特殊な存在
「先輩は、高田と付き合ってるんですか?」
先ほどと同じようにバントで調整をした後、彼女は快音を鳴らし始める。
その音を確認すると同時に、彼はそんなことを俺に聞いてきた。
どうやら俺と直接、話をしたいために、彼女に場を外させたらしい。
一回50球という普通より長く時間がかかるコースを奢ったのも、25球程度では話が済まないと判断したのだろう。
「彼女がここに来たいと言ったから、付き添って来ただけだよ。でも、男女交際という意味でなら、彼女のためにもそこはしっかりと否定させていただくかな」
「そうですか……。いえ、違うなら良いんですが……」
どこか歯切れの悪い返答だった。
「だが、彼女が誰と付き合おうが、キミには関係ないだろう?」
「そりゃ、関係はないですけど、先輩みたいにモテる人間と付き合ったら苦労しそうだなと心配なんですよ。高田は……、俺にとっては大事な友人であることは間違いないので……」
結論を急ぐのは、彼女の打ち終わりを気にしてのことだろう。
確かに、当人の前でするような話ではないのは理解できる。
俺としては微笑ましい限りの話だが。
「栞ちゃんは、俺にとっては友人と言うより、妹みたいな感じだな。尤も愚弟しかいない自分にとってはあんなに可愛い妹がいたら、天と地ほどの差をつけて構ってしまいそうだがね」
そのことについて、微塵も誤りはない。
彼女を友人としてみることはないのだ。
だから、妹。
守るべき大切な存在と言う意味でも、決して間違った表現ではないと思う。
「はあ……、妹……?」
そう言いながらも、彼はどこか納得していない様子だった。
それだけ、彼女の周りに特定の異性がいなかったのだろう。
それだけ見る目のない人間が多いのか、アピール不足により友人として留まっているのかは分からない。
そこで、突然現れた俺。
多少なりともあの少女に好意を持っているのならば、気になってしまうのかもしれない。
その真偽については置いておいて。
「そう、妹」
念を押してみる。
「高田は……、男に免疫がないんですよ。だから、簡単に男に騙されそうで心配なんです。もし、遊ぶとかそういうつもりが少しでもあるなら止めて欲しい」
「遊ぶなんて……、随分と信用ないんだな」
彼女が男に対して耐性がないのは、見ただけでもよく分かる。
異性に対して身構えると言うか緊張感があるようにも見えるのだ。
あのような状態では、その懐に入るまで、かなり大変だろう。
九十九や彼のような距離で接していることが、彼女にとっては例外のような気がしてならない。
「先輩がモテなければこれっぽっちも気にならないんですよ。でも、中学の時の先輩の評判を知っている身としては……、友人が毒牙にかかるなら傷つく前に阻止したいでしょう?」
中学の時?
特別なことをした覚えはないが、「評判」という意味では、心当たりはないわけではない。
単に、「告白されても全て断っている」とか、「決して特別な相手を作らない」とかそう言った話に、尾びれとか背びれとかついただけの話……だと思っている。
それ以外の要因もあるかもしれないが、表向きの俺の評価に関してはそんなものだろう。
だが、交際前提の告白となれば、魔界人の身で受け入れるわけにはいかない。
九十九のように好みからあまり外れていないというだけで、先のことを考えずにほいほいと了承する方がどうかしているのだ。
特別な相手を作らないという点に関しては、既にいるのに改めて必要としないだけだった。
そんなに受容力が高くない人間に、多くを求められても応えることなどできはしないだから。
「大事な友人?」
「はい。大事な友人……ていうか、感覚的にはもう身内ですね。先輩が妹みたいと表現したのに近いかもしれません」
つまりは俺に対して釘を刺したいわけだ。
彼女に手を出すなと。
それなら、偽装交際をしているというあの弟の立ち位置を知れば、彼はどのような反応を示すだろうか?
