左腕の疼き
今回は人によっては不快に思われる表現があります。
ご注意ください。
全ての窓の光を遮って、暗闇に落とした部屋の中。蹲り、苦痛に呻く誰かの姿があった。
その左腕は自身の右手によって何度も抉られ、見るも無残な紅い線の溝が縦と横に何本も並んでいる。
だが、それだけの傷も、左腕に蠢く不快な気配を少しも紛らわすことなどできはしない。
最近では、まるで無数の虫が左腕の中で縦横無尽に這いずり回っているような幻覚まで見えてくる。
「うぐっ!」
左腕から少しずつ蝕まれていく自分の何か。
じわりじわりと己の魂が侵食されていく気配に、さらに自分の左腕を掴み、その気配ごと引き千切ろうとする。
新たに真っ赤な鮮血が飛び散るが、その痛みを感じる時期はもう過ぎていた。
そして、それぐらいではその左腕にある不快感が消えることはない。
泣こうが喚こうが、その場でのたうち回ろうが、その気配は止まらず、やがて、この左腕を完全に侵食した後は、全身を同じように巡り、内側から自身の全てを食い破って生まれるつもりなのだろう。
今はまだ良い。
自分の意識がしっかりしているうちは一時的にではあるが、その気配は治まっているような気がする。
そのためか、一気に侵食が進むことはない。
だがそれは、自分の意識がない時は危険だという事でもある。
特に眠っている時間帯。
無防備になっている意識……、「夢」を使って相手は精神を破壊しにくる。
この左腕の全てが侵されたわけではないが、そう遠くはない未来に、視えない何かによって奪われてしまうことだろう。
念入りに、念入りに。
自分の左手が作り替えられていく気がしている。
そして、この左腕が終わった後はどこだろう?
いずれは全身にこの毒が回ってしまうのだろうが、できれば頭……、自分の意識は最後であって欲しい。
これが避けられない死に繋がっているというのなら、その最期ぐらいは人間として死にたいと願う。
左腕をぶん回す。
叩きつける。
引き裂く。
抉り取る。
それでもこの感覚は治まらない。
叫ぶ。
喚く。
呻く。
唸る。
それでも、この気配は容赦しない。
そこに一切の救いはなかった。
これは人の身である以上、どうすることもできないのだろう。
相手は神に等しい存在だ。
運が悪いことに自分は、それに選ばれてしまった。
それは本当に僅かな差異でしかなかったのだけど、その差は決定的なものだった。
だが、そのことを仕方ない運命だったと諦めきれるほど、達観もできてはいない。
自分はまだ年若く未熟なのだ。
やがて、この魂すら侵食され、壊されてしまうことは分かっていても、最後の最後まで、僅かながらも抵抗ぐらいはしたいのだ。
人間をなめるな、と。
不快感と苦痛に苛まれ、この気配に嬲られていく。
それが、日暮れから夜明けまで休むことなく続いていくのだ。
全身を侵食される前に、この精神が折れる方が、もっとずっと早いのかもしれない。
「ぐっ……」
再び左腕を強く握りしめ、力の限り引き裂く。
そんな状況でも、この心の中には微かな光と僅かな希望。
自分の心を救い続けている存在があった。
その気配がこの胸の内に留まる限り、自分はまだ正気でいられる。
そんな気がしていた。
****
闇の中、苦痛に呻く人間を、酷く冷めた瞳で見ている者があった。
だが、その口元には微かに笑みを浮かべている。
―――― いっそ、そのまま死んでくれれば良いのに。
だが、それではすぐにこの苦痛は終わってしまうかもしれない。
だから、適度に癒しを施してあげるのだ。
無害を装って、その身を心配しているふりをしながら、決して、楽に死なせてなるものか、と。
そう簡単に終わらせてなるものか、と。
自分が受けた苦痛と屈辱を、自分の手で返すことができないことは残念だが、この光景は悪くない。
抗えない絶対的な存在に対して、無様にも悪あがきを続ける姿は滑稽で、哀れな道化師にしか見えなかった。
そのみっともない踊りを時間が許す限りは存分に楽しませてもらおう。
神に選ばれた……。
それだけを聞けば確かに光栄なことではある。
