妹の幸せ
「そうか……、シオリに会ったのか……」
城のとある一室で、青年は自分と面差しの似た少女を見つめる。
「トルク兄さま……」
少女は今にも泣き出しそうな声で、自分の両手を胸の前でぎゅっと握っている。
彼女の手や唇、そして身体は小刻みに震えていた。
まるで、その姿は祈るようにも懺悔をするかのようにも見える。
「私……、あの方、怖いです……」
少女の顔は青白く染まり、その額からは汗が滲んでいた。
それだけで、冗談で口にしている言葉ではないことが分かる。
「特に……、あの、大きくて強い瞳が……、私、あの方を見ることもできなかった」
「メルリ……」
少女の言葉とこの状態だけで、青年にはその意味が分かってしまう。
この少女とて、まだ幼いながらも王族なのだ。
嫌悪や畏怖を感じることはあっても、その人間自体に気圧されることなど今までになかっただろう。
「あの娘を怖いと……、恐ろしいと感じてしまうのは、罪悪感のある善人だという証だ。お前が悪い人間になりきれていない以上、それは仕方のないことだと俺は思う」
「トルク兄さまも……?」
「シオリの瞳はそれなりに怖い。だが……、俺はユーヤの弟の瞳の方が苦手だな。良くも悪くも、二人とも真っ直ぐすぎるってことなのだろうが……」
「ユーヤの……弟……?」
少女はゆっくりと顔を上げる。
「まだ、そっちには会ったことがないのだな。シオリが正しき者の僅かな邪心を暴く瞳なら、ユーヤの弟は悪しき者の微かな良心を揺さぶる瞳。いずれにしても、当人たちにその自覚はない」
例えて言うならば、精霊族が使うような「魔眼」と呼ばれているものに近い。
魔力を帯びた強い瞳に……。
しかし、自覚して魔力を放つモノなら封印もできるのだろうが、無自覚の上、生来持つモノはもはや、体質の一つであり、その効力に関して封印することなどできないだろう。
「ああ、でも……、救いは当人たちが気付いていない事だな。意識させてしまうと、その効力は増してしまう恐れもある。それに……、今度は自分たちが罪悪感にとらわれるだろう」
「何故?」
少女は兄の言うことが分からない。
意識して使うことができれば、かなりの武器になるだろう。
それなのに、罪悪感に囚われるとは一体……?
「単純な話だ。二人とも聖者でも悪人でもない、ただの普通の人間。それが、無意識とはいえ他人に少なからず影響を与えてしまっていることなど望むはずもない。ましてや、それにより苦しむ人間がいるとなると……」
「本当に……、相手に対して……、害を与えたいわけではないのですね……。それでも……」
気がつくと、少女の震えは止まっていた。
そして……。
「私はやはり、あの方は苦手です」
王族らしい強い眼差しで、少女は自分の兄を見ながらきっぱりと素直な感想を口にした。
「苦手なら良い……。だが、どんな人間でも余程の理由がない限り、彼女たちを嫌うことは難しいだろうな」
正しき者の僅かな邪心を暴き出す瞳や、悪しき者の微かな良心を揺さぶる瞳とはつまり、全ての人間に迷いを与える瞳でもある。
それは、善人も悪人も多少の差はあっても、ただの人間に過ぎないと言うことを証明しているだけで、そこに彼女たちの意思は一切の介入もないのだ。
つまり、ただ真実を映す鏡と大差がないのである。
そして、その強い瞳を持つことを除けば、あの少女も、それに付き従う少年も、万人に嫌われるタイプの人間ではなかった。
尤も……、それは一部の人間からは激しい憎悪の対象となりうる可能性も否定できないのだが。
「あの方は……、ウィル兄さまに、お会いになられたことは?」
「まだないはずだ」
「そう……、ですか……」
この国の第一王子「ウィルクス=イアナ=カルセオラリア」は、この青年と違い、あまり城内を歩かない。
だから、普通にしていれば、出会うことはないはずである。
誰かが意図的に引き合わせる……とか、第一王子自らが彼女たちに興味を持って、近付くような出来事がない限り。
「会わせない方が良いと、俺は思っている。兄上は、ずっとあの予言を気にしているからな」
それは、彼らが生まれる少し前。
不意に城に現れた「盲いた占術師」によって、もたらされた言葉がある。
光のない瞳を持つ女性は、感情の籠っていない声でこう告げたと言う。
『城崩れんとするとき、一陣の風が神の国へと導かん』
勿論、占術師という職種に就いている人間が、予言を外すことは稀にある。
