【第28章― 獅子搏兎 ―】鬼ごっこ
この話から第28章となります。
「はあ……っ、はあっ!」
わたしは、一人、宛もなく見知らぬ深い森の中を走っていた。
今は何も考えずひたすら走り続けるしかなかったのだ。
余計なことを考えている暇があれば、足を動かし続けるしかない。
あの人に捕まりたくないのなら。
疾うに息も上がり、心臓が今にも破裂しそうな状態。
喉は痛いし、心臓はあり得ないぐらいに動いている。
魔力の封印が解放されてから、こんなにも長い時間、ずっと走り続けたのは初めてだったと思う。
いや、人間界でも、せいぜい、距離にして3キロ。
時間にして十数分くらいしか連続して走ったことはないのだから、下手すれば、生まれて初めてのことかもしれないが、この際、そんなことは重要じゃなかった。
今のわたしの体力、筋力、持久力のどれをとっても、人間界にいた時よりは大幅に向上している。
だけど……、それでも無限ではないことは分かっていた。
わたしは魔法が使えないのだ。
人間界の同年代の少女以上ではあっても、一般的な魔界人としてはかなり下だと考えた方が良いと思っている。
確かに魔気を使って、魔法を防御するということだけはそこそこできるようになったが、言い換えるとそれしかできない。
魔法を使われず、物理攻撃に対抗することは意識してできることではなかった。
だけど問題はそんなことではない。
わたしの中の不安をより大きくしてしまったのは、いつも側にいてくれている人たちが誰もいなくなってしまったことだった。
この広い場所でたった一人。
たったそれだけのことで、決して強くはない自分は何度も心が折れそうになってしまう。
なんて弱いのだろう。
これまでの経験で少しは強くなったつもりだったけれど、周囲の助けを借りなければ虚勢を張ることもできないなんて、本当に情けない話だった。
だけど、今は足を止めて振り返ることも出来ない。何もできない非力なわたしが、今、出来ることは走り続けてこの状況からなんとか抜け出るための努力をすることだけなのだから。
確かに法力国家ストレリチアでは「聖女の卵」なんて不相応なほど大層な肩書をいただいたが、それは、自分の功績でも何でもないことをわたしは知っている。
大神官である恭哉兄ちゃんの助けがなければ、神様の降臨なんてあんな奇跡を起こせはしないのだ。
そして、魔界の王さまの血を引いていても、それを生かすこともできていない。
そんな才能も何もない自分の中から、努力や根性といった精神を抜けば、一体、何が残ると言うのだろうか。
「あっ!?」
長い時間、走り続けたせいか、足が縺れて、転んでしまった。
いや、この場所が走るのに適していないということもある。
どんな狩人生活を送れば、人の手が入っていないような森の中を、木の根や草に躓かずに走れると言うのだろうか。
「いたたた……」
反射的に、痛んだ膝をさする。
「うげ……」
しかし、うっかり、触らなきゃ良かった……。
でろりとした粘つく液体のヤな感触がする。
見なくても、それが何かってことは分かってしまったのだけど、つい見てしまった。
怖いもの見たさというものだろう。
そんな好奇心に負けたわたしの掌には、紅い血液がべっとりと付いている。
思ったより勢いよく転んでしまったようだ。
「くっ……」
それでも、このまま転がっているわけにもいかない。
幸い、血は一筋ばかり膝から流れているが、見た目ほどの痛みはない。
再び走ることは可能だろう。
後は、傷口からばい菌が入らないように祈るだけだ。
血止めの薬草や傷口を洗い流すための水など、都合よくこの場にはないのだから。
そして、いつも近くにいる治癒魔法と呼ばれる魔法を使える護衛の姿もない。
今更ながら、自分がどんなに彼に頼っていたか理解してしまう。
だけど……、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
周囲に人がいないなら、人がいるところまでは走らなければ!
わたしは、気合を入れなおす。
だが……、そこで…………。
「ようやく、鬼ごっこを止める気になったか?」
背後から、そんな言葉が聞こえてきた。
先ほどからわたしを追ってくる声。
そこには何の感情も込められていない。
その声は、「鬼ごっこ」とどこか懐かしさを覚えるような単語を使っているが、実際、そんなに甘く優しい言葉ではなかった。
わたしは全力で逃げ、相手はそれを戯れのように追いかけるという違いがある時点で、両者の考え方も立場も全てが違い討過ぎるのだ。
「止めるなら、観念したのだな」
わたしはこの声をよく覚えている。
いや、一度も忘れてはいなかった。
記憶よりは随分、低くなっていたけれど、その声質が変わっていたわけではないから。
そして、今、この背後にいるのはこの懐かしい声の主だけじゃないことも知っている。
「結構、長い時間逃げたな……。今も魔法が使えない身としては上出来だ」
その声が近付く気配がする。
わたしはそれを確かめることが怖かった。
既に足が止まっているが、それを認めたらもう完全に走ることができなくなってしまいそうで。
手足はガタガタと震え、声を出すこともできない。
そこにあるのは間違いなく恐怖の感情だろう。
だけど……、思い切って、振り返る。
―――― そこには想像した通り、黒い服を身に纏った紅い髪の青年がいた。
彼と最後に会ったのは一年以上も前の話。
そのためか、彼も随分、変化しているように見えた。
声も低くなっていたのだけど、身長も少し伸びて、その表情からは、あどけなさを感じない。
そして、彼と同じように黒い服を身に纏った人たちが20人ぐらいでわたしを取り囲むように立っていた。
姿が見えるだけでそれだけいるのだ。
威嚇の意味もあるのだろうが、この場に姿を見せていない人もいることだろう。
わたしを捉えているのは何の感情も込められていない紫色の瞳。
最後に……、ジギタリスの港町で会った時の彼とは全く様子が違っていることがよく分かった。
何より、以前との最大の違いは彼の身体から黒い靄のようなモノがはっきりと視えていることだろう。
多分、これは彼の体内魔気なのだと思う。
わたしの魔力が封印されていたため、以前は分からなかったが、今はそれもはっきりと視えてしまう。
確かに九十九が警戒していたのはよく分かる。
視ているだけで気持ちが悪くなって吐きそうになる。
その上、何故か、左手首が重く軋むような痛みがしていた。
そして、彼と共にいた人たちも思っていたより数が多く、そのことに改めて衝撃を受けるしかなかった。
普通に考えても逃げきることなどできないだろう。
「法力国家では、『聖女の卵』と呼ばれていたようだが、残念ながら、未だに基本的な魔法すら使えないような今のお前一人では、これだけの人数相手に何も出来まい」
そんなことは自分自身が一番、よく分かっている。
だから、逃げることを選んだのだ。
「頼みの通信珠も破壊され、お前に助けが来る可能性はゼロだ。それでも、俺に抗うか?」
彼はわたしに向かってそう言った。
法力国家の「聖女の卵」についても、当然のように知っている。
彼は以前、わたしの「ストーカー」などと冗談めかして言っていたが、それを裏付けるような言葉だった。
法力国家にいた「聖女の卵」は、わたしと外見も異なり、さらには情報規制も行っていた。
確かに、ストレリチアは情報管理の甘い国だったかもしれないけれど、それでも、ルールは守ってくれる国だと信じている。
簡単にわたしの存在を外に……、それも他国に出すとも思えない。
そして、彼の言葉に微かな違和感も付き纏うのだ。
「あなた……、どうして?」
わたしは……、思わずそんなことを口にしていた。
それに対して、彼は形の良い口を歪めながら言った。
「愚問だな。初めて会った時から、俺はこうだっただろう?」
―――― 話は、5時間ほど前に遡る。
章タイトルは「獅子は兎を捕らえるにも全力を尽くす」の四字熟語です。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




