【第23章― 今に繋がる過去の話 ―】今は昔の物語
第23章です。
章タイトルから分かるように、過去話が多い予定です
―――― 初めて会った時から、特別な存在になる予感がしていた。
オレが物心ついた時には既に母親と言う存在はなかった。
さらに、数年の後、父親も熱病で死んだ時、オレたち兄弟は行動の指針となるものを失ってしまった。
当時は僅か五歳と三歳。
いくら生命力が強い魔界人といっても、自活するには幼すぎる年齢である。
本来ならば、親を亡くした孤児などは、城下にある聖堂で一時的に保護されるのだろうが、当時のオレたちにそんな知識もなかった。
何より森の中で隠れるように暮らしていたのだ。
ご近所付き合いというものもなかった。
つまり、どこからも手助けを得ることもできない。
住んでいた小屋に残されていた食糧を、子供なりに制限しながらなんとか生き長らえていた。
あの頃の記憶は既にもう朧げとなっているが、一日中、食い物のことを考えていたことだけは、生命に直結していたためか、もう十数年前のことだというのによく覚えている。
食べられそうな木の葉や草を毟っては、少しばかりの空腹感を満たしていた。
勿論、育ち盛りの幼児がなんとなくという感覚だけで探し出すものに、満足な量も成長に必要な栄養も得られるわけはないのだが、幸い、住んでいた森は、通常より再生力が強い土地だったこともあり、暫くはそれで食いつないでいた。
そんな状況にあっても、空腹に負けて兄の目を盗み、小屋にあった食料を独り占めしてしまおうという発想は何故か沸かなかったのは今でも不思議である。
あの頃、兄はオレの前で食事をしていなかった。
小屋にあった食糧はオレが食べた分しか減っていなかったから、兄もあの小屋の周りにあった草木だけを食っていたんだと思う。
オレたち兄弟は他に行く場所などなかったから。
尤も、当時のオレは子供心に兄は腹が減らないんだろうと馬鹿なことを考えていたのだが、後で知る。
あの頃の兄が、少しでもオレのために食糧を残そうとしていたことを。
しかし、そんな無茶な生活は当然ながら一月ともたなかった。
父が生きていた頃は、しっかりと保存されていた食糧も、知識がない子どもたちに適切な管理ができるはずもない。
本能的に傷んだものは避けていたが、それは同時に食べられる物が極端に減ってしまったことを意味する。
いよいよ目に見えて食糧が尽きかけていた頃、オレは初めて、小屋の側にあった崖をよじ登ってみた。
父からも兄からも「この先には何もないから行くな」と言い含められていたのだが、オレは懸命に登ったのだ。
何故、そこまでしたかったのかは今でもよく分からない。
ただ、何もないと言われていた所から声が聞こえた気がしたのだ。
それは、空腹からくる幻聴だったのかもしれない。
実際、そこに声を出した存在などいなかったのだから。
だが、オレの耳にはしっかりと聞こえたのだ。
とても小さな女の子の泣き声を。
……とは言っても、三歳児の短い手足でその崖を登るというのは、簡単なことではなかった。
空腹で体力も落ちていて、軽さぐらいしか利点がない状態。
それでも、何がオレをそこまで駆り立てたのかは分からないが、何も考えずにその崖にしがみついて、必死で上を目指した。
指も、足も、膝も、腕も、肘も、顔も、服も、全身がボロボロになりながら、何度もずり落ちながらも初めて挑戦した崖登り。
そうして、辿り着いたその場所には何もないどころか、見たこともない光景が広がっていた。
木々に囲まれ、広がる湖。
今まで、住んでいた小屋の側にあった水場は滝と小川ぐらいだったので、まずその水の量に圧倒された。
そして、その側には声も漏らさず、涙をこぼしている小さな一人の女の子がいたのだ。
その時まで、オレは自分より小さな人間にも女という存在も知らなかったので、目の前にいる女の子が夢か幻のように見えた。
ゆっくりと近づいてみてもオレの存在に気づく様子はなく、その大きな瞳から大粒の涙をこぼし続けている。
