取り扱いにご注意を
敵対する相手から目を逸らさずにいたが、それでも自分に隙があったことだけは、素直に認めよう。
だが、男が男の唇を舐めるなんて普通、思わねえ!!
唇を合わせるのとは違う独特で湿り気のある感覚。
ある意味、体温も伝わってきただけタチも悪い。
「口直しがしてえ……」
だから、そう言いたくなるのもオレにとっては、自然なことだった。
こう……、癒されたいというか……、別の感覚で上書きしたくなったのだ。
料理を食う時に、それまでの気分を変えるために、甘い物の後に、辛い物を……と言うように、その味覚を変化させたくなるようなものだろう。
「口直しって聞こえた気がするのだけど?」
オレの独り言が聞こえたのか。高田が反応した。
「感覚が消えねえんだよ。だったら、別の感覚を上書きしたくなるだろ?」
「ごめん、よく分からない」
彼女は困ったような顔を見せる。
確かにこの感覚は味わったものじゃなければ分からないだろう。
「苦い薬を飲んだ時のように和菓子でも食べる?」
高田はその桜色の唇を動かして、尋ねる。
どうも、少し意識しているな、オレ。
「どっかに絶世の美女でもいねえかな……」
だから、思考を少し、彼女からずらした。
だが、それはあまり良くなかったらしい。
「そう都合良くいないと思うよ。」
「だよな」
本気で何かを期待していたわけではないが、オレは溜息を吐く。
仮に、そんな人間がタイミングよくここにいたとしても、協力してくれるかは別の問題だからな。
「九十九、緑色の袋を取り出せる? わたしの荷物」
不意に、彼女はそんなことを言った。
「今か? ……出せるけど、どうした?」
「出して」
彼女にしては拙速な要求。
こんなことは少し珍しい。
「お、おお」
そう言いながら、彼女の荷物を一つ取り出す。
それは「応急処置セット」と高田は呼んでいる薄緑色の袋だった。
この世界に来てから彼女の荷物は、随分増えた。
いや、一般的な女子としてはそれでもかなり少ないとは思っている。
水尾さんの荷物の方が、絶対に多いだろう。
彼女は自分で収納や召喚ができないために、オレにも分かりやすいように袋を色で分けるようになった。
確かに「着替え」を単体で取り出すよりも、彼女が選べた方が良い。
それに、「下着」を取り出せとか言われても困るからな。
……言われたことはなかったけれど。
だが、問題はその袋から出した小瓶だった。
「おい?」
思わずオレは彼女の意思を確認する。
「消毒はこれだったよね?」
そう言いながら、彼女は渋くて深い橙色の液体が入った小瓶を一つ取りだして、オレに突きつけるように見せた。
「ちょっと待て?」
その小瓶は確かに消毒の役目をするが、どちらかと言えば、劇薬の一種だ。
「口直し……、必要なんだよね?」
そう言いながら微笑む彼女の瞳にはどこか危険な色があった。
「た、高田? なんか……眼が据わってないか? しかもそれ……、『刺激が強い薬草』から抽出した薬液じゃないか?」
「気のせいでしょう?」
そう言いながら、思いっきり振りだした。
「ちょっ!? そんなに振ったら……」
その行動の意味を理解して、オレは慌ててしまう。
彼女が握っている小瓶に入った消毒液は、殺菌効果が高いものだった。
そのため、創傷部などの消毒によく使っている。
但し、刺激がかなり強く、患部に直接振りかけられると焼け爛れるような痛みを生じるという問題があった。
さらに発泡性もあり、振ることで、多少の容器なら破壊してしまうという、かなり取り扱いに気を付けなければいけないものだ。
「これをぶっかけてあげよう。嫌なことも忘れられるように」
高田はそんなことを言いだした。
「ちょっと待てええええええっ! 消毒液を脅しに使うヤツがいるかああっ!!」
「因みに、この使用方法はストレリチアの王女殿下から聞きました」
さらに笑顔で余計な情報を付け加える。
「『笹さんなら当然、この薬の効果も知っているでしょう? 』とも言っていたよ」
「本当に碌なこと言わねえ!! お前もあの女の言うことをいちいち真面目に聞くな!」
本当に仲が良いな、こいつら。
「九十九は意識してないだろうけど、わたしは異性なの。女の子なの。だから、冗談でも揶揄われたら腹も立つのよ」
高田は笑顔のまま、そんなことを言いだした。
「お前を揶揄ったつもりなんかねえよ」
本当にオレにそんな意図はなかったのに。
「単純に、唇に残った感覚が嫌だからなんとかしたかっただけだ」
「思うだけなら良いけど、何故、それをわたしの前で口にする?」
「願望の込められた言葉にまで突っ込むなよ」
言うだけなら無料だ。
本気でそう言っていたわけじゃない。
「大体、オレがお前に『口直ししてくれ』って言ったら叶うのか?」
「……叶わないね」