信仰心が強い人間たちが集まる法力国家の人間であれば、喜んで抵抗することなく受け入れてしまうことかもしれない。
だが、これまで神を呪って生きてきた人間にしてみれば、この状況は恥辱以外の何物でもないだろう。
激しく否定するモノに自分の全て奪われるのだ。
精神や身体だけではなく、その魂までも。
そこには絶望の色しかなく、微かな光すら傍目にも見出せなかった。
世界を救った「救国の神子」たちも手を差し伸べることはない。
かつて、「大いなる災い」を封印した聖女の存在もない。
ここは僅かな希望を抱くこともできない世界だ。
そんなものが僅かでもあれば、自分だって救われたかった。
だから、願う。
目の前にいる人間が少しでも長い時間、多くの苦痛を受けて絶望のまま魂が壊れることを。
あの強い光をもった瞳が、深い闇の色に染まることを。
その日がいつか必ずくることを信じつつ、今日も、その様を見守るのだった。
****
闇の中、苦痛に呻く人間と、それを微笑みながら見つめる人間を、さらに見守り続けている人間の存在があった。
―――― どうして、こうなってしまったのだろう。
かつて、あの二人がどれだけ仲が良かったことを知っている。
だが、そのぬるま湯のような時間はある日突然、一方的に終わりを告げた。
その理由について、尋ねることはできない。
だが、それぞれが置かれた状況を考えれば、想像はついてしまう。
不器用な人間に、器用な解決方法など思い浮かぶわけはなかったのだろう。
ただそれだけの話。
そして、あの二人にとって、さらに間が悪かったのは、その直後に神が地の底より這い出てきたことだった。
まるで狂いだしていた歯車を、さらに歪ませようとするかの如く。
そこに互いの救いなどないと言うように。
一度、歪んでしまった関係は、決して元に戻ることなどない。
無理に戻そうとすれば、確実に大きな亀裂が生じてしまうだろう。
壺から零れ出てしまったものを、なかったことにしたいと慌てて蓋をして嘆く行動は、無駄なことなのだ。
自分は無力だと思う。
そんな事情を察しても、どうすれば良いのか分からない。
そして、お互いに知られたくない事情と理由を自分の内に押さえつけ、抱え込んでいる。
そのために、周りに助けなど呼ばないことだろう。
似ていないようで、似ている二人だから。
もう何度目になるか分からない溜息を吐く。
もう少し、何かのタイミングが違えば良かったのだろうか?
どこかで選択肢を間違えなければ、出口の見えない闇に捕らわれた二人が救われるような未来もあったのだろうか?
その答えはどこにも見えない。
既に、壺から大いなる闇は零れ出た後なのだから。
****
―――― 昔話をしようか。
かつて、紅い髪の精霊に唆されて、自分の大切な物を売り渡した王女がいた。
自分の中で思い詰め、周囲より追い込まれていた彼女は誰にも相談することをせず、自身の欲望によって、壺に闇を満たしてしまう。
その結果、世界は絶望の淵へと堕とされた。
その絶望の中に現れた、輝く「希望」も、この世界を救った後で、自身が幸せになることはなかった。
やがて、彼女は「人間」の裏切りに遭う。
人間が抱く、夢や希望は全て抗えない絶望へと繋がっていく。
それでも、人々は希望を抱くことを止めない。
そして、何度裏切られても、神に祈ることを止めないのだ。
運命の女神は勇者に味方する。
だけど、味方をするだけで、救いの手を差し伸べてはくれない。
神は人間の世界に直接、干渉することは許されていないから。
ただ気まぐれにその魂に触れるだけ。
戯れにその運命を乱すだけ。
そして、人間はただ振り回されるだけ。
だから、歴史は何度も繰り返される。
いつまでも同じようにぐるぐると回る捩れた環のように。
そうと知りつつも、人間たちは神に祈りを捧げ続けている。
―――― それはかなり滑稽な話だと思わないかい?
この話で第23章は終わります。
次話から第24章「甘くて苦い」です。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