そのまま泣き続けると、その瞳までこぼれ落ちてしまいそうな気がして、オレは思わず声をかけていたのだ。
それが彼女との出会い。
そこからオレたち兄弟の状況が一変することになる。
突然、現れた不審な幼児に驚きはしたものの、嫌な顔一つ見せずに彼女はオレに言葉を返してくれた。
父や兄以外の人間と会話すること自体が初めてだったこともあって、オレは軽い興奮状態にあった上、三歳児ということを差し引いてもその言葉がかなりおかしかったと思う。
それでも彼女は一つ一つの言葉に丁寧な反応をしてくれた。
彼女の周囲には大人ばかりで、その立場上、少しでも隙を見せられない生活をしていたことを知るのはそれから少し経ってからになる。
そして、彼女がこの時何故、周囲の状況に気付かないほど、そして声を殺して泣いていたのかは、何度聞いても曖昧な返答で誤魔化された。
だから、その頃の記憶が失われてしまった今となっては、この先もわからないままなのだろう。
そして、彼女は、崖を登ってきたためボロボロになっていたオレに対して、その擦り傷などを治すために「治癒魔法」を施そうとして……、何故かオレは、数メートルほどふっ飛ばされることとなる。
後に彼女の魔法は未熟で、その膨大な魔力のために出力調整が苦手だということを知るが、その話を聞いた時、同じように未熟だというのに、オレはこのまま彼女を放っておけないと、真剣に思ったのだ。
そんな考え方も思い上がりだったとさらに後になって気づくのだが。
城下の森は確かに結界に守られてはいて、外にその気配は漏れないらしいが、すぐ近くの魔気ぐらいは分かるようになっている。
だから、治癒という名の風属性魔法の気配に反応して、兄も血相を変えてその場に現れたのだ。
恐らくはオレが何者かに襲われたと思ったのだろう。
言いつけを守らなかったことに対して、オレは怒られることも覚悟したのだが……、その場を見た兄はオレを怒らず、代わりにその目から涙を零した。
兄は、父親が死んだ時も泣かなかった。
そんな兄が、初めて涙を頬に伝わせたのだ。
尤も、兄が泣いたのはそれっきり。
その後、彼女たちがいなくなった後も、オレたち兄弟の師が死んだ時も、兄はオレの前で涙を見せたことはない。
兄は後に、この時のことを「気が緩んだ」と言っていた。
まだ幼児なのだから泣くぐらいは普通じゃないかとも思うのだが、どうもオレの兄は普通では嫌なようだ。
そこまで格好つけたがる理由なんてオレには全然分からないけれど。
その後、オレたち兄弟はそこで出会った小さな女の子に案内されて、生まれ育った城下の森から初めて外に出ることになる。
そして、食うや食わずの生活から開放され、城という特殊な空間ではあったために少しばかり窮屈ではあるが、かなりの教育を施され、今のオレたち兄弟の原型は出来上がったのだ。
結果として、それまで近くにありながら存在も知らなかった城下も、自分たちが住んでいた森のこともよく知ることができた。
あの日、言いつけを破って崖を登ったことを後悔したことは一度もない。
だけど、ずっと続くと思っていた城での生活は、唐突に終わりを告げた。
彼女が何も言わずにオレの前から姿を消したことによって。
そして、今。
あの時、オレたち兄弟を救ってくれた娘は、その全てを忘れ、何事もなかったかのように無邪気に笑っている。
それが悪いとは言いたいわけでも、そのことを責める気も当然ないのだが、酷く寂しく思うことはある。
オレにとっては大事な思い出なのに、彼女にとっては忘れても良い程度のものでしかなかったということなのだから。
そして、同じ姿をした少女の中に彼女の姿の欠片を見つけては、少しだけホッとしてしまう自分もいるのだ。
今更、この少女が消えることを望むことはないが、もう少しあの頃の姿を見せて欲しいと願うくらいの感情は女々しくもまだ残っている。
それを誰にも告げる気もないのだけど。




