扉を開けたその先に
「ん? 待て」
最初に我が家の微かな異常に気がついたのは、九十九だった。
いつものように鍵を開けて、家の中に入ろうとしたところで、九十九にいきなり肩を強く掴まれる。
「え? どうしたの?」
先ほどまでと違って彼はかなり怖い顔をしていた。
「微かに魔力の反応がある」
九十九が口にした「魔力」……。
それは日常会話の中で使う言葉ではない。
ましてや、我が家にはあまり関係のない話だったはずだ。
数日前までは……。
「え? でも、家には母さんしか居ないはずだよ?」
「お前の母親も魔力は封印されているはずだ。つまり、母親以外の誰かってことになるな」
「お客さんかな?」
魔力は人間でも持っているものだという。
それならば、偶然、我が家に来た人がその「魔力」ってやつを持っていてもおかしくはないだろう。
でも、タイミングとしては不自然なほど出来すぎている気がする。
それに、母から来客予定は聞いてなかった。
「……だったら良いが、お前、一昨日のことを忘れていないか? ヤツらが家に入り込んだ可能性もある」
「え!?」
我が家まであの人たちが入り込む……?
先ほど話してくれた九十九の予想に間違いがなかったのなら、わたしを捉えるという目的のためだけに、全く無関係なはずの美容室まで利用した人たちである。
再び、わたしを捕まえようとそれぐらいのことはしてもおかしくはない。
でも、もし、そうだとしたら、わたしたちに逃げ場はない気がする。
それに何より今、家には母がいるはずだ。
ガクガクと、震えがきた。
自分は九十九が護ってくれているから大丈夫だという安心感がある。
でも、母の方には何の護りもなかったことに今更気付いたのだ。
「大丈夫だ」
そう言ってわたしの肩に置いた九十九の手にさらに力が込められる。
それだけで、少しだけ震えは不思議と止まった気がした。
いや、実際は止まってなかったんだけど。
「とりあえず、中に入れ」
九十九が、戸惑っているわたしに対して、先に行くように促す。
わたしの目で確かめろ、とでも言うように。
「でも……、何もなかったら?」
それはそれで何かとまずい気がする。
娘が突然、男を連れてくるなんて、わたし以上に少女漫画好きな母が好みそうなトキメキイベントである。
しかも、未だに我が家で発生したことはないほど希少なものだ。
母が、どう動くか、何を言い出すか予想することしかできない。
「それならそれで問題ないわけだから良いだろう?」
いやいやいや、実はかつてないほど大問題だ!
それなのに、九十九は、そこまで深く考えてはいない! なんで?
さっきまで話していた時は、先のことも含めて、もの凄く色々と考えてくれていたみたいで嬉しかったのに。
わたしとしては、この偽装交際の状態を、まさか年単位で継続させるほど気の長い話として、彼が考えてくれていたなんて思ってなかったから。
それでも、母が心配なのも事実だった。
そこに選択肢はない。
いつまでもこうしていても仕方がないのだ。
わたしは、観念して、玄関の戸に手をかけようとする。
しかし……。
「あうっ!」
「高田!?」
戸に触れるかどうかの刹那。
ピリッと静電気のようなモノが指先を走り、わたしは思わずその指先を押さえた。
見た目には変化なし。
音はなかったけど、静電気によく似ていた。
「びっくりした~。静電気……かな?」
「なんだ。驚かせるなよ」
わたしの様子を見て、安心したように九十九が肩の力を抜く。
静電気……。
そうは口にしてみたものの、本当にそうだったのだろうか?
恐る恐る、また戸に手を伸ばして触れてみる。どうやら今度は大丈夫そうだった。
ノブを握った右手に、力を込めて捻る。
……今はまだ春なのに、こんなに汗をかくとは思わなかった。
自分の家に入るだけという行動に、こんなに緊張したこともなかったと思う。
戸を開けて、落ち着いて、いつもと同じように……。
「ただいま~」
と、しっかり声を出してみた。
「お帰り~」
そう、いつもならこんな暢気な声が返事をする。
それが今日は……。
「遅かったじゃない。どこか寄り道してきたの?」
……ん?