その反応を見たくもあるが、今はそこが問題でもなかった。
「キミの心配は最もだと思うが、俺が彼女を騙すのは難しいな。独特の雰囲気を持っているため、こちらのペースに持っていきにくい」
「それについては同感です」
そう言いながら、彼も困ったように笑う。
それを見て、察する。
どうやら、彼も彼女にペースを乱されている一人のようだ。
気の毒なことである。
「先輩は、あのどこか呑気な女の雰囲気が、ガラリと変わる瞬間を見たことがありますか?」
「あの雰囲気が……変わる?」
心当たりはあるが……、見たことはない。
いや、現時点では見る機会に巡りあえないと言ったところか。
俺は弟ほど、彼女の傍にいることはできないのだ。
「その瞬間を目撃すれば、彼女に対する評価がひっくり返りますよ。現に、俺は変わりましたし」
どうやら、彼はその貴重な瞬間とやらをお目にかかったことがあるらしい。
だが、この口調から、どうやらその状況を教えてくれる気はないようだ。
知りたければ自分の目で確かめろと言ったところか。
「まあ、詳しく聞きたいところではあるけど、残念ながら、話はここまでのようだね。彼女が終わったみたいだよ」
「……そうですね」
彼はまだ何か言いたげな顔をしたが……、そこで口を閉じた。
「あ~、疲れたぁ。やっぱり後半に打ち損じが出てきちゃったよ」
そこで……、バットを携えた彼女が笑顔で戻ってくる。
俺たちの間で交わされた言葉を知らないし、考えることもないだろう。
それは……、少なくとも彼にとっては良いのかもしれない。
今のところは……と続くのだが。
「現役から退いたら、そんなもんだろ。高校行ってもまたやるのか?」
何事もなかったかのように、彼は話をする。
その胸中は、当事者でない俺には分からない。
「う~ん……」
彼女も少し考える。
それも無理はない。
彼女は別の世界に行くと決めたばかりなのだから。
「できたら続けたいけど……、それが許されたらね」
「また家庭の事情ってやつか?」
「うん。そんなところ」
そう言って、最近の彼女にしては珍しい笑みを浮かべた。
困ったような、迷っているようなそんな表情。
「いろいろと大変だよな……。お前も……」
その表情をどうとったのか……、どこか慈しむような顔で、彼は彼女の頭を手で軽く叩いていた。
***
たった一度だけ……、彼女の表情がいつもと別種だったのを見たことがある。
それは、本当に偶然で。
なんでその場に俺が立っていたのか分からないほどのタイミングで。
あれは、確か自分が通う中学校でのこと。
たまたま休日にあった弓道部の練習が早く終わって、帰ろうとしていたときに、校庭から快音が聞こえたのだ。
なんとなくそちらの方へ足を向けると、女子特有の甲高い声。
そして、その近くには鬼気迫る顔した父兄たちと思しき集団の叫ぶ姿があった。
目を向けると、さして興味がない球技の試合。
その中に彼女はいたのだ。
その頃の自分が彼女に抱いていた印象は、自分の足を運ぶ場所に何故だかよくいる変な女だとか、物好きにもあの「若宮恵奈」と一緒にいるだけあって暢気で場の空気が読めないような女とか、そんな感じで、本当に特別な感情はなかった。
だが、それはあの日から……、いや、あの瞬間から変わったのだと思う。
こつんっと、聞こえるはずのない音が聞こえた気がした。
距離は離れていたのだから、ここまで音は届かない。
どちらかというとその前に打った音の方が大きかったはずなのに、それは俺の耳の中で鳴った気さえするほど、はっきりとした音だった。
周りの歓声さえも掻き消すような静かな空間がそこにあった。
彼女は前の打者のように景気良くバットを振ることもせず、ただ来たボールの勢いを殺すかのように落としただけのこと。
だが、それがどれだけの技術なのかは、その競技に対してまったくの素人であった自分でも良く分かる。
普通、ボールをバットに当てれば転がるということは、小学生でも知っていることだ。
その法則を彼女は捻じ曲げた。
速いボールが、金属製の棒に当たったと言うのに、地面でほとんど転がりもせずにその場で止まるなんて、ありえない。
たとえ、多少地面がやわらかかったとしても、それでもあの動きを予測するなんて出来ないだろう。
それにあの瞬間は、彼女の舞台……、いや世界があった。
一瞬だけ時間が止まったかのような空間を彼女は少しの動作で作り上げたのだ。
それはどんな魔法だったのか、今でも良く分からない。
そして、あの表情。
ボールを待っていた彼女の目は、いつもゲームセンターで熱中している真剣さとは質そのものが違った。
遠く離れた場所からでも分かるあの顔は、今でもはっきりと自分の脳裏に焼きついている気がする。
結果として、彼女自身はアウトだった。
ほとんど転がらなかったボールはキャッチャーがあっさりと掴み取って、一塁に投げたのだ。
その悔しがりながらも、何故か笑顔を見せる彼女は、いつもの姿と大差がなくて、まるで、短い夢から覚めてしまった気分になった。
それでももう一度だけ、あの瞬間を確認したくてその試合を最後まで見ていたが、結局見ることはできなかった。
彼女に打席が回ってこなかったのではない。
単純にあの現象が起きなかっただけだ。
その後も彼女は同じようなことをしたのに、それでも、あの空間にはほど遠いものだった。
後で聞いて知ったことだが、あの試合。
彼女のあの時の行動が、後に点数へと繋がり、その1点差だった試合は同点になることができたらしい。
一塁にいた走者を二塁へと進めるだけの仕事。
それにその次の打者が応え、同点ヒットを放ったとかなんとか。
つまりは、大事な場面だったのだ。
ルールを良く知らない俺にとっては、その説明をソフトボール部の女にされたところで、やっぱり良く分からなかったわけだが。
とりあえず、あの時から特別……と言うより、特殊な女になった。恋愛感情? そんな単純な話ではない。
単に、自分の目を一瞬でも奪ったことに対する敬意……、いや、尊敬のようなものだ。
今まで自分には、そんなことはほとんどなかったから。
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