知らない方が良かった感情
どうしてこうなった?
わたしは、この世界に来て何度この言葉を思うのだろう。
もはや、口癖である。
いや、今回は口にしてないけど。
現在、わたしは大聖堂の一室に九十九といます。
いつも互いが使っている部屋ではなく、恭哉兄ちゃんの私室の一つ。
一体、あの人は何部屋持っているのかは分からない。
でも、ここなら絶対に第三者は立ち入らないとは聞いている。
まあ、流石に情報国家の国王陛下でも、大神官の私室に入る許可は下りないだろう。
寧ろ、神官たちが身体を張って止める場所だとも思う。
ある意味、神官たちの聖域。
そんな場所で今、わたしは九十九から……。
「痒い所はないか?」
「大丈夫」
何故か髪を洗ってもらっている不思議。
それも、普段の言動からは想像もつかないほど丁寧に。
彼は美容師の資格を持っているのでしょうか?
いや、そんなものを持っていたら、タオルでわしわしと髪の毛を拭くようなこともしないか。
でも、絶対、彼はわたしより美意識ってやつが高いとは思っている。
女性向けの化粧もできるし。
しかし、これも雄也先輩の指導の賜物だとしたら……、彼ら兄弟は一体、どれだけの事態を想定していたのだろうか?
わたしだってある程度、自分のことはできるつもりなのだけど。
確かに、日頃の髪の毛のカットとかは頼んでいる。
自分で切るより彼らの方が上手いというのもあるが、人間界にいた頃のように、「前髪ぐらいは自分で切る」と口にしたら、「頼むからオレにやらせろ」と九十九に言われて以来、お願いするようになったのだけど。
頼まれたのだから仕方ないよね?
「しかし……、流石に神官が使う部屋だな。まさかシャンプー台があるとは……」
水音に混ざって、そんな九十九の独り言が聞こえてくる。
顔にタオルを被せられているので、彼がどんな顔で髪の毛を洗ってくれているのか分からない。
でも、いつものように真面目な顔をしているのだろうな……とは思う。
しかし、これが彼の言う「女扱い」とは……。
いや、確かにもう少し扱いを考えて欲しいとは思っていたが、同時に何か違う、とも思えてしまう。
でも、その「何か違う」の「何か」は自分でもよく分からない。
だけど、こんな行動も、彼らしいと思う。
その気になれば、わたし相手にも丁寧な対応ができるのに、あえて、彼はそれをしようとしない。
他の女性と違う扱いにはちゃんと意味があるのだろう。
まあ、九十九が雄也先輩のようにわたしに対して接するとか、なんとなく気持ちが悪い気もするし。
それにしても、温いお湯が妙に心地よい。
美容院で眠くなったことはないのだけど……、なんかちょっとウトウトしてくる。
そこまで弱い力ではないのに、それでも柔らかいマッサージのような髪の毛の洗い方が凄く気持ちが良いのだ。
でも……、流石に、今、寝るわけには…………、ぐぅ……。
****
「やっぱり、寝てやがった」
オレは呆れるしかない。
目の前で目を閉じている少女の艶やかな黒髪が流れ落ちる。
口元が緩んでいる辺り、悪い夢を見ているわけではないようだ。
先ほどまで、髪を洗っていた彼女の呼吸の仕方が変わり、オレの言葉に反応もしなくなったから変だとは思った。
だけど、この状況や先ほどの言葉を聞いた後だから、少しぐらいは考えてくれると思ったのだ。
こいつ、本気でオレの性別、忘れてねえか!?
そう叫んだところで、こいつを起こしてしまうだけだ。
せっかくゆっくり休んでいるのに、起こすのは流石に躊躇われる。
しかし、困った。
自分が使用している部屋ならともかく、他人の私室で彼女を寝台に転がすことはできない。
見た所、使用の形跡はないが、使用して変に疑われるのも困る。
少し考えた後……、彼女の髪の毛を念入りに乾かし、抱きかかえた。
ここでは、寝台にも寝かせることができない。
床に直接、転がすなんて論外だ。
それなら、別に寝具を出すべきだろう。
幸い、寝袋は持っているのだ。
それは分かっているのだが……、そのまま床に腰を下ろす。
オレの両腕にすっぽりとおさまってしまうほど小柄な少女。
年相応に落ち着いてきたなと思うが、この状態を見ていると、まだまだガキだよなと思ってしまう。
オレが、今、どんな気持ちでいるかも知らないで、彼女はいつものように呑気な寝息をたてている。
オレを全面的に信用して。
いっそ、本当の意味で異性扱いできれば楽なのだろうか?
