若き見習神官の悩み
その時、若き見習神官は、唐突に気付いてしまった。
自分は一体、今、何をやっているのだろう、と。
彼の目の前には黒い髪、黒い瞳の小柄な少女が背を向けて走っていた。
神への信心を表す肩までの長い髪ではあるが、まとめていないので、「神女」としてこの国にいるわけではなく、ただの信者の一人に見えた。
それ自体はこの国では珍しくもない。
神官や神女になるためには、僅かでも法力と呼ばれる力が使えねばならないのだ。
だが、誰もがその才に恵まれるわけではない。
神を信じる心こそがその力の強さになると言われている法力は、どれほど神を信仰したとしても必ず持ち得るものではなかった。
そう言った意味では信仰心を試せる機会をもらえる「見習神官」になれた者たちは幸運でもあるのだ。
そんな見習神官の一人に尊き身分の方よりお声掛けがあった理由は分からない。
大聖堂近くの部屋に出入りしていたため、声がかけやすかったとかたまたま目についたとかそんな話だろう。
しかし、矮小なる自分の存在に対して天と地ほどの差がある方だ。
それで舞い上がってしまった面があることは、素直に認めていた。
勿論、その下された命令に対して少しも疑問を抱かなかったわけではない。
だが、褒美として提示されたものは、本来、見習神官の身などでは到底届かないほどの価値があるものだった。
普通に働いているだけでは決して得られないほどのもの。
質素倹約を旨とする神官であっても、俗世の欲を捨てきれているわけではない。
ましてや、まだ見習いの身である。
その大いなる魅力に抗えるはずもなかった。
それ以上に、前提として、この国に在住している見習神官がかの立場にいる人間より命令があれば拒むことなどできようものか。
身分というものに寛容な国ではあるが、それでも越えられない壁というものは存在しているのだから。
それでも……、懸命に駆け続けているその少女の黒い髪と背中を見ていると迷いが生じてしまう。
だが、その少女が何をしたのかは分からないが、命令された以上はその後を追うしかないのだ。
少しだけ足を緩めて、捕らえるまでの時間を遅くしてあげることぐらいしか今の自分には許されない。
その小柄な少女は12,3歳ほどに見えた。
黒髪をなびかせ、止まることなく走り続けるその足は、同じ年頃の少女と比べれば、逃げ切れるかもと淡い期待を持ってしまう程度には速いと思われる。
そんな彼女の姿を見て、その「見習神官」は同情してしまった。
信者が髪を伸ばす行為は信心深さを表すと同時に、「神官」や「神女」への憧れを捨てきれないとも言われている。
法力は先天性のものであり、成長して何かのきっかけがあれば使えるようになるものではないのだが、それでも人は神の奇跡を信じてしまうのだ。
その姿を健気と呼ぶか、哀れと断じるかは、法力の才を持って生まれた神官たちでも意見が分かれている。
もとより神官というのは、か弱き者たちに手を差し伸べる存在でありたいと思う者が志すことが多い。
虚栄心や逃避行動からではなく、神への信仰を糧に大志を抱いた典型的な「見習神官」である人間が、そんな信者の姿を見て困惑してしまうのは自明の理だと言えるだろう。
だが、その見習神官は頭を振って思い出す。
かの尊き存在は告げた。
「他国の王族たっての願いにより、我が国の威信をかけて捕らえるべき少女がいる」と。
そして、自分でも知っているほど有名な王家の紋章入りの手配書を差し出したのだ。
注意として、目の前の少女の容姿は、明るい髪色の手配書とは異なっているが、それは逃亡中であるために当然の行動だと説明された。
確かに手配書と同じ姿のまま逃げているのは、手配されている自覚がない限り、かなり不自然だ。
少しでも周囲の目を誤魔化すために姿を変えようとするのが普通の考え方だろう。
だが、この見習神官にとって聞き逃がせなかった点はそこではなかった。
目の前の少女は「大神官」に救いを求めたらしいのだ。
その証として、大神官より賜われた神の加護をその身に纏っているとも付け加えられたのである。
実際、その先の角を曲がって袋小路へと向かう少女は一般的にはありえないほど強い加護や祝福をいくつも纏っていたのだ。
他国はどうだか知らないが、大神官はこの国で生きる神官たちにとって、王族以上の存在である。
