上書きしたいだけ
わたしの背後から聞こえた呪いのような呟き。
九十九は同性から唇を舐められたため、その「口直しをしたい」と言ったように聞こえた気がした。
わたしもその言葉の意味が分からないわけじゃない。
だけど……、何も聞こえなかったことにして良いかな?
……駄目ですかね?
「口直しって聞こえた気がするのだけど?」
「さっきの感覚が消えねえんだよ。だったら、別の感覚で上書きしたくなるだろ?」
「ごめん、よく分からない」
そんな飲み物や食べ物のような感覚で、軽く言われても困る。
「苦い薬を飲んだ時のように和菓子でも食べる?」
「どっかに絶世の美女でもいねえかな」
わたしの言葉を無視して、彼は自分の要望を素直に口にした。
「そう都合良くいないと思うよ」
どうやら彼の言う「口直し」という言葉は、半分くらい冗談だったようだ。
すみませんね、傍にいたのは絶世の美女じゃなくて!
「だよな……」
九十九は溜息を吐く。
わたしも溜息を吐きたかった。
でも、もし、この場で九十九に本気で口直しとして望まれていたならば、わたしはどうしていただろう?
いや、考えるまでもなく、そんなの無理だよね。
九十九はわたしを好きってわけでもないし、わたしの方もそこまで九十九を好きでもないのだ。
だが……、単純に腹は立つ。
この場にいたわたしではなく、どこに居るかも分からないような架空の人間に抱く奇妙な敗北感?
「九十九、緑色の袋を取り出せる? わたしの荷物」
「今か? ……出せるけど、どうした?」
「出して」
わたしは九十九に、自分の荷物を取り出すようにお願いした。
いや、これはお願いと言うより、命令に近いかもしれない。
単に「命令」という言葉を使わないだけだ。
「お、おお」
そう言って、九十九はわたしの荷物を取り出す。
九十九の手には若葉色の袋が握られていた。
わたしの荷物は、九十九にも分かりやすいように袋を色で分けていた。
これなら彼に細かく指定しなくても良いからだ。
この世界に来て、二年以上経った。
生活を続ければそれに比例するかのように私物も増えていく。
自分で取り出せないから仕方がないのだけど、彼にお願いしにくい物も増えてきた。
だから、ストレリチアから出ると決めた時にそうしたのだ。
さて、この若葉色の袋に入っているのは、怪我をした時の処置に使うものである。
この世界には治癒魔法と言うものが存在するが、使用前には十分、注意が必要で、傷口の洗浄などはした方が良いのだ。
傷を癒すための「治癒魔法」のほとんどは、当事者がもともと持っている自己治癒能力を促進させるものであるため、傷口に土や石が入り込んでしまった状態で使うと、非常に面倒なことになる。
「……おい?」
「消毒はこれだったよね?」
そう言いながら、わたしは渋くて深い橙色の液体が入った小瓶を一つ取り出す。
「……ちょっと待て?」
「口直し……必要なんだよね?」
「た、高田? なんか……眼が据わってないか? しかもそれ……、『刺激が強い薬草』から抽出した薬液じゃないか?」
「気のせいでしょう?」
そう言いながら、思いっきり振る。
「ちょっ!? そんなに振ったら……」
九十九が慌てるのも無理はない。
この小瓶に入った消毒液は、殺菌効果が高く創傷部の消毒によく使われるものである。
但し、刺激は強く、患部にはガーゼなどに浸して、軽く塗布するものだ。
人間界で言う、消毒用エタノールが効果としては近いかな。
エタノールと違う点は、振ることにより、その刺激は強くなるが、殺菌効果は何故か落ちてしまうという嫌がらせに特化したような液体となるので、取り扱いには注意する必要がある。
そして、エタノールと同じ点は、口唇などの粘膜部分には使ってはいけないところだろうか?
