潜伏期
思えば、ここ数日の気分は本当に最悪というしかないような状態だった。
これまでの人生の中で、欲求不満が溜まったことが、一度もなかったとは言わない。
だが、ここまで濃密で、自分でもどうしようもなくなったことなど一度もなくて……。
―――― ああ、これが「発情期」なのか。
熱に浮かされた頭で、そう考えることしかできなくなったことだけは今もよく覚えている。
それ以降の思考や行動については……、あまり思い出したくはないが。
「はっ!?」
オレは思わず跳ね起きた。
そのまま反射的に、自分の身体のあちこちに触れて確認する。
当然ながら、どこにも何の異常はなかった。
ただ心臓は早く強い鼓動で胸を叩き、呼吸も一気に喉が渇いてしまうほど荒かった。
まるであの時のようで焦ってしまうが、それだけ驚いたのだろう。
周りを見渡すと、少し離れた所でミタマレイルの花に囲まれて、寝息を立てている黒髪の少女がいることを確認できる。
夜だけ光る特性を持つミタマレイルの花は、既にその光を失って、風もないのにゆっくりと揺れていた。
―――― 今度は幻じゃ、ねえよな?
あの時期に、オレは何度も彼女の姿を見たことを思い出す。
この手を伸ばして掴もうとすれば、消えてしまう幻影を、あの場所で一体、何度見たことだろう。
その時は……、もう少し格好も違ったか。
こんなにスカートを履いていても、色気が足りない姿ではなく、もっと……、彼女の素肌が見えるような……。
そこまで考えて頭を少しばかり激しく振った。
恐る恐る手を伸ばせば……、その柔らかな頬にちゃんと触れることができる。
確かな温かさを感じることもできる。
そして、そのまま消える様子もなくしっかりと存在していた。
そのことに酷くホッとした。
この彼女は夢や幻ではない。
そのまま、呑気に寝こけている彼女の外見を確認することにした。
特に外傷を含めた異常は見当たらなかった。
魔気も落ち着いていて、僅かな乱れもない。
だから、大丈夫だろう。
自分の意識がない所で、何かやらかしていてはたまらない。
それこそ、どんな思いで彼女から離れたのかが分からなくなってしまう。
どうしてこうなったのかを考えて……、あのまま、自分がうっかり寝入ってしまったことを思い出した。
久し振りに会った彼女の呑気な顔と、落ち着く声を聞いているうちに意識を飛ばしてしまったらしい。
疲れていたとは言え、護衛としてはかなりの失態だろう。
今回は、こんな場所で無防備に眠っている彼女のことを責めることなどできるはずがなかった。
既に日が替わっている。
そこまでオレを警戒してずっと起きていろとは言えるはずもない。
この森を案内することができるオレが、こんな所で眠り込んでしまっては、彼女はどうにも動けないのだから。
それでも……、個人的にはなんとか起きていて欲しかった。
そんな願いが身勝手だと分かっていても、オレ相手にそこまで無防備になられたままなのは困るのだ。
彼女は何も変わらないが、オレはもう、変わってしまった。
以前のように、何も考えずに傍にいることはできない。
とりあえず、今回は距離が離れていただけマシだと思うことにする。
同じ部屋で眠っている姿を発見した時よりはずっと良い。
念のため、事前に遅くなると連絡していたことは正解だった。
セントポーリア城で、書類仕事を始めることにした時、すぐに帰れる気はしなかったため、先に「すぐには戻れない」と、連絡を入れておいたのだ。
まさか……、思ったより書類仕事が早く片付くとは思っていなかったし、うっかりこんな場所で一晩、過ごしてしまうとは思ってもいなかったのだけど。
しかし、こんな何でもない場所で熟睡できるオレや、彼女の神経はどれくらい太いのだろうか?