特に今代は「稀代の大神官」とまで謳われ、二十歳という若い身でありながら、現時点でその力は歴代最高とされていた。
自分自身では辿り着けない領域。
それも恐らく生涯手が届くことがない世界だろう。
それをまざまざと見せつけられ、この見習神官は先程までの迷いとは明らかに別の感情がその心の内より生まれてきていることを自覚する。
すなわち、嫉妬という感情である。
それも大神官の才能に対してではなく、その力を惜しみなく授けられているこの少女に対して……であった。
それもある意味仕方がない話でもある。
何故なら、この見習神官は今代の「大神官」を盲目的に崇拝していたのだから。
恐らく、「正神官」となることができるなら、その主神を選ぶ際にこの大神官が立ち会ってくれることだろう。
その時に主神を選ばず、大神官の手を取る……いや、しがみついてしまうことだろうと、そんな困った自信すらこの見習神官にはあった。
念のために付け加えておくが、この青年は「神女」ではなく「神官」。
まごうことなき男性である。
少女はやがて、袋小路で詰まる。
そして、行く手を塞いでいる壁に手を当てて焦ったようにペタペタと触れていた。
考えてみれば民間ならともかく、他国の王族より手配されている人間がまったくの無害であるはずもない。
見習神官はそうして自身の迷いを振り払っていく。
だが、こんな状況でも法力に替わる魔法を使う様子もなかった。
魔力感知に優れていなくても、彼女の魔気は混ざり気が激しく、その力もあまり強いとは感じられないことぐらいは分かる。
恐らく法力が使えないばかりではなく、魔法も不得手なのだろう。
体格は小柄であるため、ここまで逃げ続ける体力があるとは思っていなかったが、これまで逃げ続けてきたためか、持久力は高いと思われる。
だが、それは同じ年代の少女と比較した時の話であり、追う側だった彼はそれなりに体格に恵まれていた一般的な男性である。
そうなると、当然ながらお話にはならない。
実際、捕捉してから暫く、彼自身が速度調整をし、このように人気のない袋小路へと追い詰めることが出来ていた。
その少女も追われることに心当たりがあったのか、自分が後を付けだしてからすぐに走り始めたのだ。
だが、今、壁に触れると言う行為に意味がないと悟ったのか、それを背にして気丈にも追手である見習神官を強い瞳で見返していた。
だが、その身体にある震えまでは隠しきれていない。
少し気が強いだけの無力な少女。
この見習神官はそう断定した。
だからこそ、救いを求めるべく大神官に加護を求めたのだろう。
そして、救いを求める人間に対してその手をとるお優しい大神官は、こんな少女であっても見捨てずに加護を授けた。
その行為の素晴らしさに思わず息が漏れるほどである。
だが、それは大神官のお心を利用する行為でもあるため、見習神官にとっては許しがたい行為として受け止められた。
この見習神官の中から、逆らえない命令という大義が薄れ、大神官より直々の加護を授かった存在に対する羨望と嫉妬という名の私情が色濃くなってきた頃、その変化が現れたのだ。
急激に襲い来る全身の重圧は、まるで自身の身体が石の塊となっていくように不自然だった。
その上、自身の手足から感覚がなくなり、視界は大きく揺れる。
踏ん張ろうにも既に全身からは力が入らず、血が通わない肉の塊としか思えなくなっていた。
目の前の少女が何かをしたのかとも考えたが、魔法が発動する気配はなかった。
不自然な動きもなく、薬や魔具などの道具を使ったようにも見えない。
そうなると、他の可能性が生まれる。
「なか……ま……か……?」
なんとかその言葉を絞り出すが、既に声になっているとは言いがたかった。
それにその考えもおかしい。
この神殿付近には結界が存在しているのだ。
害意があれば、貴族であっても魔法や法力が霧散霧消してしまうほどのものが。
しかし、その結界が作動した様子もない。
そんな見習神官の思考はこれ以上まとまることもなく、どさり、と何か重たいものが地に付くような音だけが耳に届く。
それが、自分の倒れた音だと気付くこともなく、哀れな見習神官の意識はゆっくりと冷たい闇に飲まれていくのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




