原点回帰
一番古いと思われる記憶。
それは天井をぼんやりと見ている自分だった。
焦点が定まらないが、時折ぼんやりとした視界の端に赤子の手のようなものが映るので、幼い頃の自分ということなのだろう。
薄紫色の髪の女性の顔が近づき、自分の額に口付けをする。
そして、そこから先の記憶はない。
恐らくは、これが唯一、自分を生んだ女性との記憶なのだろう。
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次にはっきりと思い出すのは、見習神官になった日のこと。
養父であった大神官は急がなくても良いと言ってくれたのだけど、少しでも、早く働いて、彼の役に立ちたかった。
だが、彼は知っていだのだろう。
神官という世界の偏狭さ、窮屈さ、何よりも冷厳さを。
神官の道に入ると同時に当然ながら、養父は大神官へと変わる。
口をきくこともなくなりはしたが、それでも彼は養子縁組を解消することもしなかった。
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「ラーズ、来てくれ」
下神官という職位にも慣れた頃、幼馴染の王子殿下に呼び出され、素直に彼の後をついていった。
グラナディーン王子殿下は気さくな人柄で、出自の知れない自分も分け隔てなく接してくれる方だった。
「お前に紹介したい。ボクの妹、ケルナスミーヤだ」
そう言って案内された先には、まだ生まれて一月ほどの王女がいた。
「こうして指を出すと力強く握るんだ。その手袋を外して、お前もやってみろ」
下神官でしかない自分が王族に触れるなど、今の自分からすればとんでもない話ではあるのだが、それを勧めているのがこの国の王子殿下という神官風情では逆らうことができるはずもない相手でもあった。
大聖堂内に孤児施設があったので、赤子自体は見たことはあったが、白い肌に桃色の頬という育ちの良さを体現した者をみたのは初めてのことだった。
言われたように手袋を外し、恐る恐る指を伸ばすと、その人差し指をぎゅっと握りしめられ、その力強さに驚く。
「凄いだろ、ラーズ。この娘はこんなにも小さいのに、こんなにも力強いんだ」
自慢気に語る王子。
だが、自分はそれどころではなくて……。
「お、王子殿下! ゆ、指が、吸われています!」
握られた指よりも、さらに力強く吸われる。
まるで、指先の水分を全て奪うかのように。
「ケーナ……、駄目だよ」
そう言いながら、王子によって、自分の指は救われた。
幸い、水分は奪いつくされず、逆に水分を渡されたようだが、これでは手袋をはめにくくもなってしまった。
「この娘は『緑玉髄』のような瞳をしている。リョクイである我が国に相応しいとは思わないかい?」
「私にとっては、グラナディーン王子殿下こそ相応しいと思います」
その言葉に嘘はない。
あの頃も今も、彼こそが王となるべきだと思っている。
「いや、ケルナスミーヤが望むなら、ボクは王位も全て彼女に渡すだろう」
「王子殿下……」
「だから、ラーズ。お前はいつか、大神官となって、この娘を護れ」
それは幼い頃の口約束ではあったのだけど……、一つの指針となったことは間違いなかったのだろう。
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「この娘にその名前は重すぎます」
目の前の黒髪の女性が金髪の男性に向かってそう叫ぶ。
どうやら、命名について、母親の了承を得ないまま、父親が勝手に決めてしまったらしい。
正神官になって、初めて一人で儀式を行うことになったが……、まさか他国に派遣されるとは思わなかった。
それも大神官の命令で極秘にだと言う。
その時点で、事情があるのだろうと思っていたが、まさか、目の前で言い争いを始めることは想像もしていなかった。
ベテランの神官なら、彼らをとりなすこともできたのだろうけれど、自分にそこまでの経験はない。
だから、成り行きを黙って見護るしかなかったのだ。
見たところ、ケルナスミーヤ王女殿下より一つ下ぐらいか。
歩くようになった我が国の王女と比べても、母親に抱かれている娘は随分、小さく見えた。
「でもその名前を娘に背負わせる気は……」
「これは儀式上の名前だと思えば良い。俺は伝える気もないし、娘に教えるのはお前次第だ」