いや、外敵が来ないという意味では、ここは自然結界と言う最高の護りがあることは分かっている。
小動物の気配すらないのだ。
だが、どこかの誰かのように、それを知らずに迷い込む人間がいないとは限らない。
もっとも、他の気配があれば流石にオレも反応しただろうけど。
オレはまだ眠り続ける高田を起こそうとして……、そのまま手を止め、替わりに毛布を召喚して掛けた。
今、彼女の魔気は安定している。
そして、今は特に急いで何かしないといけないこともない。
少しぐらいゆっくり過ごしても誰も……、あ~、うん、兄貴ぐらいしか文句は言わないだろう。
オレは再び、その場にごろりと転がる。
こんなにのんびりしているのは久し振りだった。
ここ数日はまともな寝方をしていなかったというのもあるが、それ以上に、再び、彼女の護衛となってからは、あまり落ち着いた日々を送った覚えが少ないのは気のせいではないはずだ。
どうしても、神経を尖らされてしまう部分がある。
最後に何も考えずに転がったのは……、高田に一服盛られた時か?
あの時は、完全に無警戒だったからな。
そこまで考えて、今回のことといい、オレは護衛として不適格なのではないかと思いたくなってしまった。
そのまま思わずごろごろとその場で転がりたくなる。
そして、「禊」の間を借りて、あの時期を耐え凌いでも、オレの「発情期」は終わったのではなかった。
表面上、落ち着いただけだ。
この状態は単純に再び潜伏期間に入っただけのこと。
彼女に会ったことで、それを嫌というほど理解するしかなかった。
あの時ほどの渇望はなくても、今も胸の奥が騒めく時があることを自覚する。
せっかく、若宮によってある程度、心を落ち着かせてもらったのにな。
―――― やはりこのままではいられない。
大神官は本当にすげえと思う。
こんな状態の自分を奥底に秘めたまま、沈めたまま、あんなに涼しい顔をしているのだ。
並の精神力じゃない。
しかも、あの大神官は本来なら、手を出しても問題ない異性がすぐ傍にいるのだ。
それも、その相手が拒んでいるわけでもない。
それでも、体面のためか、その女のためか分からんが、耐えることを選んでいる。
オレのような常人に、その心境は計り知れない。
すぐ横で、まだ無警戒に眠っている少女を見る。
どうして、こうも無防備に眠り続けることができるのか?
こんなにオレが近くにいるというのに、不思議なほど落ち着いた顔で眠っていた。
そのことが何故か少し腹立たしい。
先ほどのように頬を突いても、何の反応もない。
前髪が流れて全開になっている広い額に手を置いても振り払うこともない。
黒くて長い髪に触れても、不快な顔をしない。
いや、これは起きている時でもそこまで変わらない気がした。
基本的に、彼女はオレが触れた時、不思議そうな顔はすることはあっても、そこまで嫌な顔はしない。
それは兄貴が触れても同じだろう。
オレたちは護衛としてかなり信頼されているということである。
だが、一度だけうっかり胸を掴んでしまった時は、珍しくかなり動揺されたな。
尤も、あれでも変わらずのほほんとされたら、流石にオレは男としての自信を無くすところだったが。
なんとなく高田に向かって指を伸ばした。
そのまま、オレの指先が彼女の一部に触れる。
ふっくらして柔らかいのに少しだけ弾力があるソレは、ぷにっとした独特の感触があった。
ガサガサとした自分のものとは違う感覚に、思わず、生唾を飲み込んだ。
その喉を通る音が意外と大きく耳に届き、逆に、正気に返った。
「あっぶね~」
思わず、早鐘のように衝撃を伝え続けている胸を押さえる。
指には、先ほど彼女の唇に触れた感触が少しだけ残っている。
改めて「発情期」はまだ終わっていないことを理解した。
少しでも気を緩めると、無意識ではあるが、思考がすぐそっち方面に引きずられてしまっている。
そして、これは無意識だから困る。
とりあえず、今のオレは、兄貴の一刻も早い回復を願うばかりだった。
兄貴が動けるようになれば、手の打ちようがあるのだ。
そして、そうすればきっと……、こんな気持ちも全く抱かなくなるだろう。
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