思ったより離れていない距離
「ところで、雄也先輩?」
彼女は思い出したかのように声をかける。
「わたしは、いつ、解放されるのでしょうか?」
その言葉で、自分の顔から血の気の引いた音がする。
「ご、ごめっ! ぅぐっ!!」
咄嗟のことで、そんな言葉しか出なかった。
さらに、慌ててしまったために、忘れていた痛みを思い出す。
俺は、ずっと彼女を抱きしめた状態だったのだ。
あまりにも気分が穏やかで落ち着いてしまったために、その状態が不自然だとは思えなかった。
彼女を拘束していた両腕を解くと、ゆっくりとその身体が、離れていく。
そして、彼女が離れると同時に、思い出したかのように俺の全身に痛みが走り出し、思わず、顔を顰めてしまった。
「ゆ、雄也先輩!? やっぱり痛むのですか? ごめんなさい、わたし、重かったですよね?」
そんな俺の表情を見て、彼女は慌てたようにそう言った。
寝台が少しだけ揺れ、その微かな動きすら身体の痛みは反応してしまうが……、今はそれを気にするような余裕もなく、弁解を続ける。
「違う、違う! 寧ろ、楽だった。」
「へ?」
俺の反応にきょとんとした顔を見せる。
そのあまりにもまっすぐな反応に、つい余計なことを口走ってしまった。
「痛みがある時。枕とか布団とかを抱き締めると、少しだけ気分が落ち着いて、身体が楽になるんだよ」
台詞の取りようによっては、ただの変態的な発言でしかない。
だが、悲しいかな、それは事実なのだ。
何かを抱き潰すことによって、少しだけ気が紛れるのだろう。
そして……、不思議なことに、先ほどの状態は、普通の寝具よりももっと、効果が高かった気がする。
温かさとか、柔らかさとかそれ以外にも、得られる情報量が多いためかもしれない。
それが、人間だったせいか、彼女だったためかは俺自身もよく分からないのだけど。
「は~、枕や布団……」
そう言いながら、彼女は少しだけ乱れた衣服を整えて、寝台から降りる。
「つまり、わたしは、これらと間違えられた……ということでしょうか?」
俺の傍にあった潰れた枕を一つ持ち上げながら、彼女は、眉を下げた。
「否定はできない。寝ぼけてもいたから」
これ以上、余計な弁解も弁明もしない。
今の俺の思考は正常ではないようだ。
何を言いだしてしまうのか、自分でも分からない。
「雄也先輩でも、身体が悪い時は寝ぼけてしまうのですね」
「一応、人間なので」
自分の中で、いろいろな部分が誤作動を起こしていることはよく理解できた。
「いろいろな話をしてくださった時、少しは楽になったように見えたから、治ったのかなと期待したのですが……。今の顔色を見ると、まだまだみたいですね」
「面目ない」
俺はそう言いながら項垂れるしかない。
「いいえ、雄也先輩の怪我はわたしのせいですから」
そう言いながら、彼女は困ったように笑った。
あれは……、別に彼女のせいではないのだけど……。
そう言っても彼女自身は納得しないのだろう。
「では、改めて別の枕でも抱っこしますか?」
寝台に乗っていた別の柔らかそうな枕を差し出す。
「い、いや……、そんな気分じゃなくなった……かな」
「でも、きつそうですよ? 大丈夫ですか?」
「うん、まあ、大丈夫だよ」
身体は軋むような痛みを訴えているし、額からは汗が滲んでいることが分かるが、なんとか笑って見せる。
それを見た彼女は、少し考えるような仕草をした後……。
「雄也先輩……」
「ん?」
それは、全くの不意打ちだった。
今度こそ、俺の頭から「痛み」という単語が完全に吹っ飛ばされる。
ふわり、と覚えがある甘い香りがして、自分の身体が完全に固まってしまった。
「こ、この寝具なら、少しは……楽ですか?」
「し、栞ちゃん!?」
「少しは! 楽になりますか?」
彼女は、ぎこちなく俺の胸元に張り付きながらも、焦りが混ざったような声でそう尋ねてきた。
その肩は少し震えている。
確かに痛みは吹っ飛んだが、これは、頭が何も考えられないような状態になっているだけに過ぎなかったようで、少しずつ痛みが戻ってくる。