オレの言葉に、少しだけ考え、彼女はそう結論付けた。
「だろ? オレもそれだけは望まない」
それだけは望むことがない。
「だから、消毒液で手っ取り早く、感覚の上書きをしませんか?」
高田はさらに手に持っている消毒液を振る。
その迷いのない振りにオレはあることに気付いた。
「それ以上振るなよ。瓶に収まっていても、そろそろ破裂するぞ」
オレの言葉で彼女はようやく、その手を止める。
やっぱりその辺りまでは聞かされていなかったらしい。
「破裂……するの?」
恐る恐る尋ねてくるその姿は先ほどとは違い、どこか小動物のように見える。
「するなあ、それがオレの知っている液体なら」
そう言いながら、オレは高田の手から小瓶を手渡される。
念のため、城壁の下を確認しておく。
この下はよく見えないが、人の気配はないように思える。
まあ、仮に姿と気配を消している人間がいたとしても、最低限の確認はしたのだ。
責められることはないだろう。
そして、オレがその消毒液の蓋を飛ばすと、中からどんな収納技術で圧し込まれていたから分からないほどの量の瓶から液体が溢れ出て、弧を描きながら城壁の下に落下した。
「薬は、魔界とか人間界とか関係なく、本当に取り扱いには気を付けろ。一般的に知られているものだけじゃない効果があったりもするからな」
その状態と言葉を見て、彼女の顔が色を失ったのが分かる。
魔界の薬は独特な効果が出るものが多いから、ある程度は仕方ないが……、彼女に変な入れ知恵をしたあの王女殿下には是非、大神官を通して説教をする必要があるな。
「痛っ!」
どうやら、消毒液が少し、手にかかっていたらしい。
火傷をしたような鋭い痛みが走って、思わず声を出してしまった。
「沁みる」
想像以上の激痛だった。
炎の魔法をまともに食らえばこんな感覚だろうか?
かなりの痛みを感じた気がしたが、これは怪我とは違うため、治癒魔法では効果がないだろう。
消毒液も侮れないなと思いつつ、オレは洗浄魔法を使用する。
「えっと……、ごめん」
高田は素直に謝ってきた。
「今回の場合、悪いのはお前じゃなくて、半端な知識を授けたあの王女殿下だ」
そもそも消毒薬は脅しに使うものじゃないのだ。
素人の生兵法は大怪我の基という言葉をきっちり覚えておいて欲しいものである。
いや、オレも玄人というわけではないのだが。
「だが、本当に気を付けろ。オレや兄貴じゃなければ笑えん事態になる」
高田がしたことなら、兄貴は笑って許すだろう。
オレだって、これぐらいのことで怒るほど心が狭いわけではない。
知らなかったなら覚えれば良いだけの話だ。
「いや、十分、笑えない事態になったのだけど」
「もとはと言えば、お前に阿呆なことを言ったオレも悪い。確かに……、少し無神経な発言ではあった」
確かに「口直し」って言葉はよくなかったかもしれない。
特に、彼女は異性に慣れていないのだ。
軽口でも本気で受け止めてしまう可能性があることを、オレももう少しは頭に入れておくべきだった。
なんとなく、右手で唇を押さえる。
……ん? ちょっと待て?
この手って……さっき確か……?
深く考えそうになって、思わず彼女から目を逸らす。
だが、右手を口から離すのは、何故か少しだけ躊躇われた。
とっくにその時の感触など残ってはいないけど……、それでも、その事実が消えるわけではないのだ。
気付かれなければ、良い。
彼女に気付かれなければ、何も問題にはならない……と、そう願いながら。
オレはなんとか思考を戻す。
いや、戻さない方が良かったかもしれない。
またあの嫌な感触を思い出したから。
右手に触れた彼女の唇の感触は思い出せないのに、何故、ヤツの感覚は、オレの中に残っているのだろうか?
「それに消毒液は確かに感覚を一瞬だけ忘れさせたが……、どうもあのねっとり感は簡単に消えないみたいだ」
確実に相手に対して不快感を与え続けることに成功している。
男を舐めるか、男に舐められるかの二択なら、確かに舐める方がダメージも少なそうだ。
「それは、凄い」
「あ~、マジで口直しを考えないとな……」
オレがそんなことを言った時だった。
「私でも良いなら、『口直し』してあげようか? 絶世の美女じゃなくて悪いけど」
そんな台詞が、聞こえてきた。
その声に覚えはあるが、オレが知る限りでは、そんなことを言う人ではなかったはずだ。
オレが首を捻っていると……、高田が反応した。
「真央先輩?」
……そっちかよ!?
オレはてっきり、水尾さんの方だと思っていた。
双子って……、顔だけじゃなく、声も似るんだな。
そして、この手の冗談を言う人なのか。
オレは、それが少し意外に思えたのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




