暗闇の中で伸ばされる手
信じられないほど熱くなっていたこの身体と頭は、もうすっかり冷えてしまった。
それから、さらにどれぐらいの時間が経過したかは分からないが、ぼんやりとした時をゴロゴロと過ごしている。
「ご気分はいかがでしょうか?」
いつものように涼しい声と清廉な雰囲気を伴って、どこからか、その美しい青年が現れたのだ。
扉も見えないのに、どんな仕掛けだったのだろう。
だが、それを確認することは出来なかった。
「最悪です……」
情けなくも倒れ伏した状態のまま、自分でも信じられないくらい情けない声と言葉で返答する。
少し前まで、この部屋の片づけをするたびに、少し前の阿呆な自分を思い出し、その行動を省みては、どんどん罪悪感と呼ばれるものが積み重なっていった。
恐らくは、今、自分はかなり酷い顔をしているだろう。
だから、情けなくも顔も上げることができない。
まさに、どのツラを下げて会えば良いのだ?
一部の神官たちは、あんな状況とこんな心境を何度も乗り越えてきたとか。
それだけでも、正気の沙汰ではない。
さらに、これを何十年も続けているヤツもいるとか……。
ある意味、性癖が歪んでいるとしか今の自分には思えなかった。
「おや、それは珍しい」
そんな敬語が抜けたこの青年の方が、かなりレアだと思う。
この方は、王族に対して会話をすることも許されているような立場にありながら、言葉の通じない赤子にまで敬語を使うような人間なのだから。
「この部屋に入れば、大半の神官たちは、満足されるのですが……」
それは、どんな変態でしょうか?
そして、あんな苦しい思いをして、どう満足しろと言うのでしょう?
あの状態を冷静になった頭で省みれば、自分の隠されていた性癖を、客観的に見せられたようなものだった。
いや、一部は隠してなかった気もするが、それでも知らない扉を数か所ぐらい開けてしまったような気はしている。
特に夢の中の自分はそれだけ酷かったのだ。
あんな自分は世の平和のためにも、一生、厳重に封印したままで良い。
落ち着いた今でもどこか信じられないし、いろいろ恥ずかしいし、情けなく思う気持ちは強いし、何より、本当に申し訳なさでいっぱいになっている。
「夢や幻とはいえ、己の願望が叶う場所とされています。そして、それは本来の自分ではなく、神から出される多くの試練の一部に過ぎません。だから、言い訳もたつ……と言うことでしょうね」
物は言いようってやつだな。
自分のせいじゃないから、何も開き直って気にするな。
そして、なかったことにしろ……と。
そんなわけあるかよ!
アレは正気とは言い難くても、間違いなく自分自身だった。
誰が否定しても、それだけは分かっているのだ。
だから、あの時の自分の思考が、行動が、気持ち悪くて仕方ない。
そして、あんな状態も、自分自身の一部として認めざるを得ないことが、たまらなく悔しかった。
それでも、今は肩を震わせるぐらいしかできない。
困ったことに、「発情期」はこの一回で終わってはくれないらしい。
個人差はあるが、何度も何度も繰り返し、襲ってくると聞く。
だから、このままでは今回だけではなく次回、次々回と続いてしまうのだ。
何も手を打たない限りはずっと……。
「お顔を上げてください」
そう言って、青年は、伏したままの自分の腕を優しく引こうとしてくれる。
「触らないでください。汚れてしまいます」
だが、それを拒んだ。
優しい言葉も行動も、今は欲しくなかった。
自分は、そんな言葉をかけてもらえるような人間ではない。
自分が途方もなく汚いモノになったようで、嫌だったのだ。
こんな状態を、誰にも見せたくはないし、そんな自分に触れて欲しくもない。
「大丈夫ですよ」
激しい拒絶の意思を見せたにも関わらず、青年はそう言って、細い見た目の割に、結構な力で、ゆっくりと自分の身体を無理なく起こさせる。