はっきりと耳に届く声。
「母さん?」
「何?」
「なんでいるの?」
思わずそんなことを口にしてしまう。
いや、何もなかったからそれは喜ぶべきところなのだろう。
でも、こう自分の中で緊迫感を高め、不測の事態に備えて盛り上がっていた気持ちの行き場がない。
「なんでって……、ここは私の家だからでしょ? それとも間違えちゃったかしら?」
クスクスと小さく笑いながら、母は相も変わらず呑気な返答をする。
「いや、そうじゃなくて……」
九十九の言葉でかなり警戒していたが、母は無事だった。
正直、いつもどおり過ぎて、拍子抜けしてしまう。
いや、平和が一番なんだよ?
それは分かっているんだ。
九十九に脅かされながらもこわごわと開けた扉の先には変わらぬ日常が広がっていた。
そう思っていたのに……。
「ああ、栞。あなたにお客さんが来ているわよ。結構、待ってもらったから、お詫びくらいちゃんと言いなさいね」
その母の言葉で飛びかけていた緊張が、勢いよく自分の中に戻ってくる。
そして、よく見ると、玄関には見慣れない大きな黒い革靴が一足あった。
多分、男物だ。
シンプルなデザインも、わたしや母よりもかなり大きいサイズも、その特徴のどれもが女性っぽくはない。
この状況から考えて、その人物が九十九の言ってた魔力ってやつの持ち主である可能性がかなり高い。
そして、「魔界人」なら、何も知らない母を巧く騙してわたしの知人を装うことなんてそう難しいことではない気がする。
それに……、相手は魔法という未知なる力を使う人たちだ。
テレビでやっているような、催眠術以上の力で母を洗脳して、意のままに操るなんてことぐらい訳はないだろう。
なんとなく頭の中に、少し前にわたしを連れ去ろうとしたあの紅い髪の男の人が浮かんできた。
その考えをなんとか否定しようとして、思いっきり頭を振ってみる。
「わたしに誰か来るなんて聞いてなかったけど……、誰?」
「会えば分かるわ」
わたしの質問に母は含みのある微笑みを浮かべる。
そして、答えの方も微妙な返答だった。
確かに会えば分かるって言うのは、間違いではないのだろうけど、その疑っている人と顔を付き合わせる前に、少しでも情報入れたかったのに。
なんとなく、制服のポケットに忍ばせていた通信珠に手をやる。
いざとなったら、これで九十九を呼べば良い。
彼はまだこの家の扉の外で待機してくれている。
わたしの部屋にも一瞬で現れたのだ。
こんな距離はないに等しいだろう。
「あ、栞?」
客間に向かおうとしたわたしを、母が呼び止める。
「ん? 何?」
「もう1人、お客さんがいるみたいだけど、そちらは案内しなくていいの?」
「へ?」
母から不意に言われた言葉に、わたしは反応しきれなかった。
「玄関の扉。その後ろにいるでしょ」
「え……、なんで?」
玄関の戸を隔てて、その後ろにいる人間の気配なんて、そう簡単に分かるものだろうか?
そんな微かな違和感が少しずつ湧き上がり、わたしの胸に広がっていく。
心臓は早鐘のように鳴り始め、先ほどと同じように手足が震えて変な汗まで出てきた。
えっと……、この人はどなたでしょうか?
いや、今、わたしの目の前にいる人物は間違いなく母親だと思っている。
本気で疑っているわけではない。
でも、どこかわたしの知っている母親と微妙な差異を感じていた。
何かが違うのだけど、それが何かはさっぱし分からない。
「どうしたの? 栞」
母の呼びかけになんと答えたものか。
立ちすくんでいるわたしに母は言葉を続ける。
「先に待っている人も、貴女が待たせている人も、そのままじゃ、悪いわよ」
そう言いながら、母は微笑む。
いつものように呑気な顔のまま。
自分の親なのに、初めて見る人みたいな感覚もあるのは何故だろうか?
自分の母親なのに、自分の母親に見えないこの状態。
漠然と不安だけが広がっていくことに耐えかねて、わたしは急いで、玄関に向かっていった。
本日二回目の更新です。
よろしくお願い致します。