あまり激しい動きはして欲しくはないのだが、広がったスカートの裾から、彼女の白い靴下が目に入った。
思わず目を逸らしたくなるが、同時にしっかり見たくもなる。
男心は複雑なのだ。
「今回は、オレの方が先に寝たんだから、お前が謝るなよ」
謝りたいのはオレの方だった。
「はれ? そうだったっけ?」
高田はきょとんとした顔をする。
どうやら、よく覚えていないらしい。
自分の寝顔を見られていたらなんとなく恥ずかしいので、その点は良かったと思うことにしよう。
「でも、九十九がうっかり寝ちゃうなんて久し振りだね」
「そうだな。ちょっと気を抜いた」
それだけ、今まで落ち着かなかったから仕方ない。
それを言うと、高田はまた眉を下げるのだろう。
自分のせいだと思うかもしれない。
自分を責めることは、昔から得意だからな。
高田が、立ち上がり、スカートを軽く叩き出した。
「それじゃ、帰りますか」
そう笑顔を向けるから……。
「その前に朝飯、食え」
保存食に手を加えたものを差し出す。
手を加えたと言っても、多少、彼女好みの味にしているだけだが。
「あれ? もうそんな時間?」
「そんな時間だよ。下手すりゃ、昼飯。聖歌の時間だ」
気付いてないのか?
腹時計、どうなっているんだ?
だから……、なかなか太らないんだ、この女は。
もう少し肉を付けろ。
「え? 本当!?」
「嘘言ってどうするんだよ。健康のためには、あまり朝食を抜いて欲しくはないのだが……」
「起こしてくれれば良かったのに……」
少し唇を突き出す。
先ほどよりも頬も膨らんで、まるで餅みたいだ。
食いついたら、旨いかもしれん。
「お前も眠れていなかったんだろ?」
「え? 分かっちゃう?」
高田はそう言いながら、顔を赤らめて両頬を手で押さえた。
「あの城で逆にぐっすり寝ている方が、ビックリする」
セントポーリア城で、彼女の味方はほとんどいない。
ほとんど敵陣なのだ。
身内である千歳さんや、味方であるセントポーリア国王陛下の傍でも、あまり、安心はできなかったことだろう。
「セントポーリアの城はどうだった?」
「城と言っても、ほとんど国王陛下の私室にいたからな~」
そう言いながら、先ほど差し出した保存食を口に入れる。
歩き食いを躊躇わない辺り、一般的な王族とはかけ離れているが……、もっとちゃんと王族の教育を受けているはずの水尾さんも、似たようなものだから仕方ないだろう。
「ああ、食事は九十九の作った方が美味しかったよ」
そう言って、嬉しそうに笑ってくれる。
「当然だ」
この世界に来て、どれだけ研究や練習をしたと思っているんだ?
食べる表情や食事の進み具合で、どんなものが好きか嫌いかは分かっているつもりだ。
勿論、苦手なものだってしっかり食べさせてやる。
その食べ物が、ちゃんと食えるものである以上、「お残しは許しません! 」ってやつだ。
「お前、王妃たちには見つかっていないだろうな」
高田はうっかりが多いから、その辺りは本当に心配だった。
「部屋から出ていないから大丈夫だと思う。でも、王子殿下や王妃殿下って……、意外と部屋に来ないもんだね」
「王族だからな。陛下に会うにも、面倒な手続きがいる」
その点は不便だと思う。
だが、国王と言う存在は本当に忙しいのだ。
他国にホイホイ現れる情報国家の王を見ていると、そうは見えないが、実際、セントポーリア国王陛下は昔からかなり多忙の身で、会う約束を取り付けることも大変だった覚えがある。
「王妃殿下ぐらいは来るかと思ったのだけど……」
どうやら、夫婦事情の話らしい。
今、そんな話題をこちらに振られても大変困る。
それに、少し前に聞いた話では、セントポーリア国王陛下は婚儀の後、王妃とそういった行為を行っていないらしい。
それなら、眠れない夜、傍に呼ぶのは別の人間だろう。
「お前がいる状態で、王妃を部屋に召すわけないだろ」
だが、思わずそう言っていた。
なんとなく、彼女には言いにくかったのだ。
その話をすれば、鈍いようで変に察しが良いところがある彼女には、気付かれてしまう可能性があるから。
ダルエスラーム王子がセントポーリア国王陛下の血を引いていないことに。
「それに、お前を置いて、王妃の部屋に行くような方だと思うか?」
真面目で責任感が強い方だ。
仮に行きたくなっても、娘のために我慢はするだろう。
「……なるほど」
一応、納得してくれたことにホッとする。
だけど、その後も神妙な顔をしていたので……。
「どうした?」
うっかりいつもの感覚で覗き込んでしまった。
高田の大きな黒い瞳が見開かれ、柔らかな桜色の唇が僅かに開きかけたのが目に入る。
どうやら、驚かせてしまったらしい。
「いや、この世界で平和に生きるにはどうしたら良いかな、と思って」
どこをどうしたら、先ほどまでの話の流れから、そんな方向に話が行くのだろうか?