だが、それはそれで苦しい気もする。
これは恋愛感情ではない。
寧ろ、そんな甘い感情だったら良かった。
だから、余計に苦しく思うのだ。
これが、恋愛感情ではないと、自分でもちゃんと分かっているから。
オレの中から、溢れ出ようとしているのは、もっと別の……、ドス黒い衝動に近い感情だった。
ある意味、生物としては純粋な渇望なのかもしれないが、周囲の人間にしては迷惑でしかない貪欲な思考。
これがただの兆候だと言うのなら、その期間に入ればオレはどれだけの苦痛を味わうことになるのだろう?
分かっている。
この我慢も長くは続かないことぐらい。
オレは、今、異性に触れたくて仕方ないのだ。
だから、なんでもない時にも、気付けば彼女の身体にさりげなく触れている。
それを彼女は純粋に善意と解釈してくれているけど、いずれ、そうじゃないことに気付くだろう。
これが、高田だけが対象だったなら、オレでも流石に恋愛感情だと認めてやった。
だけど、違う。
厄介なことに、今のオレは、女なら誰でも良いのだ。
だから、若宮には串刺しにされかけるし、グラナディーン王子殿下の婚約者殿にはド派手に投げ飛ばされた。
これだけ警戒心がない高田からも、一度、風魔法でぶっ飛ばされている。
幸い、水尾さんや真央さんには会う機会が減っているから今のところは何もやられていないが、魔法国家の王族である彼女たちから抵抗されたら命はないかもしれない。
そんな状況にも拘らず、彼女は大人しくオレの腕の中にいる。
白くて柔らかそうな頬を動かして。
桜色の唇を少しだけ緩ませて。
――――ああ、なんて……。
自分の生唾を飲み込む音で、正気に返る。
酷く苦しいのに、手放したくない。
開き直ることができたなら、楽なのに、理性はしっかりと邪魔をする。
少し前に兄に言ってみた。
彼女の護衛を一時期、離れるのは駄目かと。
この状況は分かっていたのか、兄は鋭い眼をオレに向けて……。
『お前の事情は分かっているつもりだ。やはり、表れたな』
そう答えた。
『お前が「ゆめの郷」に行くのが一番だが、現状ではそれも容易ではない。せめて、俺がある程度、動けるようになるまでは無理だ』
しかし、その兄はまだ碌に身体を動かせる状態にない。
『この状況で、今、お前が彼女から離れることは難しいだろう。せめて、会合が終わるまでは……、いや、あの情報国家の国王の気配が消えるまでは、なんとか一人で堪えてくれ』
兄は自分も何かを堪えるようにそう続けた。
そして……。
『だから、今、本能に引き摺られるような無様を見せるなよ。どうにもならん時は自分で死を選べ。それが、分かっていたのに今まで動かなかったお前の報いだ』
オレの唯一の身内は、無情にもそう告げたのだ。
「分かってるんだ」
これは、結論を先延ばしにしていた結果だと。
だが……、それでも……。
「ん……っ」
彼女の漏らす声に心臓が跳ね上がる。
それでも、目を開ける気配はなかった。
「この阿呆……」
思わず、腕に力が入ってしまう。
いや、彼女は何も悪くない。
悪いのは、兄貴の言う通り、こうなると知っていたのに、何の対策もとっていなかったオレ自身だ。
本能を抑え込む魔法を契約したが、それも効果は一時的で、あまり長くはもたない。
しかも、魔法力の消費が激しく、連続で使えないのだ。
さらに、本能的な衝動を無理矢理抑え込めば、その分、抵抗も激しくなる。
苦しくてたまらなくなった頃……、この部屋の扉から三回ほど音が鳴り響いたのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました




