複雑な胸中
「私からすれば……、魔法のない世界の方が怖いけどな」
水尾さんがそう言いたくなる気持ちはよく分かる。
オレも、自分が魔法を使えなくなるなんてあまり考えたくないから。
あの日、彼女を追いかけて人間界へ行った時も、この世界ほどじゃなかったけれど、大気魔気の流れを感じて安心したのは確かだったのだ。
人間界は大気魔気が薄かったために、魔法の威力や効果は劣化しても、それでもちゃんと使えなくはなかったから。
でも、高田はその世界を知らない。
覚えていないのだ。
だから、逆に視える世界に恐れはあってもおかしくはない。
本人は怖がっていないって言うけれど、既に何度か危ない目にもあっているのだ。
その危ない目をあまり覚えていないから、何度も繰り返している気がしているけど。
そんなことを考えていた時。
「お待たせ致しました」
大聖堂の奥から再び、大神官が姿を表した。
「準備が整いましたので、栞さんのみこちらへおいでください」
そう言いながら、大神官が向かって高田に手を差し伸べる。
「分かりました」
そう言いながら高田は大神官の手をとる。
彼女のその顔にはどこか絶大な信頼が見える気がした。
先程まで傍目にも分かりやすく、その顔色を変えていたのに、大神官の顔を見て落ち着いたのか、ほんのり笑みを含んだ顔をしている。
オレたちがいろいろと尽くした言葉より、大神官の存在の方が大きかったようだ。
そのことに対して、何故だか少しだけ、腹が立つ気がするのは気のせいか。
そこに深い意味はない。
ただ、魔界に来てからずっと一緒に過ごしていた人間の言葉より、過去に縁があったとは言っても、再会したばかりの人間の方を信頼するってなんとなく、嫌じゃねえか?
「栞さんには、これから神水浴をしていただきます」
大神官は手をとったまま、高田に話しかける。
「神水浴? 急ごしらえの割に、えらい本格的にするんやな」
クレスがそう声をかける。
オレは、その「神水浴」とやらについてはよく分からんが、その雰囲気から、高田が一人で行わなければならないことだろうということだけは理解できた。
「これは未熟な封印ですから、できる限りの手を尽くしておきたいのです」
「「未熟…………」」
思わずオレと兄貴の声が重なった。
大神官はあの封印を「未熟」と言ったが……、そこに思わず反論したくなる。
あの封印が未熟?
どこが?
パッと見ただけでは、封印されていることも気づかせないような完璧な封印だったぞ?
しかも、必要とあれば自動的に解除されて再び戻るのに?
でも、そう思ったのが自分だけでなくて良かった。
兄貴も同じことを考えたからこそ、口から出た言葉が同じだったのだろうから。
「ところで、神水浴ってなんだ?」
どうやら、水尾さんにも分からないらしい。あまり一般的な言葉ではないようだ。
「ミオなら『浄水の儀』で通じるやろ。王族なんやから」
「ああ、なんだ。儀式前の風呂のことか」
水尾さんの口から出てきたあんまりな言葉に、大神官を除いた男三人の空気が変わったのが分かる。
「浄水の儀」とか言う儀式が、たった一言で、平凡な日常生活の一部になってしまった。
あの兄貴ですら表情を崩してしまった言葉にも、一切の動揺を見せない大神官って本当に凄いと人だと思う。
「手順とかはあるんですか?」
高田もさっきの言葉でも調子が崩れなかったようだ。
本当に見事なまでのマイペースなヤツだ。
「いいえ、神水を浴びる際の注意は特にありません。かけ流すだけの方もいらっしゃいますし、ゆっくりと浸かる方もいます。身体を洗われても問題ないですよ」
「……水尾先輩の言う通り、本当にお風呂みたい」
「お前もか」
仮にも儀式だというのに、思うことはそれだけなのか?
いや、大神官の分かりやすい説明にオレも少し考えたけど、思ってもそれを口にするな。
「やけど、通常と違うて、今回、神女は嬢ちゃんに付き添わんのやろ? 着替えとかどうする気や? そこまで本格的にするんやったら、儀礼服やないとあかんのやないか?」
オレたちよりも儀式などに詳しいようで、クレスが大神官に確認する。
「略式礼装ならば、栞さんは大丈夫だと思いますよ。それに私も付き添いますから何も問題はありません」
ん?
