傷の治療
―――― ズキン
全身を駆け抜けるような激しい痛みで意識が覚醒した。
重く何かがのしかかっているような奇妙な身体の感覚。
手足の指先がびりびりと痺れ、麻痺しているようだ。
少しずつ目を開くとうっすらと、空と木々から漏れる木漏れ日が見える。
「参ったな……」
自分らしくもない。
あのまま放っておけば良かったのに……。
でも、それが出来るほど、自分はまだ非情になりきれなかったようだ。
黒い柔らかな髪の少女が、自分の上で目を閉じている。
規則正しく動く肩と、服の上からでも伝わる温もりが、お互い生きているということを感じさせた。
あの時、彼女は文字通り、崖から転がり落ちた。
見ていて我が目を疑うような、なんて間抜けな光景を見たと思う。
普通の魔界人ではありえないような失態。
だが、それをこともあろうか自分は身体を張って助けてしまったのだ。
「ん……?」
彼女がぼんやりと目を覚ます。
そして……。
「うぎゃあっ!?」
俺の上でなんとも、色気のない悲鳴をあげ、俺の上から素早く飛び起きようとしやがった。
間違いなく、俺の方が叫びたい。
「動くな! 傷に障る」
「へ……?」
俺が黒い服を着ているせいだろう……。
こいつには、服の血の滲みとかが分かっていなかったみたいだ。
いや、分かっていたとしても同じような反応をしていたとは思うのだが……。
彼女……、シオリは俺の反応を窺うようにゆっくりと身体を起こし、俺から離れた。
そうして、息を大きく吸い込み、吐き出すと俺を真っ直ぐ見つめる。
「どうして?」
「何のことだ?」
相手の聞きたいことは分かっていたが、反応を見たかった。
「あの高さから落ちるのはわたしだけだったでしょ。なんで、貴方が……?」
「簡単なことだ。お前を簡単に逃がすわけにはいかなかった。それ以上の理由はない」
「そんな傷を負ってまで?」
「無論だ」
俺は迷いも無くそう答えた。
この女には俺が身体を張るだけの価値があるのだから。
尤も、当人にその意識は皆無のようだが。
「ちょっと、ごめんね」
そう言うと、シオリは俺の衣服に手をかけた。
「は?」
俺はその行動の意味がよく分からなかった。
シオリは、俺の身体を動かさないよう気遣いながらも器用に衣服を剥いでいく。
「なかなか見かけによらず積極的だな」
「今は、あんまり喋らない方が良いと思うよ」
やがて、シオリはその手を止めた。
「ナイフかなんかない?」
「……生憎、エモノはなくてもお前を捕らえられると思っていたからな。そういったものは持ってきていない」
「……物質召喚も無理そうだね。この傷じゃ、貴方も集中できないだろうし」
手を口に当てながらも、彼女は俺の身体を見ていた。
「痛むよ」
そう言うと、服を掴み、力尽くで引っぺがす。
「いて~~~~~~~~っ!!」
その激痛に耐えかねて、俺は情けない声をあげてしまった。
「我慢して!!」
そして、そんな無茶を言う。
どうやら、衣服に傷の部分が張り付いていたようだ。
思ったより深手を負っていたのかも知れない。
情けない話だ。
まあ、昔、崖から落ちて木の枝が数本貫通したこともある。
それに比べれば、多少の打撲と単なる裂傷だけで済んだのは幸いだと言えなくもない。
「消毒……、せめて、水があれば良いのだけど……」
そう言って、周りを見渡す。
しかし、俺の視界に入るのは草や樹以外のものはない。
あの時……、崖から落ちた瞬間に、コイツの手を引っ張り、夢中で瞬間転移をするのが俺の精一杯の行動だった。
まあ、その結果として、やはり高いところから落ちたようだが……。
「お前は?」
「え?」
「怪我とかしてないか?」
「うん。あなたに助けられたみたいだね。ありがとう」
彼女はあちこちに傷を作っていたが、それでも痛みをこらえている様子はなかった。
そのことに少しホッとする。
「俺の利のためだ。礼を言われるのは筋じゃない……」
「利のために……、ここまでするの?」
「当然だ」
「……わたしには、分からないよ」