「これをぶっかけてあげよう。嫌なことも忘れられるように」
「ちょっと待てええええええっ! 消毒液を脅しに使うヤツがいるかああっ!!」
ここにいるのだから、仕方ない。
「因みに、この使用方法はストレリチアの王女殿下から聞きました」
わたしはにっこり笑ってそう言った。
「『笹さんなら当然、この薬の効果も知っているでしょう? 』とも言っていたよ」
「本当に碌なこと言わねえ!! お前もあの女の言うことをいちいち真面目に聞くな!」
そんなことを言われても、わたしはそれだけ腹が立ったのだ。
苦情など受け付けぬ。
ワカは九十九の無神経な言動に腹が立ったら、たまには「刺激」をしてやれと言っていた。
彼にはちゃんと言わなければわたしがどれだけ傷付いているかが分からないから、とも言っていた。
先ほどの言葉で、傷ついたつもりはないが、言わなければ腹が立っていることも気付かないかもしれないとは、確かに今まで何度も思ったことはある。
「九十九は意識してないだろうけど、わたしは異性なの。女の子なの。だから、冗談でも揶揄われたら腹も立つのよ」
「お前を揶揄ったつもりなんかねえよ。単純に、唇に残った感覚が嫌だからなんとかしたかっただけだ」
「思うだけなら良いけど、何故、それをわたしの前で口にする?」
「願望の込められた言葉にまで突っ込むなよ」
九十九は大袈裟に溜息を吐く。
何だろう?
わたしが、悪いとでも言うのか? この男は。
「大体、オレがお前に『口直ししてくれ』って言ったら叶うのか?」
「……叶わないね」
少なくとも、こんな形ではしたくないとは思う。
「だろ? オレもそれだけは望まない」
……そうですか。
わたしは対象外ということですね。
いや、良いのですけど。
別に気にしていませんけど?
実際、望まれても本当に困ることは確かなのだ。
「だから、消毒液で手っ取り早く、感覚の上書きをしませんか?」
わたしはさらに手に持っている消毒液を振る。
「……それ以上振るなよ。瓶に収まっていても、そろそろ破裂するぞ」
九十九の不穏な言葉でわたしは一時停止する。
「破裂……するの?」
「するなあ、それがオレの知っている液体なら」
そう言いながら、九十九はわたしの手から小瓶を救い出すと……、城壁の下を確認した後、しゅぽんっと飛ばした。
独特の音を出し、炭酸飲料……いや、テレビで見たことがあるお祝いのお酒のような勢いで、液体が飛び出していく。
暗くなっているため、その色はよく見えないけど、光っていることだけは分かった。
あれが手元で破裂したらどうなっていたのだろうか?
瓶に入っていても破裂ってそう言うことだよね?
「薬は、魔界とか人間界とか関係なく、本当に取り扱いには気を付けろ。一般的に知られているものだけじゃない効果があったりもするからな」
真面目な顔でそう言う九十九は、先ほどまで阿呆なことを言っていた人と同じ人物とは思えなかった。
「痛っ!」
九十九の手から噴射された小瓶の液体は完全になくなったようだが、九十九は自分の口がどうも気になるようで、うっかり触れてしまった。
彼の手にはしっかり、先程の液体が付着していたようで、彼が少し涙目になっている。
「沁みる……」
そう言いながら、自分の手を見つめ、洗浄魔法を使う九十九。
自分が望んだこととはいえ、流石に罪悪感があった。
「えっと……、ごめん」
「今回の場合、悪いのはお前じゃなくて、半端な知識を授けたあの王女殿下だ」
ここにいないワカに罪が被せられた。
「だが、本当に気を付けろ。オレや兄貴じゃなければ笑えん事態になる」
「いや、十分、笑えない事態になったのだけど……」
「もとはと言えば、お前に阿呆なことを言ったオレも悪い。確かに……、少し無神経な発言ではあった」
九十九は小瓶を収納した後、右手で唇を押さえ、目を逸らしながらそう言った。
そこまで殊勝な態度に出られると……、わたしが一人で馬鹿をやっていただけのような気になってしまう。
いや、実際、そうなのだけど。
「それに消毒液は確かに感覚を一瞬だけ忘れさせたが……、どうもあのねっとり感は簡単に消えないみたいだ」
そう言いながら、九十九はまた唇を擦る。
「……それは、凄い」
自分には経験がないからよく分からないけど、それだけ唇が敏感な所なのか?
それとも、舌で舐められるのはそれだけの感覚なのか?
「あ~、マジで口直しを考えないとな……」
本当に辛いらしい。
不快そうな表情のまま、彼の手はまだ止まらない。
先ほどの行動の手前、九十九になんと声をかけて良いか分からずに迷っていると……。
「私でも良いなら、『口直し』してあげようか? 絶世の美女じゃなくて悪いけど」
そんな言葉がわたしと九十九の耳に届いたのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