身体の痛みを意識してしまえば、また、元に戻るだけのようだ。
「もう良いよ、栞ちゃん」
俺は、そう言った。
「楽に……、なりませんか?」
戸惑うような、気遣うような言葉。
「確かに少しだけ、楽になる気がするけど……、そのためだけに栞ちゃんから抱き付かれてしまうのは、俺の方に抵抗が大きすぎる」
流石に、これはない。
「そうですか?」
だが、何故か、そこで疑問形になる彼女。
「雄也先輩はそう言うことを気にしない人だと思っていました」
そう言えば、我らが主は、母親と同じく、可愛らしい顔でなかなか遠慮のない物言いをしてくれるお嬢さんだった。
「その……、どちらかと言えば、利用できるなら、何でも利用するような……?」
さらに続けた言葉に微塵の容赦もない。
弟と後輩が二人して、日頃から彼女にどんなことを吹き込んでいるのか、よく分かる台詞だと思う。
身体を動かせるようになったら、最初に弟をきっちり締めることにしよう。
「まず、離れてくれるかな?」
「は、はい。失礼しました!」
そう言いながら、彼女は俺から離れる。
顔が紅い辺り、自分でも慣れないことをした自覚はあるのだろう。
「お役に立てず、残念です……」
そう言いながら、彼女は下を向く。
「気持ちは嬉しかったよ。ありがとう」
俺は、素直にお礼を言う。
これだけ、ただの従者を気にかけてくれる主人はそう多くはないだろう。
それが、これまで育ってきた環境の違いだとしても、良い主人に仕えることができるのは、喜ばしく誉れ高くもある。
だが……、俺の言葉に対して、何故か、彼女はこれまで以上に頬を紅く染める。
なんとなく、やかんのお湯が沸いた……そんな錯覚を見た気がした。
「……栞ちゃん?」
「す、すみません! ちょっと待ってください!!」
そう言いながら、彼女は顔を隠してしゃがみ込んでしまう。
思わず右手を伸ばすが、指先から痛みが走り、軟弱なこの身ではそれを起こしてあげることはできなかった。
「そうか……、キミも、覚えているんだね」
右手をゆっくりと戻し、口元を左手で押さえながら、俺はそう言った。
彼女がそうなってしまった理由に、心当たりが一つだけある。
「は、はい? 何のこと……でしょうか?」
目線だけ俺に向ける彼女。
「俺が夢の中で、昔のキミに伝えたことを」
「~~~~~っ!!」
俺の言葉に彼女は口を開きかけ、何も言わずに頭を縦に揺らした。
「そうか……。あの時は、本気でもう駄目だと思ったから、我ながら恥ずかしいことを言ったとは思う。迷惑……だったかな?」
「いえ!」
俺の言葉に彼女は顔を上げて、反論する。
「わたしは、嬉しかったです。雄也先輩があんな風に思っていてくれたなんて、知らなかったから。わたし、思うように魔法が使えなくて、足を引っ張ってばかりで……」
「そんなことはないよ。俺も、多分、九十九も、キミには昔も今も、救われている」
彼女が、彼女だったから……、俺はこの身体を張ることに……、いや、命を懸けることにしたのだ。
それだけの価値が彼女にあるから。
「でも、そうか……。昔のキミが、意識の共有をしているのだから、今の栞ちゃんが、あの時と意識を共有していてもおかしくはない……か」
記憶を封印する以前も以後も、その記憶は融合していなくても、完全に分離されているわけではないということか。
ただ、それが表面に出てきていないだけで、もしかしたら、自分が思っている以上に、彼女たちの距離は、離れていないのかもしれない。
「騙すつもりはなかったけれど、黙っておくつもりでした。あれは、わたしが知らない二人の話ですし。だけど……あの時と似たような顔で、雄也先輩が優しく笑うからつい……、思い出し笑いならぬ、思い出し照れを……」
先ほど自分に張り付いてきた少女は、紅くなった両頬を抑えたまま、そんなことを言ったのだった。
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