失う怖さを知って
俺は、初めて彼女に自分の気持ちを伝えた。
誤魔化そうとすれば、誤魔化せたかもしれない。
だが、今は彼女に対して、そんな不実をしたくはなかった。
「慕う……って、好きってことですか?」
彼女のか細い声が耳に届く。
「そうだね」
「その……恋愛対象的な意味……で?」
改めてそう問われると……、流石に即答はできなかった。
「今、思えば、恋愛感情からくるものとは……、少し違う気がするね」
それははっきりと分かる。
あの頃の自分はそれに気づいていなかったけれど、あの人に抱いていた感情はそんな種類のものではなかった。
もっと原始的な、刷り込みに近いものだったとも思う。
あの人と自分たちとの関係性を思えば、それも当然のことではあるのだろう。
だけど……。
「敬愛とか……。それに近いかな」
思ったより落ち着いて、言葉が出てきた。
それだけ、自分の中では既に答えが出ていたのだろう。
当時のことを思い出せば、羞恥のあまり、穴を掘って葬り去りたいようなこともしでかしてはいたのだが。
「敬愛……」
「うん。俺は人として、あの方を尊敬している。そう言う意味だよ」
「尊敬……」
いきなり衝撃的な話を、何の前置きもなく、思わぬ形で告げられたためか。
彼女も混乱しているのだろう。
俺の言葉を反復していた。
「一つ……良いでしょうか?」
「うん」
「何故!?」
「……娘の意見としては辛辣だね」
予想とは少し違った方向の力強い言葉に、俺は自分が苦笑したことが分かった。
「え? あの母ですよね? いっつも、呑気でふわふわ、のほほんとした言動なのに、突然、痛い所を笑顔で抉ってきたり、日頃は呆けたことばかり言っているのに、絶妙なタイミングで逃げ場のないほどの正論を叩きこんできたりするようなあの母ですよね!?」
その発言はかなり彼女にも当てはまるのだが、当人にその自覚はないらしい。
「そうだね。キミの母上のことだよ」
「雄也先輩なら……、若くて、もっと良い人がいそうなのに……」
「尊敬する人は、年若よりも年上の方が多いと思うけど?」
「あ、そうか……。恋愛とは違うって……」
彼女は唸りながらも考える。
「でも、そう言ってくださるのは、娘としては嬉しくもあり、正直、複雑な気持ちです」
そして、彼女らしく素直な感想を口にした。
でも、頭から完全に否定していない辺り、そこにはちゃんと俺に対する気遣いも見える。
「うん。そう思うのは自然なことだよ」
俺はそう答える。
どちらかと言えば、もっと否定的な言葉が返ってくると思っていた。
その娘である彼女の立場からすれば、軽蔑や侮蔑があってもおかしくはないのだ。
だけど、この少女はそんな娘ではなかった。
「……母は、知っているのですか?」
「何を?」
「雄也先輩が、その……母を慕っているということを……」
「うん。知っている。伝えたことはあるからね」
尤も、その頃は、今ほど穏やかな感情ではなく、かなり子供じみていたと思う。
それでも、そんな俺に対して、あの方は、ちゃんと誠実な言葉を返してくれたのだ。
「……実は、母って悪女だったのか……」
ポツリと呟く娘。
「あの方は悪女ではないよ。俺にとっては……『聖母』に近いかな」
「せ? ……それは持ち上げすぎじゃないですか?」
そんな風に「聖女の卵」は言う。
彼女が「聖女」だというのなら、それを産んだ母親は「聖母」ということに間違ってはいないだろう。
「聖母」とは、「聖人」の母親のことなのだから。
だが、その言葉は飲み込む。
名実はともかく、彼女自身が、それを望んでいないことを知っているから。
「命の恩人だからね。俺にとっては勿論、九十九にとっても」
それも間違いないことだ。
あの方がいなければ、俺も九十九も、今、存在はしていない。
「ああ、そうか……。恩人……。それなら不思議なことではないのか」
彼女の頭が納得したように揺れた。
「つまり、九十九も、母のことを尊敬しているかもしれないのですね」
そう問われて、考える。
今まで考えたこともなかったが、確かに、その可能性は高い。