だが……、この高名な占術師に限って言うならば、これまでに外したことはただの一度もないらしい。
問題は、それがいつ起きる出来事なのか……。
誰にも分からないのだ。
「この城は頑強だから、簡単に崩れることはないだろう。だが……、実は、『城』というのが、何かを例えている可能性もある。難しい所だな」
「兄さま……」
少女は心配そうな眼差しを兄に向ける。
「大丈夫だ、メルリ。俺はお前だけは守るから」
そう言って、優しく肩を抱く。
「それは嬉しいのですが……、トルク兄さまには……、ウィル兄さまのように大事な人はいないのですか?」
「いないな……」
青年はどこか遠い目をしてそう言った。
「ユーヤは……、いるのでしょうか?」
「……ユーヤ?」
彼の妹は、何故かここにいない人間の名前を出した。
「い、いえ! 別に! 特に深い意味などないのです! でも! あの方! 素敵ですし!! セントポーリア城でも、とてもよくしてくださって!!」
「め、メルリ……?」
いつもは言葉が少ない妹の突然の変貌に、青年は驚くしかなかった。
こんな激しい一面もあったのかと……。
「ユーヤだけは止めとけ……」
「何故です?」
「兄として、忠告する」
「そんな感情じゃない……のです」
そう言ったきり、少女は俯いて黙り込んだ。
兄としては妹の幸せを願いたい。
だから……、できれば、面倒なことに巻き込まれずに、ただ自分が幸せになれる相手を選んで欲しいと思う。
あの友人は決して悪い男ではない。
だが……、あの男が一人の誰かを幸せにできるかと問われたら……、黙って首を振らざるをえないのだ。
「あのユーヤが……、女性を連れているのを、初めて、見ました」
少女は一月前まで、セントポーリアにいた。
だから……、今の彼を知らないのだろう。
……いや?
セントポーリアにいて、逆に何故知らないのか? と疑問もある。
あの顔だ。
王子の供で、この国へ来たのは数回だが、そのたびに女は騒ぐし、男たちのやっかみの声はあった。
彼の国では、尚更、その声は大きかったことも知っている。
彼はとにかく、人目を引きつけてしまうのだ。
「ユーヤは……、あのような幼い少女が好きなのでしょうか?」
いやいや?
お前の方が見た目も実年齢も幼いからな? と言いたい衝動をこらえる。
あの「シオリ」という少女は、確かに年相応の外見はしていないが、だからと言って中身に関してはそこまで幼くもない。
特にカズトやツクモとの会話の内容は、時々驚かされることもあるぐらいだ。
「ユーヤは……、年上好みのはずだが……」
いろいろと混乱してきた頭で、なんとか捻り出せたのはこれぐらいだった。
「そうなのですか? では……、やはり私では……」
しゅんとなる妹。
できれば、このまま、一過性のものであって欲しいと願う青年。
何故なら、彼女には……。
「でも、勝手に、憧れるぐらいならば、……かまいませんよね?」
「あ、ああ」
いつになく、力強い言葉を向ける妹の迫力に、青年は思わずそう返事するしかなかった。
「せ、セントポーリアに行っている間に随分、強くなったものだな……、メルリ」
「そ……そんなことは……ありません。あの国は……、少し……、怖い方が多くて……」
戸惑いながら、言葉を選ぶ妹。
だが、先ほどの様子を見た後では、なんとも言えない気持ちになる。
「私が変わったとしたら、あの方のおかげ……かもしれません。セントポーリアでも、かなり助けられましたから……。お別れする時は寂しくて……、思わず泣いてしまいました」
そう言いながら、少し、頬を染める少女。
その助けてくれたという人物は、時期的に、自分の友人ではないだろう。
いろいろ問題も耳にするが、他国の王女を放置するほど、セントポーリアという国が、外交下手でもないだけである。
三年ほど前の外交担当者は本当に酷いものだったのだ。
だから、その代わった人間が幾分、マシなだけだろう。
そして、この様子だと、友人への気持ちもやはり一過性のものか錯覚だと思えてくる。
年上に憧れる年代なのだろう。
そう思い込むことにした。
「本当に優しい女性だったんです」
妹の言葉に安心を覚えながら。
もし、彼がここで、妹を手助けしていたその人物の名を聞いていたら……、天地がひっくり返るほど驚くことになるとは知らないままに。
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