「……分かりました。貴方が、そこまで言うなら、ありがたくいただくことにします」
結局、食い下がる父親に対して、母親の方が折れることとなった。
この女性は貴族ではないのだろう。
彼女自身も魔名を持っていなかったために、一緒に命名の儀を行うことになった。
大いなるファーストネームと、格式あるサードネーム。
父親は儀式上の名前と言ったが、命名というものはそんなに甘いものではないことを、彼は勿論、知っていたのだろう。
そして、それだけ秘匿すべき状況に、自国の神官ではなく、他国の神官だというのに信じて立ち会わせていただいたことに、今でも感謝している。
自分の初めての儀式は、母の慈愛と父の寵愛に深く包みこまれた乳飲み子に対して行うこととなった。
その後に何度か命名の儀を行うこととなったが、男女の口論から始まった儀式は……、実は、もう一度だけある。
尤も、その時は命名の儀を受ける当事者と、その親代わりの女性が言い争ったという違いがあったのだけれど。
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「よく見つけたわね」
薄紫色の髪色の女性はそう言った。
「見つけたわけじゃない。偶然だ」
その髪色に見覚えがあったから。
そして……、その女性にどこか懐かしさを覚えてしまったから。
「それでも、貴方は足を止めた。ま、ワタシが待っていてやったんだけど」
だが、その物言いに酷く腹が立つ。
「それで? 何か用?」
「別に」
「そうね。神官が巡礼中に足止めて世間話なんてするはずがないもの」
ほぼ初対面だというのに、明らかに喧嘩を売るような口調。
彼女は、街道から少し離れた場所で絵を描いていた。
果たして、その瞳に何が映っているのかと思えば……、呆れてしまう。
彼女の身体の前にある大きな画布には、この風景とは全く関係のない人物が描かれていたのだから。
「用がないなら、さっさと行ったら? この先には『導きの女神』様の聖石が祀られている祠があるけど……、暗くなったら見えないわよ」
「この先にあるのは、努力の神ティオフェじゃないのか?」
自分はそれを求めてきたのに。
「…………ああ、そっちか。どちらも貴方に縁づ……、いや、比較的、近くにあるから寄ってみたら?」
「言われなくてもそうする」
一つでも多くの聖石に触れた方が、神官としての格は上がるのだ。
それに、「導きの女神」なら、名神としても名高い。
偶然とはいえ、辿り着ければ幸運なことだろう。
「ま、せいぜい、頑張ってくださいな。年若き神官様。まあ、気苦労の絶えない未来しか視えないけれど……。神官なんて因果な商売よね」
そう不吉な予言を残した上、彼女はさっさと道具を片付け、転移してしまった。
「クソばばあ」
自分がここまで口汚い言葉を使ったのは記憶にない。
自然と口を付いて出てしまったのだ。
彼女と話したのは、これが最初で最後。
「導きの女神」と「努力の神」の祠を見つけた後も、それ以後も何度か同じ場所に足を運んだが、一度も会うことはなかった。
だから、後になって気付く。
彼女は本当に自分を「待っていてくれた」のだと。
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「自分、神官やろ?」
その少年は、放課後、いきなり話しかけてきた。
「何の話? 漫画の話なら、ボクは興味ないから他を当たって。」
努めて冷静に問い返す。
「つれないなあ、自分。なんや、懐かしい気がして声かけたんやけど……。まあ、ええわ」
それで引き下がってくれると思ったが、その少年はかなり図太い神経の持ち主だったようだ。
「俺は楓夜や。草薙楓夜! 以後、よろしゅう!」
「は?」
いきなりの自己紹介に目が丸くなったことは分かる。
この少年はどうやら、拒絶を理解してくれなかったらしい。
「さぶい視線やな。でも、問題ないで。精霊に好かれとる男に悪いヤツはおらんのや」
そう言って、毎日、付きまとわれているうちに……、彼が横にいることが当然のようになっていた。
自分はそれを望まなくても、彼が強く望んだのだ。
神を呪うような男のどこに魅力を感じたのかは分からないけれど。
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