「……九十九の場合はもっと根深いかもしれない。アイツにとってあの方は、母親も同然、だったからね」
それも……いろいろな意味で。
だからこそ、アイツはミヤドリードだけを「師」と呼ぶ。
俺たちが、この世界で生きていくための根本的な教育をしてくれたのは、ミヤドリードだけではなく、チトセ様も深く関わってくれていたのに。
「ああ、人として……、ではなく『母親』として、慕っている可能性もあるのか。それはそれで、複雑な気持ちになるのはなぜだろう?」
それは自分だけの「母親」と思っていた人が、実は、自分だけのものではないと思うからだろう。
ただ、あの方の血を引いているのは、今現在、彼女だけしかいない。
尤も、この先については分からないが。
「だから……、彼は、あそこまでわたしに過保護なのでしょうか?」
少女はポツリと口にする。
「いや、あれはヤツの性質だと思う」
「やっぱり、性質かぁ……」
彼女が困ったように笑った気がする。
確かに、弟の彼女への構い方は、護衛の範疇を越えることは少なくない。
だが、それは「生来からの世話焼き体質」と、「仕事としての責務」と、「不安定な年頃にある青少年の心理」と、「命の恩人への恩義」と、「拗らせた初恋の思い出」と「生真面目な性格」などが複雑怪奇に絡み合っているためでもある。
だが、何よりも、自分と弟の共通点として……。
「大事なものを失う怖さを嫌というほど知っているからね」
そう口にしていた。
「失う、怖さ?」
彼女は問い返す。
「九十九は、大切なものを失ったことは一度や二度じゃない。幼少期に至る前に、母を亡くし、乳母に当たる人を失い、さらに自分の父の死を看取った」
「……え……?」
少女の肩が微かに震えた。
「さらに、幼馴染は育ての母と共に離れ、ようやく手にした生活を手放し、離れていた場所で師の訃報を受けた。そんな経験を、人間界で言う未就学児の時点でしている」
「改めて、並べると……かなりの経験ですね」
彼女はなんと言葉を続けて良いのか迷っているようだ。
だが、あの弟は失った物を数えて涙するような人間ではなかった。
そんな感傷的な人間に、育てた覚えは俺も師もない。
あの男にとって、何よりも「衝撃的」だったのは、幼馴染に全てを忘れられたことだっただろう。
それまでに手にした全ては、積み重ねてきた思いは、その存在のためだけにあったのに、それらが一瞬で意義を失ったのだ。
だが、行き場を失った執着は……、それでも、そこから留まることも離れることも忘れることもできなかった。
自分を知らない彼女だったが、自分は彼女を知っているのだ。
それでも、我が弟は、あきれるほど単純で前向きで素直な子供だった。
あの時、あの男は、「幸せそうだから、彼女が思い出すまで待とうか」と、あっさり笑いながら言ってのけたのだった。
自分を忘れて笑う彼女を、あの頃の弟がどう思っていたのかは分からない。
だが、期間を「15歳になるまで」と国王陛下に許しを頂き、長く見守り続け、その果てに今がある。
15歳という年齢はこの世界で成人に等しく、一人前の扱いを受ける。
だが、貴族や王族にとってはそれだけではなく、魔力が増大する歳でもあるのだ。
魔界を忘れたまま、ずっと何も知らない人間として生きて欲しくはあったけれど、彼女の中に流れている「王族の血」がそれを許しはしないと判断された。
全てを捨てて作り上げたこれまでの生活も、彼女の誕生日を持って、唐突に終わりを告げる。
あの時、理不尽な襲撃などなくても、あの頃の状況から、それらが時間の問題であったことは想像に難くない。
既にその枷は外れかかっていた。
無関係な犠牲が全く出なかっただけ、マシだっただろう。
己の力を抑えることができない暴風竜は、無力な人間たちの中では生きられなかったのだ。
「そんな人間が、今の居場所を守るためなら何でもするとは思わない?」
ほんの微かな懸念事項も全力で排除する。
僅かな隙も逃さぬように。
―――― これ以上、失いたくないのだから。
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