この女の思考は本当によく分からない。
何よりも……。
「…………お前、平和に生きる気はあったのか」
そのことにオレの方が驚いてしまう。
「どういう意味かな?」
笑顔ではあるが、そこに僅かながら迫力を感じた。
「いや、お前、自らトラブルに首を突っ込んでいくじゃねえか。だから、若宮みたいに刺激ある生活を望んでいるのかと思っていたぞ」
「そんなつもりはないのだけど」
彼女は否定するが……。
「迷いの森とカルセオラリア城が一番分かりやすいだろ?」
「うぐっ」
オレの言葉にちゃんと心当たりがあるようで、彼女は苦し気な声を出し、その胸を右手で押さえた。
忘れていないようで良かったと思う。
「この世界で平和的に暮らすことは難しくないぞ。全部、誰かに任せて生きれば良い」
何も考えない阿呆のように過ごすだけだ。
変化もしない穏やかで、単調な日々。
そして、彼女が本気でそれを望むなら、その生活を用意することも、今のオレや兄貴ならできるはずだ。
「どういうこと?」
高田は不思議そうに聞き返す。
「何かトラブルがあっても、無視して出て行くな。その上でどこか小さな町で、生計維持程度の仕事を得て、目立たずひっそり暮らす。大半の人間はそうして生きているんだ」
多くを望まない替わりに、細やかで代わり映えのない平穏が手に入ることだろう。
「ん~? でも、それは難しいと思うよ」
だが、彼女はそれを望まない。
それはオレも分かっていたことで……。
「何か騒ぎがあって、救える手立てがある状態でわたしは無視できるとは思えない」
はっきりと言い切った。
彼女も自分で分かっている。
誰かを救えるなら、その結果、自分が危険な目に遭うことが分かっていても、見捨てることなどできない、と。
「お前は、救える手立てがなくても突っ込んでいくからな」
オレは溜息を吐くしかない。
そんな主人だともう知っているから……、オレたちは気合を入れるしかないのだ。
彼女の我が儘を叶えるために。
「その無茶をなんとかしてくれる護衛がいるからね。つい、甘えちゃっているよ」
照れたように笑う高田。
その言葉も信頼も、今のオレには少し重く感じる。
「お前、護衛は便利屋じゃねえぞ」
「便利に使っている気はないよ。でも……、頼りにしている自覚はあるな」
なんで、今日に限って、そんな言葉を連発するのか?
嬉しいけれど、一遍に寄越すな。
もっと別の日に分割払いで願いたい。
「それなら、もっと頼れ。いつも、自分だけでなんとかしようとするな」
「自分だけでなんとかできるとは全く思っていないのだけどね」
嘘を吐け。
お前はいっつも、なんとかしようとしているじゃねえか。
ストレリチア城での騒ぎは、オレが傍にいたのに一言も相談もせず、自力で結界を破ろうとしやがった。
迷いの森だって、夜中に一人でこっそり抜け出ようとしたし、カルセオラリア城の崩壊では、助けに来た兄貴の手を、一度は振り払ったと聞いている。
そんなことをしておいて、「自分だけでなんとかできると思っていない」とか言うなよ。
「でも、いつかは九十九たちから離れなければいけないなら、ちゃんと、自立の道も探らないとね」
高田は何故かそう言った。
「いつまでも、甘えてなんかいられないから」
それは、どこか覚悟を決めたような声。
その言葉が妙に腹が立って……、オレは強く、彼女を抱き締めていたのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