俺にだって分からない。
考えるより先に身体が動いてしまっただけ。
先ほど言ったような「利」とか「価値」などという理由は、後からとって付けたようなものだ。
「細かな傷はともかく……、このお腹の傷はちょっと……」
「腹か……」
止まりかけていた血が、先程の衣服を無理矢理引っぺがしたために、再び、血が流れ出したらしい。
熱く痺れるような感覚が先程から全身を支配しているため、具体的な負傷部が分からなくなってしまっているようだ。
「臓器とか、骨の方には異常がなさそうだ。呼吸は少し荒くはなっているが、表面上の痛みしか感知できない」
それも、感覚が麻痺していなければの話だが。
「確かに吹き出る血はそこまでドバドバじゃないみたいだけど……、この中身は分からないでしょ」
「出血量が本当に少なければ、魔界人なら舐めときゃ治る」
「唾液って……、実は細菌に塗れているから、怪我をした時に舐めない方が良いって聞いたことがあるけど……」
「唾液は体内から分泌されているため、多少の体内魔気が含まれている。人間界の常識と並べて考えるな」
「ホントに?」
「ああ」
それも気休め程度にしかならないだろう。
それに、負傷個所は腹。
人間が軟体動物にでも進化しない限り、自力で舐めることなど不可能だ。
だが……。
「あ?」
―――― ゾクリとした。
熱かった傷口が、みるみる冷えていくような不思議な感覚。
そして同時に、俺を襲う奇妙な感触。
生温かく、湿り気のある軟らかなソレは、俺の身体の上を這いずるような動きをした。
ソレが動くたびに言いようのない感情に襲われる。
不快感ではない。
これは寧ろ、快楽という言葉が相応しい。
「し、シオ……っ!?」
その感覚が強い部分に、顔を向けた。
そこには、想像通り彼女の姿はあったのだが……、その行動は予想の範疇を遙かに超えていた。
この感覚と、この光景に抗うことも出来ない。
俺は、無抵抗のまま、彼女の行為を大人しく受け入れるしかなかった。
そうして……、快楽という名の地獄をどれほど通り過ぎただろうか……?
彼女がようやく俺の上から、離れてくれた。
「ふぅっ……」
思わず、俺は安堵の息を漏らしていた。
「うわぁ……。凄いね。ホントに治っていくよ」
そんな暢気な声が、どこか遠くから聞こえている気がする。
俺は、夢か現実か分からないような状態にあった。
その代わりに、身体だけがやたら妙に熱いのは分かる。
「おい、こら」
「へ?」
「お前……、何した?」
「……あなたに言われたとおりのことだけど?」
ああ、確かにこの女は素直に俺から言われたとおりのことをしただけだ。
だが……。
「阿呆か!」
「何で?」
「いきなり傷口を舐めるな!!」
「舐めれば治るって言ったじゃないか。だから、舐めただけだよ」
「ば、ば……、馬鹿か!? あれは、言葉のあやってやつだ。本気にするな!!」
「え?! そうだったの?」
どうやら、俺の言ったことをホントに真に受けていたらしい。
素直というか阿呆と言おうか……。
いや、嘘は言っていない。
唾液などを含む体液には体内魔気が含まれているために多少の治癒効果はあるというのは本当のことだ。
その体内魔気が強ければ強いほど、その効果は高くなる。
「でも、不思議と出血は止まったみたいだよ?」
そう言われて、俺は……、身体を起こせる程度に治癒されていることに気付いた。
「マジかよ……」
確かに、腹から腰にかけて広い範囲で傷が出来ているのがはっきりと分かる。
そして、その血は間違いなく固まっていた。
ただ……、油断すれば血が吹き出そうなほどの状態のようだ。
だが、単純な唾液の効果だけでこんな短時間でここまで治るとは思えない。
「結果オーライ?」
そう言いながら、彼女はにこりと笑う。
「……そう言うことだが……」
そこで……、俺はある可能性に気付いたのだった。
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