「貴方のお気持ちは、恐らく誰よりも分かりますから」
そう言いながらも青年は、まともな手入れもせず、ボロボロになっている頭を優しく撫でてくれた。
それだけで、自分の精神がゆっくりと落ち着いていく気がした。
まるで、心の奥底にあった見えない何かが浄化されているかのように。
―――― ああ、そうだ。
この人に分からなければ、きっと誰にも分かることはない。
血を分けた人間であっても、今の自分の気持ちなど理解ができるはずもないのだ。
同じ思いを抱いたこともない、そして、今後、抱く可能性もなければ、恐らく生涯、分かりえない胸の内なのだろう。
だが、それでも……、こんな苦しみを耐え続ける道を選ぶこの青年の気持ちについては、自分にも一生、分からないままなのだろうが。
さらに時間が経過した。
「そろそろ、戻りましょうか?」
そんな青年の呼びかけに……。
「はい」
先ほどまではこの場所から全く動けないでいた自分は、素直にそう答えていた。
落ち着くまで待ってくれたこともありがたいが、多忙な身と知っている相手に、貴重な時間と手間を取らせてしまったことは大変、申し訳ない。
それでなくとも、これまでにいろいろと迷惑をかけてきたのだ。
必ず、どこかでこの恩は返そうと誓った。
「それと……」
一瞬、青年は言い淀んで……。
「姫が、貴方にお会いしたいそうです」
そんな冷水を激しくぶっかけてくれた。
「いや……、それは無理でしょう」
だから、きっぱりと断ることにする。
確かに、先ほどよりはずっと落ち着いたように見えても、まだ、完全に自分の心が鎮まったという保証など、どこにもないのだ。
ゆらゆらと波が揺れるように不安定な感覚と、どこか落ち着かない感情が、残滓のように自分の中にべっとりと張り付いている。
「まだ難しいですか?」
「はい」
「それでは……、『お迎え』もまだ難しいですね」
「『お迎え』……?」
戸惑うように告げた青年の言葉の真意が分からず、そのまま聞き返した。
「姫からのお言葉です」
コホンと青年は咳払いを一つして……。
『主人を迎えに行きたければ、この王女を乗り越えて行きなさい!』
告げられたその言葉には、金髪で光り輝く翠玉石のような瞳を持つ王女の姿が視えた気がした。
ついでに高笑いと挑戦的な瞳付きで。
なるほど……、分かりにくいが、彼女なりの心配りらしい。
本っ当っに!
すっげ~、分かりにくいが!!
確かに、こんな不安定な状態で、離れた場所にいるあの主を迎えに行くことなどできるはずもない。
それに傍にいる自信もなかった。
そんな自分の迷いを理解した上で、いきなり当人に会う前に、まずは自分を使って試せと言うのか、あの王女殿下は。
そして、どれだけあの友人のことが好きなのか?
今更か……。
そんなこと、人間界にいた時から分かっていたことだったな。
あの王女殿下は本当にあの友人のことが大好きなのだ。
そんなことはこれまでの言動から嫌と言うほどよく知っていることでもあった。
だから、人間界にいた頃から、何度も従兄妹とともに牽制をしてきたのだ。
半端な覚悟で近付くことは許さない、と。
その頃はまだ、互いに魔界人だと知らなかったはずなのに、それでも何度も忠告を含めたものをしてくれた。
そして、今回も。
一国の王女が、その身体を張ってまで守ろうとする。
そこまでされて、その厚意を無碍にできるはずもない。
その気持ちを知った上で、彼女の意を汲んで、言葉を伝えてくれた青年。
今の自分の不安定な心境も理解しているのに、彼が優先するのはどこまでも王女の気持ちだった。
今も不安はある。
迷いも尽きない。
だけど、友人たちに顔向けできない自分になりたくはない。
「分かりました。王女殿下と大神官猊下のご厚意をありがたく思います」
そう言って、頭を下げたのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