着替えに……大神官が付きそう?
そこにオレは疑問が浮かんだ。
大神官は中性的な顔をしているが、間違いなく男である。
そして、高田は凹凸が少ないが、一応、女である。
ちょっと……問題ないか?
「そこまできっぱりと言い切られると何も言い返せんのやけど……。嬢ちゃんの方はそれでええんか?」
どうやら、クレスもそこにひっかかっているらしい。
「手順がなくて、お風呂に入るだけだったら別に問題はないと思うよ。まさか、恭哉兄ちゃんと一緒に入るわけじゃないんでしょ? 着替えにしても分からなければ手伝ってもらうしかないのは仕方ないしね」
気を遣ったクレスとは対象的に高田の方はあっさりしたもんだった。
……いや、年頃の女の反応とは思えないんだが?
「嬢ちゃんがええなら別にええわ。この男はほんま野暮やかい、その部分が心配ではあるんやけど」
「恭哉兄ちゃんは野暮なの?」
「確かに私は野暮……、なのでしょうね。人の心が分からないとはよく言われます」
高田はクレスにつられたのか、敬語が抜けてる。
でも、それをこの場で注意するのはそれこそ野暮というやつなのだろう。
今は大神官としてではなく、幼い頃に会った友人って感じで話しているのだ。
大神官も特に表情を変えてないのだが。
確かにこの人の感情は、その表情からでは読みにくいけれど、オレはあまり無表情とは思わなかった。
「ああ、なるほど。他人に優しいのと相手の気持ちが分かるってのは全然違うモンだからね」
そう言いながら、高田は眉を八の字にして笑いながらため息を吐く。
なんとなく、ちらりとオレの方を見た気がするのは気のせいか?
「なんだよ?」
言いたいことがあるならはっきり言え。
「そんなに心配そうな顔しなくても大丈夫だよ」
だが、彼女の口から出てきたのは予想外の言葉だった。
「は?」
オレは思わず短く問い返す。
「さっきからずっと、九十九は凄く面白い顔してるよ。そこまで心配しなくても、今から身体を浄めて、封印を解放してもらうだけでしょう? 全て、大神官さまにお任せすれば大丈夫だから」
困ったように笑って、自分の眉間を指しながら高田はそんなことを言った。
そこでようやく、気付く。
先ほどから自分の精神状態がかなり乱れていたことに。
「さっき、お前が床にへたり込んだ上に、封印の解呪後に部屋を準備しなければいけないほどの問題がある可能性があるって分かっていて落ち着いていられるかよ」
「本当に過保護だよね」
彼女は大袈裟に肩を竦める。
「そう思うなら、自分からトラブルに突っ込んでいくなよ」
これまでの状況から、この封印を解放することも、何かあるような気がしてならない。
胸の辺りが騒めいている上……、後頭部に静電気のようなか細い何かが走っているような感覚が先ほどからずっとあるのだ。
「今回は大丈夫だと思うけど……」
彼女は頬に手を当てて大神官を見る。
大神官はずっと、オレたちが会話する姿を何も言わずに見守っていた。
それに気づいて、高田は大神官に向き直る。
「お待たせして、申し訳ありません。もう、大丈夫です」
「はい、分かりました」
大神官は微かに笑ったように見えた。
でも、その微笑みは、彼女ではなく、何故かオレに向けられた気がする。
「ああ、でも……」
オレに背を向けたまま、彼女は思い出したかのようにこう続けた。
「記憶は戻らないみたいだから……、九十九にとっては残念なんだろうね」
「へ?」
その言葉について、オレが深く考える前に、彼女は大神官とともに歩いていったのだった。
この話で第19章は終わります。
次話から第20章「神隠し、人隠し」。
かなり長く引っ張りましたが、主人公の魔力の封印が解放されます。
そして、ようやく人間から魔界人に変化することにもなります。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




